「かなし」を辞書で調べると、以下の様に3種の漢字と6種の意味がある。
「かな・し(愛し)」には、
➀ しみじみとかわいい。いとしい
➁ 身に染みて面白い。素晴らしい。心惹かれる。
「悲し」「哀し」には
③ 切なく悲しい ➃ 不憫だ ⑤ 悔しい残念だ、⑥ 貧しい。生活が苦しい
従ってこの句、作者は「愛し」の➀と➁の意味で使ったに違いない。
寒風が吹き、雪が降り、空気が乾燥しているので
100キロ先の熱海からスカイツリーが良く見えます。
「かなし」を辞書で調べると、以下の様に3種の漢字と6種の意味がある。
「かな・し(愛し)」には、
➀ しみじみとかわいい。いとしい
➁ 身に染みて面白い。素晴らしい。心惹かれる。
「悲し」「哀し」には
③ 切なく悲しい ➃ 不憫だ ⑤ 悔しい残念だ、⑥ 貧しい。生活が苦しい
従ってこの句、作者は「愛し」の➀と➁の意味で使ったに違いない。
寒風が吹き、雪が降り、空気が乾燥しているので
100キロ先の熱海からスカイツリーが良く見えます。
昔、一文銭の重さを「一文目」と呼び、「一匁」と書いたそうです。今でも5円玉が同じ重さで、グラムで言うと3.75gです。ですから百目柿の「百目」は、百匁(もんめ)のことで、375gの柿という意味です。
16個入りの山梨産の生の甲州百目という品種の百目柿をいただいたので、皮をむいて物干し竿に干しました。一週間ほどで渋が抜け、まだ柔らかいのですが食べられました。完全な干し柿になる前に無くなりそうです。
スイセン(水仙)
(げんだこが なくなったらし きりぎりす)
胼胝(たこ)は、野球のバットやテニスラケット、剣道の竹刀など大抵のスポーツをやるとできるが、楽器演奏でもできる。陶芸を仕事にしたおかげで、私のギター弦胼胝は、すっかりなくなり柔らかくなってしまった。
先日、50年前に作詞作曲した歌の話を友人にしたら「覚えているなら歌え」と言われ、久し振りに思い出して歌ってみた。歌は、なんとか思い出して歌えたが、ギターの弦を押さえる指が痛くてならなかった。
さて、現実のキリギリスに弦胼胝のようなものができるかどうか知らないが、イソップ童話の「アリとキリギリス」のキリギリスは、確かバイオリンを弾くから弦胼胝が出来ているに違いない。
この童話には、冬になって食べ物がなくなったキリギリスが、蟻の家に行って食べ物を乞うのですが、実は三つの結末があるそうです。
➀ アリは、一切食べ物をあげなかったので、キリギリスは死んでしまった。これが原作らしいですが、これではキリギリスが可愛そうなので、
➁ アリは、キリギリスを家に入れてあげて、一緒に食事をして救い、お礼にキリギリスはバイオリンを演奏した。
③ キリギリスは、アリに「私の亡骸を食べて生き延びて下さい」と言って死んだ。
ハクサイ(白菜)
投稿 鯨児
まず、今回の句会の季語について、俳句大歳時記から引いておく。
「季語の「残る虫」とは、晩秋に細々と間延びした鳴き方をする虫(主にこおろぎ)を言う。晩秋のあわれと生に対する懸命さがこめられている。」
秋も深まると、夏の間繁茂していた雑草も、勢いが失せ自壊していく。そしてその草葉の陰で、合唱していた虫たちも、輪唱さらには二重唱、独唱となっていく。大歳時記」に書かれているように、「残る虫」は、もののあわれ、生への懸命さを詠うのに、ふさわしい季語といえる。ただ、ふさわしいが故に、作句する場合、ステレオタイプになりがちである。この句の優れている点は、いくつかの点で、このステレオタイプ破りを行っていることにある。
まず一つ目は、有機から無機への転化である。つまり有機的な虫そして雑草群を、無機的な陶器そして骨董店に代えた点にある。有機から無機というと、もののあわれ、生への懸命さが減じるという見方もある。しかし、無機にも無機のあわれがある。
勝手な想像であるが、この白釉の壺、陶芸家によって生を享け、展覧会やお店に陳列され、お金持ちに買われ、花が生けられ、邸宅の床の間に鎮座という華やかな時代もあったかもしれない。そして代がわりして、無用となり、この骨董店に引き取られていったのかもしれない。
