「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

斯波御所と遠野・弐

2008-04-19 19:16:19 | 歴史関連コラム?
 高水寺城の帯郭・・(紫波町)

 ひとつひとつの平場、帯郭は私が探訪する遠野郷内の館跡に残されるものとは桁違いの大きさ、また遠野の主城クラスの鍋倉城や横田城の比でなく、紫波郡一円と岩手郡の南部地方を領し、斯波御所と呼ばれた斯波氏の隆盛をみることができます。

○紫波、斯波氏の系譜

 斯波御所と呼ばれた斯波氏の祖は、源姓足利一族、足利家氏とされている。
 鎌倉期、紫波郡の何処かに尾張守の領地があったと伝えられ、家氏も含み歴代は尾張守であったので、おそらくそれであろう。
 
 時代は下り、建武親政が崩壊、武家方棟梁、足利尊氏により斯波家長が陸奥守、管領となって宮方、北畠顕家に対抗の図式として斯波郡へ派遣されたといわれる。
 顕家18歳、家長15歳、ミーハー的南北朝ファンにはなんともいえない組み合わせであるが、先にも記したように家長が奥州へ入っていたという痕跡は皆無であり、関東に居て盛んに南朝方の撹乱工作やら有力武家を北朝方に誘うといった工作をしていたものと思われる。

 斯波家長は北畠顕家に率いられた西上軍との戦いで若い命を散らしたといわれ、この時、家長は17歳の青年武将、子がいた形跡はなく、おそらく斯波一族の誰かが家長の跡を継承し、後に斯波郡へ下向したものと考えたいが別説も存在し、家長を名乗る一族の誰かがいたのではないのか?という説も存在している。

 さて、斯波御所の直接の系譜は、南北朝時代の初頭に足利尊氏によって任命された奥州探題、斯波家兼から始まる説が有力でもある。
 今の宮城県北部、大崎市(古川辺り)を本拠としていた大崎氏がそれである。
 
 大崎氏の歴代は北の鎮台という意味合いで奥州に威を示し、室町幕府の奥州での権威でもあったが、後に西に最上氏を分族、そして斯波に斯波御所と呼ばれる一族を配したのである。

 斯波御所の斯波氏は河東の河村氏を圧迫し、その傘下に治め、岩手郡南部地域を勢力下に置き、さらに西北の雫石地方も制圧して一族を配して、隆盛を極めたと伝えられている。


 北方、旧都南方面・・盛岡市


 現在の盛岡市、雫石方面を勢力下に置いた斯波氏、室町時代の後期になると津軽地方をほぼ勢力下に治めた三戸南部氏が岩手郡へ南下してくる。
 天文年間といわれるが、おそらくは盛岡近郊で両勢力は激突、いよいよ岩手郡をめぐって南部、斯波の両雄が対決といった時代となる。

 天文9年(1540)三戸南部の南部高信(石川高信)が南部勢を率いて岩手郡の地勢力を帰順させ、さらに雫石を攻略、これは斯波氏にとっては大きな脅威で、すかさず反撃に転じ、岩手郡の一部を回復したと伝えられる。
 一進一退の攻防の中でも斯波氏が優勢であったことも語られますが、徐々に守勢となる場面も多かったのではないのかと思われます。


 矢巾方面



○斯波氏と遠野阿曾沼氏
 
 実質の本題はここからとなりますが、前置きがかなり長くなってしまいました。

 三戸南部氏の南下攻勢に対し、斯波氏は和賀氏、稗貫氏、そして遠野阿曾沼氏に武力援助の申し入れを行い、これら諸氏が斯波氏に加勢していたという見解が示されている。

 特に後の斯波氏の家臣団の構成をみれば、和賀氏一族やら稗貫一族、さらに遠野阿曾沼氏一族と思われる名が散見されている。

 これら諸氏の武力援助によって三戸南部氏へ対抗できたともいえる内容も考えられますが、紫波町史や滝沢村史に記述される内容、すなわち遠野阿曾沼氏と紫波の関係等は遠野ではほとんど伝えられておらず、僅かに阿曾沼一族である鱒沢広勝の妻が斯波氏出であるといった内容で、多くは語られていない。

