「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

ジャウヅカ森

2007-09-30 16:40:47 | 遠野
 ジャウヅカ(ジョウヅカ)森

 「遠野物語」113
 和野にジャウヅカ森といふ所あり。象を埋めし場所なりといへり。
 ここだけは地震なしとて、近辺にては地震の折はジャウヅカ森へ逃げよと昔より言ひ伝へたり。これは確かに人を埋めた墓なり。塚のめぐりには掘あり。塚の上には石あり。
 これを掘れば祟りありといふ。





 其の位置東界の屏障をなす連岡の西麓を占め、南は明神沢、北は寺沢の間に介在し、人工を加へられし円き土塚をなし、周囲約130尺高さ約10尺、更に外方に低き土堰を周らし、且つ西部に稍々細長き平壇を付属し頂部に高さ3尺余の自然石(花崗岩)を据え、古来地震のせぬ所と伝へてゐる。・・・・・伊能嘉矩


 十三塚関連について、ご意見やご見解を伺いに遠野物語研究所を訪れましたが、先生方から、その他の塚に関する考察等もお聞かせいただきました。
 その中で、不地震地や経塚についてもお話しがあって、市内各所の不地震地や経塚の一部を示した資料をいただき、その中で、土淵のジョウ塚に関しても掲載があって、以前より山猫さん、たま千代さん、アバウトさん等がホウリョウ関連で度々訪ねられ、ブログでもアップしておりましたので、特にこのジョウ塚森に関して、色々とご教授いただきました。

 まずは、色々と考察をめぐらせる前に実際に探してみようということで、若干場所等を教えていただき、探訪して参りました。


 先生方によれば、山野に分け入って20~30メートルも入れば、行き着くとのこと、しかし、よく目を凝らし、こんもりとした円形の土盛といいますか塚を探すこと、そして石は倒れていてこちらもよく見ないと見つけ出せないかもしれないとのことでもありました。

 30日午前中、目星をつけた位置から山野突入・・・なかなかこんもりとした塚らしき形状は見つけ出せない、おまけに熊公の足跡、糞、笹竹が倒れている場所もあり、手を叩きながら探索する。

 結局、見つけられずに撤退・・・・。


 しか~し、どうしても気になってしょうがない、午後2時、準館跡探訪装備(一眼デジ、ゴム長、コンパス、軍手)で再び探索。
 今度は気合が入っている、午前中とは別な位置から山野突入、入ってすぐ気になる尾根がある。
 館跡(山城)探索では、こういった尾根の上方(館跡なら下部)部分から帯郭やら堀の下部が現れることが多いが、この感を頼りに斜面を登り始めると・・・・。



 山野に入って70~80mか?低い尾根の平らな部分に到達、するとこんもりといいますか、それらしい形状を発見、伊能先生がいうように周囲が堀のような形状・・・・どうやらここに間違いなさそうだっ・・・・ということでジャウヅカを発見・・・・。





 倒れているということでしたが、きちんと建てられているところをみますと、地域とか山林所有者等によって、修復されたようでもあります。




 高さ1メートル程、楕円形の塚で、幅2メートル程、長さ7,8メートル程か、石には文字等は確認されなかった・・・が、きちんと傍でみたわけではない。



 遠野物語では象を埋めた場所とあるが、そんなことはないだろう、また人を埋葬した墓ともあるが、おそらくは不地震関連での要石を置いた場所、或いは経塚といわれるものだろうと想像はつきます。

 いずれ、なんとか探し出すことができて、よかったと思います。
 館めぐりのノウハウが生きた思いでもあり、久々に山野徘徊で興奮いたしました。




 ジャウヅカ森への入口・・・松木の向うの山野に存在しております。
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こびり

2007-09-28 14:55:04 | 遠野
 朝から重い雲が立ち込め、雨もポツポツ、農家ではここ週末に稲刈を予定されているお宅も結構あると思いますが、なんとか思惑通り出来れば・・・と思っております。


 駒木前野の水田地帯・・・・一部、稲刈りもはじまり、コンバイン主流の昨今、ハセ掛けにこだわる方々もおられます。
 本日は雨模様で稲刈作業も中断中・・・。


 さて「こびり」・・・「こびる」ともいわれますが、祖母や両親、そして地域では「こびり」と言っております。
 農作業中の休憩時間にいただくおやつとでもいいますか、おやつも含めての休憩タイムそのものを表すこともありますが、ここではおやつという意味合いで記述いたします。


