「角川俳句大歳時記」。この索引欄には、さまざまな季語が並んでいる。そしてそうしたものの中に、こんなもの使えるのかと思うような季語もある。たとえば、「田鼠化して鶉と為る」。これは「でんそかしてうずらとなる」と読み、「モグラがこの時期には姿をひそめ、ウズラに姿を変えて活動する時節」をあらわす春の季語である。なんと季語だけで十二字。こんな長い季語で句として成立するのかと、例句の欄を見てみる。すると
「田鼠化して鶉と為る舌にピアス」(中田千津子)」という超絶的なる句がちゃんとある。ただこのように丸ごと使うことはまれで、
「田に老いて鶉顔なる鼠かな(佐々木北涯)」のようにデフォルメされ使用される場合が多い。そしていつの日にか、この季語で一句ひねってみようと思うようになった。ちょうど映画連句で、春の喪のテーマがまわってきたので使うことにした。
「田鼠も鶉わたしは何に」という七七の句である。沢田研二の映画『魔界転生』(1981年)を下地とした、転生の句である。
転生は、宗教じみていて仰々しい。しかしながら、火葬場の煙突から大気中にのぼった私の粒子が、海に落ち魚に喰われれば魚に。そしてその魚を人が食べれば、また人間に転生するだけの話で、至極当たり前の話である。まあ死後の自分がどうなるかなど、どうでもいい話なのだが、「わたしは何に」なので、転生先を少し考えてみた。今の人間も悪くはないのだが、人間は何かと小忙しいので、これから成長する樹木の近くの土を候補に挙げてみた。樹木の養分となり、日の光を浴び、鳥のさえずりを聞き成長する。こんな転生先もなかなかいいのではないか。(鯨兒記)
ハンゲショウ(半夏生)、別名カタシログサ(片白草)