次に、この句の素晴らしい点は、聴覚の句になるものを視覚の句にかえたことである。つまり生への懸命さを告げる「残る虫」の音を、白釉という色彩、壺という形に転化している。数多く並べてある骨董店の品物の中で、その白さと形で、「残る虫」のように自らの存在を告げる白釉壺。目に浮かぶようである。
トウガラシ(唐辛子)
黄金色の稲穂が刈り取られると、田の様相は一変する。刈られた稲は、孟宗竹で作られた稲架(はざ)に掛け、天日干し乾燥させる。この句の案山子(かかし)は、スズメやカラス対策として最後のご奉公で立てられているので、稲扱き(いねこき)が終わると処分される運命である。
私の知っている案山子は、捨てても良いような安直な材料で作られ、へのへのもへじの様な不細工な手描きの顔が多かった。従って、くしゃみしているような案山子もある。
本来、刈田を煙が這うのは、籾すりの終わった時に出るもみ殻を燃やす煙なのだが、時期がずれているから、稲藁など何か別のものを燃やしているのかもしれない。
ところが、最近の稲刈りは、コンバインで刈り取り、脱穀、藁の裁断までやってしまうので、便利にはなったが田園風景から案山子や稲架、もみ殻焼の煙も消えてしまった。
ブロッコリー
NHKの連続ドラマ「お帰りモネ」が終わった。原作者安達奈緒子の脚本と一木正恵の演出が秀逸である。東日本大震災に被災した気仙沼の人々の悲しみや葛藤を描き、立ち直ってゆく過程を描写している。気象的水の循環や水産業の漁や牡蠣の養殖など、専門的なことも詳しい。
気仙沼市では、3、11での死者は1218名、行方不明者は未だに214名である。仲良く支え合ってきた妻を失ったことを受け入れられない男の苦悩。祖母を残して逃げてしまった一生消せないであろう娘の後悔。姉妹でさえ震災時の状況が違って分かり合えなくなってしまう。しかし、心を通じ合う時の少ない言葉の演出に説得力があるのだ。
身内や友人を失った人々の様々な状況を描いたこのドラマの視聴率がそれほど高まらなかったのは、内容が視聴者には重過ぎたからかもしれない。
さてこの句の作者が、放射能汚染による福島の避難民であることを想うと、住む場所を失った喪失感はいかなるものか、想像を絶するであろう。しかし私には、一日も早く帰宅できるよう祈ることしかできない。
シュウメイギク(秋明菊)
残る虫群れにはならぬ下駄の音 裕
冬近し被災跡にも煮焚きの火
苅田這う煙にくしゃみ案山子かな 鯨児
黙もぐと葉虫が描く抽象画
避難児の校門静か秋の雨 豊春
残る虫骨董店の白釉壺
すがれ虫闇に沈んでいたき夜 さくら
長き夜や町のあちこち不眠症
気まぐれな電波時計や鰯雲 光子
物憂げにそよぐ河原の芒かな
稲の香や風友として大空へ イヨ
暗き夜をなほ暗くして刈田伏し
鵙高音だれに気兼ねをするでなし 凛
大声のおしゃべりが好きちゃんちゃんこ
友逝きて我もいつしか残る虫 貴美
密なくて水をすするか秋の蝶
蜉蝣の風向くままや尾の細き 沙会
木犀の香と行く坂の石畳
小田急線秋めく空と受験生 杏
神無月九品仏を拝みたり
木犀が匂う陰より日向まで 鞠
秋草にマスク掛けてる悲しいよ
十三夜幸せ浴びている不思議 黄玉
収穫の歓び供う十三夜
鯨のおなかは音響装置秋深む 薪
天国が在れば野菊の道辿る
半導体の争奪戦秋刀魚焼く 炎火
金秋や柱状節理を叩く滝
枯葉散るウイーンの森の旅人に パピ
今日もまた数独にはまったすがれ虫
鳥渡る今日こそ髪をカットせん 洋子
新走り息子励まし送り出す
未舗装の道が少なく四季とぼし 余白
朝散歩足元からの秋の音
椋鳥の右往左往や暮泥む 稱子
秋夕焼ふわり白鷺神田川
爽籟や無口が飲める赤ワイン 雲水
弦胼胝がなくなったらし螽斯
酔芙蓉
「夢の瀬」・・・聞いたことのない言葉だが、夢から目覚める頃のことだろうとは思ったが、一応ネットで調べて見た。すると「瀬」とは、➀川の浅いところ、➁川の流れの急なところ ③人が物事に出会う機などとある。逆に流れが緩く深いところは「淵」である。どうも本来の意味とは違うようである。
例えば、「年の瀬」という言葉があるが、その語源は「江戸時代はツケ払いであり、たまったツケ払いのせいで年の暮は落ち着かないことから、年の瀬という言葉が生まれたと言われている。年の瀬の瀬は流れが急で速い川を示す言葉であり、年に瀬という言葉を組み合わすことで、12月の忙しく慌ただしく時間が過ぎていく様子を意味している。」とある。