 私の少年時代のテレビ番組で「おもちゃ屋ケン・ケーキ屋けんちゃん・・・・等」ケンちゃんシリーズがございましたが、都会の子供達のことを知るドラマであり、一種の憧れなんかもありましたが、そんな中に、学校から家に帰るとおやつがあること、これにはもの凄い憧れを感じたものです。

 少年時代、おやつなんちゅうものは、ほとんどなく、強いていえば、農繁期、それも稲刈なんかで、こびりに出されたもの、それらが飯台や仏壇にあがっている、これらを食べるのが楽しみでもありました。

 それは・・・・



 がんづき、かねなり、串団子、焼餅・・・季節の果物(りんご、梨)、栗、枝豆・・・が多かったですね。
 画像は、がんづき、蒸パン、かねなり・・・(産直がんせから購入)

 祖母や伯母手作りの、がんづき、かねなりは姿形が「めぐしぇ」がったども・・・・味は天下逸品、時折食べたいとおねだりするも、こうした農繁期や特別な時でなければ作ってくれなかった。

 今は産直なんかで売りに出されたり、身近でも手に入れ易い世の中でもあります。



 かねなり


 田植や稲刈時期に田んぼの中でいただく「こびり」・・・これまた美味かった、今は農業はほとんどしていないので、子供の頃の記憶のみが懐かしい光景として残るのみ、自分の子供達にこびりの楽しさ、意義を教えてやれなかったと思うと少し残念ではあります・・・・・。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 とぴあで開催の遠野ブログ画像展

 継ぎ接ぎしていた看板、ブログ展も10月3日までということで、看板も我慢できればと思うも、とぴあ開催での一番の人出が予想される土日がありますので、やはり見苦しい看板ではダメと判断いたしまして、作り直しました。



 遠野ブログ画像展とぴあ1階セントラルコートに於いて10月3日まで・・。
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南部守行の墓と十三塚

2007-09-26 19:42:22 | 歴史・民俗
 遠野市附馬牛町東禅寺地内、大寺とよばれる場所に盛岡南部氏第13代南部守行の墓と伝えられる場所がある。

 かつては大寺院といわれ、遠野郷内にいくつもの末寺を従えていた臨済宗大宝山東禅寺が存在していた寺院跡至近の山野にその墓地は存在している。
 



 
 遠野郷内の城館跡探訪の際に共に探訪していただいた八戸の藤九郎さんを、ここ南部守行の墓もご案内したことがあったが、即、よくいわれる十三塚というものではないでしょうか?・・・と見解をいただいたことがあった。

 以前から気になっていたこと、私自身、郷土史関連をはじめた当初から気になっていたのですが、伝説的に語られ、北奥羽に覇権を築いたかのように語られる、まさに南部氏歴代の中での巨人、第13代といわれる南部守行の存在でもありました。

 そして、その南部守行は永享9年(1437)と一応伝えられますが、遠野へ軍勢を率いて来援、気仙勢、大槌勢に攻められた孤立無援となっていた遠野横田城の阿曾沼秀氏を救援、大勝利を得、そのまま大槌城を攻めるも、流れ矢に当り、陣没したとされ、その遺骸は大槌町金沢で火葬され、遺骨は遠野の東禅寺に葬られたと伝えられている。
 
 このような所伝もあり、遠野に関係ある南部守行、遠野(八戸)南部氏を主に調べている我身ながらも、盛岡(三戸)系の南部守行、どこか親しみを感じ、贔屓目にみていた武将でもあります。

 しかし、南部氏の調べが進むにつれ、南部守行は実在の人物だったのか、彼の輝かしい事績はホントだったのか、それよりも史実として遠野に本当に来たのだろうか、そんな疑問が湧き上がってきておるのも事実でもあります。


 南部守行の墓



 ○十三塚

 全国的にみられるということですが、東北地方でも数多くみられ、中世期における合戦等で討死にした武士13名を埋葬地或いは供養した場所との伝承があるようです。
 また道祖神関係や仏教的な要素も含まれたところもあるとかで、他に十三坊、十三人塚、十三壇、十三森・・・等、呼ばれるともあります。

 12プラス1・・・・○○○○○○ ● ○○○○○○

 上記のような塚の列の形状が多いそうですが、南部守行の墓の場合は墓石、墓碑
でもありますが、墓石等は13個確認できる。(文字は確認できない)