 遠野は南で接する葛西氏との関わりが多く語られるも、北の威、斯波氏とも何らかの関係もあったことは推測できますし、有力一族やら家臣同士の婚姻等の結びつきもあったのだろうと想像もできます。


○遠野綾織一族

 斯波氏へ派遣された武将に綾織広行という名が登場する。
 阿曾沼支族とも記されているが、遠野側では見られない武将である。

 南部氏との合戦で目覚しい功績を挙げ、斯波氏から賞賛され乞われた一族、綾織氏、広行の子とされる綾織越前広信が軍事顧問的な立場で斯波氏に仕え、雫石城の改修、さらに越前堰といわれる滝沢村地域の農業用水をもたらした工事で名を残し顕彰される人物として今も語り継がれている。

 おそらくは遠野の綾織地方を領していたかつての遠野西方盟主、宇夫方一族であろうと想像できる。
 弘治年間、宇夫方氏主筋の西風館氏が葛西勢といわれる一団に夜襲を受け、壊滅的な打撃を受けて遠野の歴史からひとまず消え去る事件が発生したといわれ、没落した宇夫方一族は斯波氏への加勢に活路を見出したのではないのかと私は考えている。

 他に阿曾沼支族とされる太田民部秀武の名も散見されますが、北の権威、斯波御所をめぐっての関係は遠野にも大いにあって、無関係ではなかったということ、これだけははっきり言えると思っております。

 いずれ、この方面もしっかりと紐解くこと、これも懸案事項として取り組んでみたいと思ってます。




◆遠野桜情報





 ボケていてすみません。

 早咲の桜、遠野でも早めに開花する桜はほころび始めております。
 本日(19日)は雨降で肌寒い天候でしたが、天気が回復し、陽気が戻れば一気に咲き誇る場面かと思います。

 福泉寺の桜も天候の回復で一気に開花となりそうです。

 画像は伝承園付近の桜




 ●おまけ

 朗報・・・・

 


 長男は、中学時代は剣道をしておりましたが、高校生になってからは弓道をしております。
 本日、岩手県下の高校生を集めての弓道大会が盛岡市の岩手県武道館でありましたが、160名余の選手が参加した個人の部、見事4位に入賞したとのこと・・・涙


 本日は家族で見学に隠れて行くつもりでしたが、息子からは恥しいので来るなと再三釘を刺されてまして、結局行かないでしまいました。

 情けない親なんですが、なんの大会なのか、それも知らされておりませんし、今までも大会等の応援へ行った事がありませんでしたが、好成績を収めて帰宅したこと、まずは家族で喜びあっております。

 将来は乗馬も覚えて、遠野南部流鏑馬保存会にでも入れていただいて、遠野郷八幡宮神事、遠野南部流鏑馬の射手奉行でもと密かに望んだりして・・・・汗


 賞状は学校預かり・・・とのこと。

コメント (13)
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紫波御所と遠野・壱

2008-04-17 20:48:33 | 歴史関連コラム?
 紫波高水寺城・・・紫波郡紫波町(城山公園)

 南側から


 北側から



 本丸





        ◆紫波の歴史◆

○斯波氏と紫波

 斯波氏は上の説明板に記述されるとおり、足利氏(源氏)の有力分族である。

 斯波郡(紫波郡)は奥州平泉時代は平泉藤原氏の一族、樋爪氏が統治していたが、鎌倉勢に平泉が滅ぼされると、斯波郡の河東(北上川東)は鎌倉御家人の河村氏(河村四郎秀清)に与えられ、河西は引き続き藤原一族の樋爪俊衡に安堵されたとある。

 河西の樋爪俊衡亡き後、樋爪氏がどうなったかは不明であるが、河西は大方の見解では足利一族である斯波氏に与えられたのではとのことである。
 鎌倉期と推測されますが「尾張弾正左衛門尉」の所領が郡内のどこかにあったものとの見解もあって、斯波氏と紫波郡との関係は割と古いものなようです。

