はちきんizyのアメリカ丼

料理にすると丼カップル
はちきんイジーとアメリカンいごっそうバッキーの
山あり谷ありの国際結婚ブログです。

命日

2009-03-04 | 日本の家族

 般若心経 を唱える祖母の低い声が お線香の香りと一緒になって

 私の耳に響いてくる。

母変わりに、私を18ヶ月の時から育ててくれた祖母は 

毎朝 毎夕 お仏壇 に手を会わせ お経を唱えていた。

3月3日は祖母の 命日 だ。

            
    
           (祖母40歳)



高知の古い家に生まれた祖母は 

彼女を産むや 実家に帰された 実母を知ることなく育った。

その後、嫁いできた体の弱い 継母 は 床につくことが多く、

その為かどうか 祖母は 料理や裁縫の 苦手な人 だった。

母というのもを 知らず に 彼女も 又 育っている。


             

          (右は父)

昭和36年に祖父が 亡くなって から 

彼の残してくれたお金で暮らしを立てていた祖母だったが、

物価が 予想以上 にあがり、

収入源のなかった私たちにとって生計は きつい ものだった。

貧乏だったんだが 何故か 私には その 意識 があまりなかった。

確かに自分の生活が他の人たちと 違う ことに 徐々に気付いてはきたが、、。 

それまでお金に困った生活をしたことのなかった祖母は

 お金はなくとも 貧乏にうまく 染まらなかった のかもしれない。 


私の誕生日に 8の字が二つ あるので 祖母は私によくこう云った。

”八の字は 末広がりという。

それを二つもって生まれたあんたの人生は どんどん開けていく。

止まん雨はない。”
 と、、、。


止まない雨はない


日は 又 昇る  
 

般若心経を祈りをこめて唱えます。



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父の命日

2009-02-05 | 日本の家族
”公園に梅咲いた。赤、白、まぜて 梅咲いた。”

祖母はこの唄をよく口すさんでは 父の 自慢話 をした。

”アンタのお父さんは この詩を7歳の時につくった、

勉強も出来、走ったら早いし、絵を書かせたらうまいし、、何でも出来る子やった。”


父は 祖父母の 自慢の種 だったようだ。

でも、その後の彼の自慢話を 祖母から聞いたことはなかった。

叔母の話によると 小さな漁村に住んでいた 青年期の彼は  

かなりの 変わり者 だったらしい。

祖父が亡くなって、高知市に移った私たちは 曾祖母の離れを借りて暮らしていた。

4畳半の一階の部屋には 片隅に小さなガスレンジがあり 

そこで料理ををして 食事をしたり、テレビを見たり、

お客さんが来れば その部屋でお茶を飲んだり、

夜になると 私と祖母で 布団を敷いて寝ていた、

台所兼 居間兼、ダイニングルーム兼、寝室だった。

2階は父の寝室になっていた。

            
From Drop Box

私が6歳の時に父は 山と海に囲まれた 精神病院 に入院した。

時々外泊をもらって 帰ってきていた父は、

祖母に 暴力をふるう 事がしばしばあった。

一度 ご飯を入れる木のおひつの蓋で 

祖母の頭を おもいっきり 叩いたことがあり、

子供の私にも ショッキング だったのだろう、

その光景は 今でもはっきりと思い出せる。

こうした父からの暴力があると 私と 祖母は 近くの公園に 逃げた

公園への道、夜空に浮かぶ 月や星が 一緒に歩いてくるのを 不思議に思いながら、

まるで 遊びにでも来たかのような思いで

 私は一人でブランコに乗り、ついてきた月や星を見上げていた。

悲しみも 恐れも そんな心はなく どこか 冷めていた

街灯の光のあたらない 真っ暗な闇 の中にあったベンチに

 頭を垂れて座っていた 祖母が とても弱弱しく見えた。


父の命日になると 子供の頃を思い出す。    

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フイフテイー ツー

2008-08-28 | 日本の家族

28日は私の52回目の誕生日。

数が増えて来ると嫌がる女性が多いが、

( 先日も 60歳になった知人が 嫌がって 家族からも隠れてたみたい。)

私にとっては誕生日はやっぱり嬉しい日だ。

毎年 誕生日が近づくと 日本の家族から荷物が届く。

これも 又 嬉しいものだ。

両親が離婚し 父方で育った私が 母親に会ったのは 私が36才?の時だったと思う。

それから毎年 母は私の誕生日に荷物を送ってくれる。

今年も素敵なものを頂いた。

私のブログを読んでくれてる彼らが

けいちゃんやカメ君の服を選んでくれた。


   

                               


そして何よりも 嬉しかったのは、父違いの妹がデザインしたTシャツ。

それも けいちゃんとお揃いだ! 