 2段の配列となっており、下段に6基、上段に7基、上段中央の1基は大きな墓石となっている。


 十三塚の伝承は明治、大正期でもみられたと言いますが、その多くは中世期が発祥で江戸期には廃れていったともいわれます。

 まさに南部守行が大槌での合戦で戦傷死、そしてその名は伝えられていないが、12人の家臣達が殉死したと伝えられること、十三塚に伝わる内容に合致することでもあり、ますます十三塚である可能性、後に伝承が付けられた可能性が高くなっている昨今でもあります。

 ただし十三塚は、発掘してもほとんどは何も出てこないといわれ、埋葬地、供養のためという伝承がどのような形で語られてきたかは、不明でもあります。


 2段下部の墓石

 
 下部、上からみて右3基


 下部、上からみて左3基



 上段の墓石・・・・上からみて左3基


 上段の墓石、中央より右側



 遠野における十三塚伝承は実は確認されない、柳田國男による十三塚調査では遠野小友の十三坊のみが記されているが、記憶が曖昧で未確認ながら北上市史に十三塚の項目があって、その中で遠野市附馬牛町に存在(上閉伊郡志)とあったような・・・しかし上閉伊郡志を確認するも見つけ出すことはできなかった。



 ○南部守行について

 陸奥南部氏中興の祖とも語られ、第13代当主。
 
 大膳太夫、陸奥守に任じられ、津軽に秋田に、そして遠野に遠征して、北奥羽での南部氏の覇を確立した武将として語られる伝説の人物でもありますが、これは戦国期における三戸南部氏の事績と混同した可能性大であり、そのほとんどの史料は江戸期に書かれた内容でもあり、何よりも陸奥守となって威を唱えたということは資料的には証明されておらず、陸奥守任官に係る古文書は偽物説もある・・というか偽物の可能性大ともされる。
 
 また、遠野へ軍勢を率い、大槌で戦死は享年79歳ともいわれる。
 人間50年といわれていた時代、当時としてはかなりの高齢、しかも史料的には北奥羽各地で安東氏と争っていたのは八戸南部であり、秋田刈和野の陣、ここでは南部守行の友軍として八戸氏は出陣したことになっていますが、この時代、刈和野辺りには八戸氏の領地があったことは明らかで、南部惣領は八戸南部氏であったこと、三戸南部、すなわち南部守行が実在の人物だったとしても、北奥羽に軍勢を差し向けたり、各地に出陣するほど大きな勢力でなかった可能性が極めて高いと思われます。

 まさに江戸期に意図的に作られた所伝、南部守行の墓といわれる存在も怪しい方向へとなってきておりますが近在に存在した東禅寺のこと、東禅寺盛岡移転に関る事柄等、調査研究すべきことが結構ございます。
 
 南部守行の墓の存在を完全否定するものではございません、明治~太平洋戦争期まで南部伯爵家から大萩の某御宅には、墓の管理費として毎年金銭が届けられていたといわれます。
 その名目は桜森神社祭祀料であったこと、神社名と南部向鶴紋が染め抜かれた幔幕もあったという、・・・このことは大萩地区にてお話しを聴けば、それなりに明らかになることでもございますが、この話も含めて、別家サイトにてコラム的に掲載したいと考えております。



 東禅寺歴
「南部氏之中祖大勝院殿前光緑太夫祖山祥高大居士之送葬耆則彼地也」

 東禅寺由緒
「大勝院殿御墓所遠野附馬牛本寺地有之追腹之十二人之由申候得共十人之墓所有之」
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十五夜・月見の宴

2007-09-25 17:23:23 | 福泉寺・伝承等
 今月8日から遠野ふるさと村において開催されていた「遠野ブログ画像展」が閉幕、引き続き10月3日まで会場を「とぴあ1階」に移して延長開催となり、24日夕方、遠野ぶれんど「ブログオヤジ戦隊、ゴレンジャー」の面々がふるさと村での撤去作業、そのままとぴあでの開催準備作業にあたったそうで、まずはたいへんご苦労様でした。
 今回私は、勤務の為、参加できず・・・おやびんのブログには当方の仕事も残されているとか記されてましたが、早速、おやびんから連絡があって看板類の手直し等の指令がありましたが、色々と諸般の事情で作業ができず、僅かに画像の差し替えとちょこっと紙の継ぎ接ぎをしましたが、ぺっこ失敗してしまい、少し見難くなってしまった・・・・汗・・・。