それはともあれ、作者の造語であろう「夢の瀬」が、「正に夢から覚めむとしている時間」という新しい意味の言葉として定着すれば、造語大賞にしても良い、と私は思う。
さて、今は鳥の渡りの時期である。夏鳥の燕は南へ帰って行った。留鳥のヒヨドリ、ムクドリなども群なして西へ移動している。そしてまもなく、冬鳥のジョウビタキ、ツグミなどが大陸から渡ってくる。秋は、小鳥たちのやって来るのが待ち遠しい。
ホトトギス(杜鵑)
花の柄(デザイン)が鳥のホトトギスに似ているから名付けられたそうですが、花が先か鳥が先か判然としません。
投稿 籠りの鯨児
「法師蝉はGの音をあげてあの世に行く、読売ジャイアンツファンの私もこうありたいものだ」
この句を読んだ時、作者は絶対音感の持ち主で、熱狂的なジャイアンツのファンと思った。あとでお聞きしたら、ひいきは中日とのこと。それであればCとか、Dとかにすればと思った。しかしCには広島、そしてDには、DeNAがあってなかなかむずかしい。ただ絶対音感の方は、あたっていたみたいで、最後の音を、ピアノで弾けばソ(G)になると、句会でことなげにお話になった。
絶対音感の持ち主は、蝉の音を含めて、こんな風にありとあらゆる音の高さを瞬時に認識できる。そして楽器があればすぐその音を再現することができる。たとえば、赤ちゃんの鳴き声を聞いて、それをピアノで演奏できるということである。ひょっとしたら、この方は家のピアノで、これが今のミンミン蝉の鳴き声、これが法師蝉のトリル、そしてソ(G)のフェルマータで終わりなんて、楽しんでいるかもしれない。夏休みにお孫さんが来たり、友人など招きパーティなどした時には、大うけ間違いなしであろう。絶対音感とは言わないが、このように何か秀でたものがあると、人生はがぜん楽しくなり、そして「幸せ指数」が増すことになる。
今「幸せ指数」などという言葉を使った。これは、格差社会のコロナ渦で、旅行であるとか宴会そしてコンサート等々、従来の楽しみがなくなった世の中に、トレンドになっている言葉である。そしてこれは、出かけられないこともあって、これまで「楽しみ」とされなかった家庭のものに光があてられることになる。たとえば、料理包丁。家で料理を作る機会が増え、一ランク上の包丁を買い求める人が増え、合羽橋の包丁屋さんでは、売り切れ続出となったということである。切れ味抜群の包丁で調理し、美味しいものを食べる。確実に「幸せ度」アップである。コロナ渦、こんな価値変換も行われ、いろいろな幸せが評価あるいは再評価されることになり、興味深い。時代は「お金持ちから幸せ持ちへ」である。
さしあたり、私は虫の音にDの音を見つけ、ピアノで鳴らしてみたい。ちなみに私はDeNAのファンである。
ヨメナ(嫁菜)
我が家の家庭菜園では、春夏野菜のジャガイモ、アスパラガス、トマト、キューリ、モロヘイヤ、シシトウなどが終わりを迎えた。枯れかかったトマトにまだ青い実が付いていたが、ほとんど引き抜いて、秋耕と冬野菜の種蒔きを始めた。そんな中で、少しずつ色付き始めて元気なのが唐辛子で、青いのが沢山あるのでまだまだ引き抜くことができない。
さて、ピーマン、シシトウ、ナス、唐辛子は、ナス科で表面の艶が、作者の言うように確かにメタリックである。作者の夏野菜の枯れ始めた荒畑では、品種の違いからか唐辛子は早くも色づいているという
トウガラシ(唐辛子)
50年前、放浪の旅をしていた頃、九州の居酒屋のメニューに「焼唐辛子」があった。何だろうと好奇心が働き、注文してみた。たしか鰹節と醤油がかかり、辛いには辛かったが、なかなか旨かった。
調べてみると、ししとう、甘長唐辛子、伏見唐辛子、万願寺唐辛子などが使われている。今どきは、生姜、大蒜、玉葱、胡麻、鰹節、乾燥海老、バター、醤油、などで調理しているらしい。
又、最近「柚子胡椒」の胡椒が青唐辛子だということを知った。唐辛子は、青いままで立派に辛いから、赤くなるまで待つ必要はないのだ。香りの柚子と辛みの唐辛子の相性は抜群である。
私は、昔から唐辛子が大好きで、朝から味噌汁にたっぷり唐辛子を入れて食べているが、どうやら作者も無類の唐辛子好きらしい。