                        


妹には3才になる女の子がいる。

私の唯一の日本人の姪っ子の通う幼稚園でTシャツのデザインを応募しており

それに妹の作品が選ばれたらしい。

隅にある てんとう虫は彼女のトレードマークだと思う。


上の写真は 義弟が今年 姫路であった "現代美術ビエンナーレ2008展

                


に出品した作品

荷物に入っていたパンフレットに載っていた写真を

私のデジカメで撮ったものを載せ 申し訳ないが、、、。

義弟は京都の北山植物園や 京都文化芸術会館でも 時々個展を開く事があるらしい。

木を素材にした作品が多いが これは 何で作られてるんだろう?



今年も有り難う! 

私は ”年を取るごとに幸せが増えていってる”そんな毎日が送れています。

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探し人

2008-06-18 | 日本の家族
私は最後の家系で、家に伝わる家系図を持っているのですが、

書体が古く、読む事ができません。

          


こういったものを 現代日本語に直してくれる人を探しています。

どんな情報でもいいです。

教えてもらえると嬉しいです。

いつか英語にも直し、娘や孫たちに渡したいんですよ。にほんブログ村ブログランキング参加用リンク一覧

嵐の中で思い出す祖母

2008-06-09 | 日本の家族
最近 毎日のように 嵐がこの辺りを襲っている。

強い風と雨が来るかと思うや、あっという間に去り 青空が顔を出す。

窓を少し開け スクリーンごしに入って来る風を 頬にあてながら

狂ったように踊る 庭の松の木をぼんやり見ていた。

年をとる毎に 子どもの頃の事を思い出す事が多くなって来たのだが、

こんな強い風にあたっていると 必ず思い出す事がある。

私が育った高知は 毎年いくつかの台風に襲われる。

ある年 強い台風が訪れた。

小学生の小さな私と 年老いた祖母が

強い風に今にも飛ばされそうな 大きなガラス戸を支えていた その風景が、

まるで 第三者が見ているかのように、私の頭の中に焼き付いている。

怖さはなかった。


そうだ。

おばあちゃんのあの必死な顔が、忘れられないからだ。

始めてみた 強い顔。

私と祖母と父が 祖母の継母の住む高知市の家の離れで

借家暮らしをしていた頃、

母屋に住んでいた気の強い 継母の義妹に

何か言われる度に祖母は メソメソ泣いていた。

”泣くほど いやなら 面と向って 言ってやれ!” と、

気の強い私はそんな事を祖母に言った事もあった。

いとこはそんな祖母を”優しいおばあちゃん”と、

とらえていたようだが、

母親変りだった祖母を 私は ”弱い人”としてしか見ていなかった。


山のような”ごめんなさい”を 私は貴方に借りたままです。 ライフスタイルブログブログランキング参加用リンク一覧

おばあちゃんが逝った日

2008-03-03 | 日本の家族
中学の卒業遠足は高知の宇佐町だった。

海岸沿いにあるその町は

今、鯨やイルカの見える事で人気を呼んでいるらしい。

祖母の家族の墓のあるその町で私は両親が離婚してから

5才までの数年間を祖父母と父と共に暮した。

その日は真っ青な海を向こうに

それぞれ違う高校に行ってしまうかも知れない友達とお弁当を食べ

噂話をしたり わいわい 楽しく過ごした事だ。

午後 バスで学校に戻るや

”校長先生の所に行くように、、、” と連絡が入った。

その頃 まじめな生徒だった私は、

”何を褒められるんだろう。” と

うきうきした思いで校長室のドアをノックした。

ソフアーに座った私のすぐ隣に校長先生は座り

私の手を握り自分の膝の上に置いた。

何か 様子がおかしい、そんな想いをしていると 校長先生が、

”君はおばあさんと二人暮らしだったね、” と 切り出した。

祖父が亡くなって 祖母は家を売り 高知市に住む継母の家の離れに

私と父を連れ引っ越した。

分裂病であった父がそれから一年後に入院してから

小さな台所と二間のあるその離れで

私と祖母は約10年間 二人暮らしをした。


           

”おばあさんが 今日交通事故にあって、、、”