 差し替えした出展画像・・・・。




 

 15夜・中秋の名月

 菩提寺福泉寺と我家の伝承行事、中秋の名月を愛でる夕べとでも申しましょうか、福泉寺開山以来継続されている行事でもあります。

 私の記憶では中学の低学年頃まで、そして結婚をして長女が小学生になった頃に加わったという記憶ですが、満月をみたのは数えるくらいか、昨年も確か雨で月を愛でることは出来なかったと記憶しております。

 昨年までは長男も次女も参加してましたが、クラブ活動やらで帰りが遅く、今年は辛うじて次女が後半から加わったのみ、年々寂しくなってきております。






 ごま餅・・・・実は餅でも胡麻、胡桃餅は好物で、5個も食べてしまった・・・汗



 福泉寺のひっつみ汁

 今年のものは豆腐、舞茸、油揚といつもとは違う具が入ったものでしたが、それでも十分美味しいひっつみでもありました。
 ひっつみだんごも美味しい季節到来ですね。




 まさに満月、続石にうさぎさんはみえませんが、見事な満月でありました。
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秋の味覚

2007-09-23 21:16:50 | その他
 昨日は近所にお住まいの方の葬儀、夕方からは彼岸で訪ねた親戚の家で軽く晩酌にご相伴、本日は何をするでもなく、ただ家でネットサーフィン、こんなだったら六神石神社や村兵稲荷のお祭りに行くんだったと後悔しきりの日でもありました。




 私にとっては初物の栗、数は多くなかったけど、まずまずの味といったところ、既に市内では稲刈もはじまったところもあり秋本番・・・・・昔のように栗の木があれば栗拾いも簡単にできるご時勢ではないが、暇をみつけて持主不明の栗でも拾ってこようと思ってます・・・笑




 9月8日から開催しております「遠野ブログ画像展」もいよいよ24日が最終日、連休最後の日は、遠野ふるさと村でのんびり過すのもよいかもしれません。
 
 遠野ブログ画像展をご覧いただいた皆様、ありがとうございました。
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仲町猫っこすとりーと

2007-09-21 21:16:01 | 
 20、21日と真夏日、いったいどうしたというのだっ・・・汗・・・黙っていても汗が皮膚ににじみ出る、これは最も遅い時期に観測される真夏日更新なそうだっ・・・・。



 こんな暑い日はラーメンではなく、つけ麺・・・・実は初夏の頃から、つけ麺にはまってしまって、盛岡の某つけ麺の虜になっておりました。
 つけ麺、しばらくは止められそうにもない。(20日、野暮用で嫁さんと盛岡へ)



 ということで、会合のため夜の街に繰り出し、仲町辺りを歩いていると・・・・「おっ・・画像展に出展した当方の画像の夜バージョンが・・・・・」



 ちょっと雰囲気とは違うけど、なんとも微笑ましい・・・しかも全部で4匹の猫ちゃんが・・・・。





 自転車のカゴに入るよう促したが、無視・・・・笑・・・少なくても君達は遠野ブログ画像展で遠野で最も有名な猫となったはず・・・えっ、頼んでない、ギャラの猫飯、未払いにつき、とらねこ親父のいうことは聞くつもりはありましぇんニャーってがっ・・・笑

 道路向いにもチビニケが一匹、親兄弟の仲なのだろう・・・・。


 こちらはネネ



 息子が被った鹿子頭のかんながらがお気に入りの様子、「あらがだ、とのげんねばならねので、おじょってもらいました。」



 おまけ・・・遠野ジンギスカン


 

 遠野ぶれんど通い人さん達が遠野を離れる当日の昼、昼食会兼お別れ会ということで、ジンギスカンをいただきました。

 名残り惜しくもありましたが、大雨の影響が心配される中、ご無事のご帰還を祈りつつ、解散、この度も楽しい一時、ありがとうございました。
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遠野南部流鏑馬07

2007-09-20 17:29:58 | 遠野
 昨年は2度、遠野八幡宮での流鏑馬を楽しむことができましたが、やはり流鏑馬神事といわれる神聖な場面ともなれば、遠野郷八幡宮例大祭、9月15日に開催される流鏑馬こそが本物の証、ただ単にスピード感や迫力を楽しむのみではなく、そこには櫛引八幡宮(八戸市)での時代から伝えられ、数百年培われた伝統、伝承行事であることがあげられます。