唐辛子舌をちゞめて蕎麦啜る 沙会
なども、唐辛子好きでなければできない句だろう。
タマアジサイ(玉紫陽花)
フランスの歌手ジョルジュ・ムスタキに「私の孤独」というシャンソンがある。詩を要約すると、
「私には、孤独という恋人がいる。彼女は、いつも僕のそばにいて離れることがない。ベッドに寄り添う彼女と仲良くすべきか、抵抗すべきか、悩んだ時もある。僕に新しい恋人ができても、彼女は決してめげずについてくる。だから、私が死を迎えるとき、きっと最後の伴侶になるだろう」
人は、母の胎内から独りで生まれてくる。そして、両親・兄弟・姉妹・師匠・友人、伴侶、子と家庭を営み、社会生活を営む。そして、究極独りで死んで行くのだ「そんなことは、誰でも知っている」と人は言うだろう
しかし、人は決して独りではない。寄り添う親友は鉦叩きかもしれないし、恋人は野菊や枝豆かもしれない。伴侶は雨や風や月かもしれない。五感をもって心を開けば、無数の友達がいることを発見するだろう。
キョウチクトウ(夾竹桃)
この句は、野分(台風)の過ぎた後の荒れた畑に、真っ赤に色づいた唐辛子がいつもより美しく見えた、という意味であるが、安永五年(一七七六年)蕪村が六十才の頃の句である。蕪村は、還暦を過ぎてからどんどん詩情が豊かになり、絵画や俳句にみずみずしさが増していったという。江戸時代の傑出した俳人と言えば、芭蕉、蕪村、一茶がいるが、彼らの個性の相違は、江戸時代の豊かさを象徴している。
森本哲郎の「月は東に―蕪村の夢 漱石の幻」によると、「草枕」は、蕪村の絵画と俳句に惹かれた漱石が、それを小説化したものだ、と言っている。主人公の画家は蕪村自身に違いない、と断定している。
漱石は草枕の中で、非人情の世界、つまり自然界の山川草木に感動する興趣、感興を美として絵画や俳句に表現したのが、蕪村だった、と言っているのである。
これと同じ意味が、「花鳥諷詠」で、歳時記は時候、天文、生活、植物、動物などに分類されているが、多くの感動が言葉になり季語となったと言えるのではないだろうか。
カラスウリ(烏瓜)
校庭に、使い終わった廃棄処分のタイヤがある。タイヤを並べて地面に半分埋めて、子供たちが跳ぶもの。タイヤをぶら下げて、乗ったり穴をくぐったりするもの。チューブに空気を入れたら浮き輪になる。
ギザギザイボイボで心円の人工的なタイヤに、トンボが止まる。人間界と自然界、人間のいとなみと動物のいとなみの対比に思いが至る。、
地球に人類が生まれなかったら、どんな世界が広がっていただろうか。産業革命以後、人間は科学の発展と資本主義の元、自然を破壊しつつ便利さや快適さを追求して、様々なものを作り続けた。人間の工場生産した物のほとんどは、究極ゴミを作っているのと同じである。
CO2排出によって地球温暖化が進み、砂漠化による森林火災がある一方、多雨による洪水が多発している。人類は、着実に破滅に向っているような気がする。
クズ(葛)・秋の七草の一つ
作物は、実を付けると種子を残す。その種子を蒔けば、次年度の作物が育つのが本来だ(固定種、在来種)。しかし、現代農業では種苗会社から購入した種子を使って作物を生産することが一般的になった。種苗会社の種子のほとんどは、一代交配種(F1)という種子で、実った種子を採って次年度に蒔いても同じ実りが期待できない。従って、農家は毎年新しい種子を購入しなければならないのである。
一方、米、麦、大豆などの主要作物は、国や都道府県の農業試験場で新品種の研究などによって、種子が守られてきたが、その種子法が2018年に廃止され、民間に開放された。
又、バイオテクノロジーが進化し、遺伝子組み換え種子が生産され、問題になっている。例えば、アメリカ大手のバイエル社(旧モンサント社)は、自社除草剤に耐性を持つ遺伝子組み換え大豆の種子を作った。これは、除草剤を撒いたとき、雑草は枯れても大豆だけは枯れないのである。しかし、その安全性が大いに疑問視されている。
さて、人間誰でも死ぬことは分かっているが、「一年以内に自分が死ぬ」とはほとんど考えてはいないだろう。だから当然のこととして、来年のために種子を採るのである。この句、作者が卒寿であるが故に、ことさら説得力があり感慨深いものがある。
ミソハギ(禊萩)