 しかし、いつの時代から紫波郡が完全に斯波氏の領有することになったのか、さらに斯波氏の定住は、また河東から岩手郡内に勢力を持つ河村氏との関係は・・・まだまだ不鮮明な内容も多く、さらなる史実への紐解が必要かと思ってます。


 北上川東側(河東)


○河村氏 
 河東の大巻城を本拠に紫波郡東側から岩手郡内南部(盛岡、玉山)まで勢力下としていた河村氏は、建武親政下において、遠野南部氏の祖、南部師行と共に陸奥守北畠顕家の幕下として遠野南部家文書に名がみられる。(河村又次郎入道)

 後に宮方と武家方と国内を二分する争乱、南北朝時代の興国年間(1340前後)、八戸の南部政長(遠野南部氏先祖・師行実弟)が南軍を率いて岩手郡に南下、雫石川下流域(盛岡市厨川)で北軍と激突、この時、河村六郎なる人物が南軍側へ加担を申し入れている。
 南部政長による河村氏への勧誘が成功した内容とも考察され、以後河村氏は南朝方となっている。
 
 この合戦ではかつて共に北畠顕家の下にあった戸貫出羽前司(中条氏・稗貫氏)が北朝方となり紫波郡内の稗貫党を率いて出撃したが出羽前司は討死、南軍が盛岡近辺まで勢力を拡大することになる。


 大巻城(紫波町)


 中世山城といった雰囲気抜群の城跡(未踏)


 後に河村氏は、紫波郡に本格入部しただろう斯波氏に圧迫され、南北朝の争乱が北朝側に優勢に傾く中、各地の河村氏一族が徐々に斯波氏の家臣化の経過を辿り、斯波氏の配下となったものと解釈されている。


 しかし、不明な点も多いのは確かで、斯波氏がいつの時代に紫波に入ったものか、おそらくは当初は河村氏同様斯波氏も代官を以って本領から遠隔統治をしていたものと推測されます。

 南北朝期、北朝側の斯波氏といった印象はそのとおり大きいものですが、遠野南部家文書等の当時の史料には北軍の大将格、それも北奥羽方面での争乱に斯波氏の名は出てこない。

 北畠顕家と対峙する斯波家長が足利尊氏によって斯波郡へ派遣され奥州北朝側の総司令官といった位置付けに語られるも、家長が斯波郡はおろか奥州に下ったという痕跡は皆無である。
 斯波家長は関東方面で奥州への工作活動を行っていたものと考察され、奥州への工作活動責任者といった雰囲気が感じられます。
 家長は関東管領という職にあったとも語られますが、東北、関東方面の総大将は足利直義であるのは疑いのないことです。


 紫波の斯波氏は、南北朝後半或いは室町初期に本格下向した斯波一族で、斯波家長に繋がる一族が当初入り、大巻城の河村氏を圧迫しながら徐々に紫波郡全体に勢力を拡大していく過程があったものと私は推測しております。

 さらに1500年前後、奥州探題の大崎氏(斯波氏)による一族の分族化があり、その際に出羽の最上、さらに紫波に一族を派遣、このことが紫波御所と呼ばれる高水寺城の斯波氏の始まりであろうと考えていますが、この時にかつての斯波氏に何かしら後継が絶たれる問題等が発生したのではないのかと私は考えておりますが、さらなる研究やら調査も必要であり、識者の今後の研究成果に期待しつつ、小生も機会を捉えながらこちらも懸案として取り組めたらと思っております。

 
 参考資料等・・・紫波町史1・遠野南部家文書(八戸根城南部家文書)・北斗太平記全二巻、奥州南北朝秘史・岩手県史等・・・





 おまけ・・・桜

 紫波町は所によって7~8分咲き、城山公園は2分咲き

 城山公園



 国道396号、花巻市大迫某所

 8分咲きですかね。



 そして遠野では比較的早く開花する法務局の桜



 もう少し先ですかね・・・?

コメント (8)
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