 まずは神職共々馬場入りとなり、馬場清めの儀、続いて総奉行が的の点検を行い、点検を終えた総奉行が席につくと「遠野南部神事流鏑馬始めませ」と開始を宣言する。

 そして各持場から扇による合図が送られ、太鼓の合図でいよいよスタート・・・。

 一の射手・・・・同級生である菊池N氏(松崎町宮代)
 

 
 私は三の的付近におりましたが、一、二の的を射抜く度に大きなどよめきと拍手が沸き起こる・・・しかし、三の的は惜しくも外れる。


 惜しい・・・・。


 二の射手・・・菊池Y君(松崎町駒木)



 流鏑馬界の貴公子?・・・すっかり御馴染みの菊池Y君、射手の中では最速を誇り、まさに疾走の中から繰り出す高い命中率、ミスター流鏑馬といっても過言はないものと私は思ってます・・・笑





 一、二の的・・・当たりのアナウンス・・三の的もお見事・・・・。

 さらに二巡目・・・・。








 三射全て的中、しかも最後はど真中・・・・お見事。



 菊池Y君に大きな歓声と拍手が贈られておりました。


 つづいて三の射手・・・岩間君(松崎町駒木)



 岩間君もメディアなんかに時折登場の有名人物・・・流鏑馬の腕前も一流です。





 「パコン~」と軽快な音、矢は的板のど真中を射抜いて、的は真っ二つ・・・お見事・・・。


 さらに・・・





 ど真中・・・ストライク・・・・お見事。

 今年は27射(3名の射手が3射ずつ計3度行う)中、24射命中のすばらしい出来だったとか、昭和28年遠野南部流鏑馬保存会が結成され、故事に則った流鏑馬が復活してから最高の出来だったとのこと・・・・。


 そして忘れてはならないのが、介添奉行。
 一人の射手に一人の介添奉行が付き・・・射手が一回の流鏑馬を終えると「よう射たりや」と連呼して馬場を疾走、諸手を挙げて疾走する姿もまたお見事である。


 


 ちなみに・・・・・
 介添奉行の出場は南部流鏑馬独自のもので、その由来は、本来介添奉行は射手の世話役で演技場に出るものではないが、橘左近なる18歳の若武者が射手の役を拝命した折り、この大役を心配した祖父は自らこの介添役をかって出て、何くれと無く世話をして発進させたところが、左近は3つの的をことごとく射当てたので、あまりの嬉しさに「よく射った、よく射った」と連呼してその後を追ったのを吉例として、この行事になったと伝わっている。

 

 建武2年8月15日、遠野南部4代南部師行が青森県八戸市の櫛引八幡宮に奉納施行したものをもって創始としている。その由来は、元弘の乱で盛岡南部茂時が北条高時の滅亡に連座して鎌倉で討死にしたので、盛岡南部は一時失権した。それで、新田義貞とともに鎌倉攻めに功あった南部師行は八戸に下向し、盛岡南部に代わって南部領を統治した。当時南部氏の氏神の櫛引八幡宮は、盛岡南部の没落で祭典を中絶していたが、南部師行はこれを復活し、かつ、その祭典に鶴岡八幡宮の流鏑馬に模して流鏑馬を奉納施行した。その後盛岡南部も復活して、南部領を統治することとなり、従って櫛引八幡宮の祭典も主催することとなった。しかし、正平21年三戸南部守行は、7代八戸南部信光に、「櫛引八幡の流鏑馬は貴家師行の創始であるから、今後も引き続いて従前通り貴家で行うように・・・」と譲ったので、従前通り施行してきた。
 
 時代は移って寛永4年、八戸南部は遠野に移封を命じられたが、盛岡南部利直は「櫛引八幡の流鏑馬は、従前通り貴家において行うように・・・」と重ねて譲ったので、その後もわざわざ八戸に出張して施行した。寛永4年南部直義は遠野に移転したが、当時の遠野八幡宮は創建者の前領主、阿曽沼氏の衰退で荒廃していたのを寛文元年、現在地に遷宮し、馬場を造り、祭典に櫛引八幡宮と同様に流鏑馬を奉納した。爾来8月15日は櫛引八幡、9月15日は遠野八幡と、明治の廃藩まで連綿と施行してきたのである。
 昭和28年これを惜しむ有志によって流鏑馬保存会が結成され、古式通りに復活施行して、現在に至る。