という校長先生の言葉に

病院のベッドで横になっている祖母の姿が浮かんだ。

その後先生が言った

”、、、亡くなられた。” の言葉を確かに耳にしたのだが、

そこから何か脳が麻痺でもしたかのようになり、

その後に続いた校長先生の言葉は耳にも入らず

そこで 記憶が消えてしまった。

廊下で私を待っていてくれた親友が

コートを引きずりながらでてきた私を見て 泣き出したと言っていた。

70代にはいっていた祖母は

高血圧などの持病でほとんど寝て暮していたが、

祖母の死など その頃の私は考えた事もなかった。

学校ではまじめで私の性格を”やさしい”と表現する友達もいたが

頑固で口達者な私は祖母にたいしてかなりきつい事を言っていた。

亡くなった朝 女学校時代の友人を訪ねた祖母は

口の悪い私の事での悩みを話したという。

今も私はその事を深く後悔する。



祖母の冥福は何よりも私が幸福にまっすぐ生きていく事だろう。

この年になって 時々私は自分の中で生きている祖母を感じる事がある。

そんな自分を大切にしていきたいと思う。

そして 今も 私をしっかりと見守ってくれる祖母を感じ

そんな ”見えない力 ”に心から感謝する事だ。

3月3日は祖母の命日だ。

海外育児ブログランキング参加用リンク一覧長い話を読んでくれて有り難う。

明治の女

2008-02-26 | 日本の家族

これは私の祖母が16才の時の写真です。

 気のせいか とても大人っぽく見えてしまいます。

そう言えば昔の人は結婚するのも早かったんですよね。

祖母は明治31年、高知県の久礼という町に住む古い家に産まれました。

             

これは私の曾祖父、祖母の父親です。

彼は高知の安芸早水の娘 久寿代と結婚しました。

彼らの名前を出したのは もしこれを読んでいる人で

彼らに心あたりがあったらと 考えての事です。

結婚後 久寿代は私の祖母を産むや 義母 竹により実家に帰されました。

理由は”お金使いが荒い為”と聞きます。

曾祖父の母 竹は早くに夫を亡くし女一人で幼少の曾祖父を育て、

家を守ってきました。

明治の女は強いと聞きますが、彼女もその一人です。

嫁に家のお金を着物等に使われたくなかった竹の気持ちも

分からない訳ではないですが、 気になるのは

子どもをおいて実家に帰らなくてはいけなかった久寿代です。

どんなに辛かっただろう。

その後、再婚をして子どもを生み幸せに生きてきたのだろうか?

たとえ 幸せな人生を送ったとしても

育てる事のできなかった我が子の事を 忘れる事はなかったでしょう。


時代が生んだ罪です。


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お経

2008-02-05 | 日本の家族
私を育ててくれた祖母はよく般若心経を唱えていました。

子どもの頃は時々 隣に座らされた事もありました。

そのせいか 般若心経はなつかしい響きをもっています。

祖母のような流れで唱える事はできませんが、

ふられている ひらがなを 追いながら 何度か 唱えさせてもらいました。


交通事故で亡くなった 祖母を思う時、

あの世で痛みから開放され安らかにしている事を願い唱えます。

私の事を心配していた祖母の供養は

なによりも私がこの世で幸せに暮らす事だと信じています。


父を思う時 私は彼の魂を求めて唱えてしまいます。

父は青年期に精神分裂病と診断され、

その後 欧米で分裂病者にされていた

外的手術である ロボトミーを受けました。

社会復帰は結局できず、海のそばにある高知の精神病院で

15年間 入院生活をおくり 心筋梗塞で亡くなりました。

今はもう行われていないロボトミーは

患者を無気力、無感情にします。

父が入院したのは昭和30年代後半でしたが、

その頃の精神病者の治療の目的は 彼らの社会復帰ではなく

患者をおとなしくさせる事であり、

カウンセリングより 強い精神安定剤が使われました。


私が知っている父はもうすっかり 薬づけにされていました。



もう寝ます。


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父の命日にあたって

2008-02-03 | 日本の家族
私がまだ大学の寮で暮していた2月のある夜、

高知の叔母からめずらしく電話がありました。

”お父さんが亡くなった。”

と急にきりだした彼女の言葉の意味が現実のものに受け入れられず

ボーとしたまま 後から続く彼女の声を聞いていました。

”お父さんは もう骨になったし、テストを済ませてから帰ってきなさい。”

2月5日の父の命日は今年30年祭を迎える事もあってか

去年の暮れごろから気になりはじめていました。

私が最後の家系となり 日本にはもう父の命日を祈ってくれる人はいません。

日本の2月5日はこちらでは4日にあたりますが、

月曜は忙しく ゆっくりお祈りもできないので、

今日の日曜に 自分なりのお祈りですが、

ゆっくり御仏壇の前に座らせてもらいます。

獏じいさんはスーパーボール(フットボールの決勝戦)の

パーテイーに出かけるので、 それを待って

午後から 一人でゆっくり 座ります。


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