 と以上のように流鏑馬神事開始前にアナウンスで境内に放送されますが、今年は駒木鹿子踊と共に八幡宮入り、直後に昼食を食べて速攻で流鏑馬見物、放送は耳に入らなかった。

 江戸時代、故地八戸の櫛引八幡での流鏑馬には遠野からわざわざ射手が出張して執り行っていたといわれ、現在でも遠野から保存会の面々が八戸を訪れて櫛引八幡宮での流鏑馬神事を奉納しております。(旧暦8月15日)


 盛岡(三戸)南部家に関する歴史やら八戸(遠野)南部家の歴史については、必ずしも所伝で語られる内容が史実とはいえませんが、数百年、脈々と受け継がれ、かなり古い歴史も語られる遠野南部流鏑馬神事、これも遠野の宝のひとつといえます。

 遠野祭りは、来年も暦により合同開催となりますが、こういった行事ひとつの歴史や由縁などもたまには頭の片隅に入れ、古来から先人達が培った伝統、伝承があってのこと、このことで我々は祭りを楽しむことができることに感謝しなければならないのではないでしょうか・・・・・。


 以上で当ブログの2007、遠野八幡宮例大祭、遠野まつり関連のエントリーは終了となります。
 
 
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遠野祭り・駒木鹿子踊&おまけ

2007-09-18 15:57:27 | 遠野
 14日の市街地の郷土芸能パレードは勤務の為、関ること叶わず、さらに翌15日は明番でしたが、一旦帰宅して着替え等をしてから、駒木鹿子踊に合流、主に交通安全整理員の役となって、カメラは首から提げてはいるが、他団体を撮影することはできず、しかも駒木鹿子踊も八幡宮に入るまでは、それほど枚数も撮れず仕舞いでした。

 八幡宮に行く着くと、直ぐ遠野南部流鏑馬がはじまり、まずは流鏑馬の撮影・・・流鏑馬を終えて戻ると、保存会長や事務局長の声・・・「そろそろ出番だぞっ、準備するように・・・」・・・はやっ~・・・・。


 息子もしし頭をセッティング、だいぶ慣れたようだっ・・・。


 馬場めぐり神事でのトップ芸能団体が既にスタート、本部席前に至っている。

 駒木鹿子踊は前の方で、順番は確認してませんが7番目か8番目だったかな?



 南部ばやしは最後の方の出番らしい・・・まだ休憩中のようですが、その場面を画像に収める・・・・実は今年のお祭りでの南部ばやしを含めた他団体の画像、この一枚のみです・・・・涙


 いよいよ出番



 ふくべ、中太鼓、太刀振につづいて太夫、笛、そしてしし頭が続く・・・。





 駒木ししのシンボル・・・元祖角助のしし頭



 遠野郷駒木鹿子踊、最高の踊手の象徴・・・いやっ、遠野郷しし踊第一の鹿子でもある。




 馬場めぐり神事、私が幼い頃は馬場を一周回ってから本部席で得意演目を踊ったと記憶しているが、参加団体も増えたためだろう、本部席前もただ流すだけの踊り、何かもの足りない・・・・時間の関係もあって仕方ないことでもあろうが、それでもどこかもの足りないと思うのは私だけだろうか?





 こちらは末娘・・・・長男がしし頭、娘が太刀振り・・・・。

 一年で一番心身共に高揚し、賑やかな遠野八幡宮例大祭、馬場の直線を流して踊って、今年も終ってしまいました。
 あっけないといえばそのとおり、燃え尽きたといえばそのとおり・・・・しかし、来年も日程が合致するようですから来年も大いに盛り上がるものと思います。

 まずはお祭りに参加された方、関係された方々、たいへんご苦労様でした。





 おまけ・・・・・

 恒例ノモー是ぶれんど二次会の模様・・・・。

 今回はおとなしい画像となっております・・・・。






 関東支部のお2人・・・・(ぶれんど副会長(通い人代表、山猫氏)・関東支部長ひろゆ氏)







 ぶれんどばやしと笛吹しし


 そして皆さんを魔界へ誘うお2人・・・笑








追記・・・

 少しはしゃぎ過ぎた為、お疲れモード気味となりましたので、2日ばかりブログの更新はお休みいたします。
 21日には復活予定です。
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祝・遠野ブログ画像展・・・の宴

2007-09-17 19:43:05 | 遠野
 遠野まつりの余韻が残っておりましたが、只今開催中の「遠野ブログ画像展」の中日ということで、会場である遠野ふるさと村を「まがって」(のぞいて)見て来ました。


 遠方からの遠野ぶれんど仲間が来遠中、遠野まつり目当てながらも、このブログ画像展を観る事も彼らの楽しみのひとつだったと思っております。
 





 午後1時30分、遠野ふるさと村ビジターセンター集合・・・・。

 今回画像を出展いただいておりますブロガーの皆さんと遠野ブログ画像展見学会を行いました。






 見学会参加は遠野内外ブロガー、私を含めて8名でした。

 遠野ふるさと村、肝煎りの家を見学される観光客の皆さんのほとんどが、遠野ブログ画像展にも立ち寄っていただいており、表面的には結構盛況であると思っております。

 1時間程度、画像展会場や肝煎りの家で思い思いに過し、下の休憩所で一服タイム、カキ氷等を食べながらしばし談笑、晴れ間ものぞいて暑いと思っていたが、雨が降り出してきて、雨脚が強くならないうちに撤退となりました。


 遠野ブログ画像展 開催中・・・・24日(月)まで
 遠野ふるさと村 肝煎りの家 土蔵




○夜の部・・・・魚っこ屋 於




 遠野ぶれんどによる初企画「遠野ブログ画像展」開催ということで、まずは開催を祝して、そして遠方からお越しになられた通いブロガーさん達との懇親と交流を兼ねまして盛大に宴が催されました。

 岩手県外からは・・・・
 たま千代さん、山猫さん、ひろゆさん
 遠野市外からは・・・
 hanaさん、・・・・そしてあの伝説のブログ「いまんとこ遠野なブログ」の管理人さん、まるとさんも盛岡駆け付けてくださり、宴も大いに盛り上がりました。

 そのままの勢いで二次会場の「天馬」に移動、こちらでもさらにはじけ飛び、遠野まつりを凌駕するほどの盛り上がりとなりました。

 総勢15名・・・遠野在の主力メンバーで残念ながら不参加の方もおられましたが、ここ最近での「ノモー是ぶれんど」では最高の人数、まずは楽しい宴、ありがとうございました。

 そして昼、夜とお付合いいただきました皆様、楽しかったです。
 ありがとうございました。


 次は紅葉の時期に来遠される通いブロガー迎撃のノモー是となると思います。
 よろしくお願いします。


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遠野郷八幡宮例大祭07・壱(流鏑馬)

2007-09-15 23:23:57 | 遠野
 開催日程等の事情で分裂開催が数年つづいていた遠野郷八幡宮例大祭と遠野まつりが合致、まつり最終日となる八幡宮での神輿を含む市内郷土芸能団体による馬場めぐりも盛大に開催されました。
 


 駒木鹿子踊、八幡宮に向かう道すがらでのかどかけ・・・・

 今年、しし頭デビューの長男、14日に既にデビューとなり、先輩ししには敵わないものの、だいぶその踊りもそれらしくなってきている・・・息子は右


 さて・・・八幡宮での目玉のひとつ、遠野南部流鏑馬・・・・。

 一番射手奉行・菊池N君(松崎町宮代、同級生)、二番射手奉行・菊池Y君(松崎町駒木)、三番射手奉行・岩間T君(松崎町駒木)・・・三人共に松崎町生まれ、しかも2人は駒木地区の出身、頼もしい限りです。



 二番射手奉行、菊池Y君・・・お見事、的中・・・。









 三番射手奉行岩間君、こちらも見事、的中・・・。


 今年のレベルは高く、結構的を射抜いておりました。




 観客から拍手喝采を浴び、しかも地元駒木の方に声を掛けられ、思わず顔がほころぶ、菊池Y君・・・・。


 来年のブログ画像展に使えそうです・・・・笑





 流鏑馬神事の奉納が終ると郷土芸能団体による馬場めぐりが開始されました。


 我駒木鹿子踊も早くも出番・・・・。


 郷土芸能関連は、その弐でお伝えいたします。


 祭りが終って・・・・


 長男、なにやら作戦会議らしい・・・・。

 
 ということで、遠野郷最大のイベント、永遠の日本のふるさと遠野祭りも終了、秋も深まり間もなく収穫の季節を迎えます。 
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