「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

山猫になれなかったトラ猫

2006-05-31 18:42:23 | その他
 午前8時、休耕田土手の草刈作業を開始、正味2時間半でなんとか終了。
 汗ばんだ身体、自宅にてシャワーでも浴びればいいのですが、ここは健康ランドにでも行ってサッパリとするか・・・・ということで早速風呂セット一式と着替えを車に放り込むと、マイカーは土淵方面を走っていた。

 たかむろ水光園か・・・脳裏にはそう描いていたが、そういえばつい最近、川井村小国関係の親戚の方とブログで接触がもてたこと・・・ここはひとつ小国の親戚宅を訪ねてご先祖様に手をあわせようと思い立ち、それならば健康ランドは旧新里村の「湯ったり館」だな・・・なんて思いながら立丸峠に着いた。


立丸峠



この先のカーブを曲がりますと丁字路・・・親戚宅は左に入る大仁田方面からが近い。

 小国の関根集落、親戚宅(祖父の実家)に到着、しかし留守。
 そういえば今日は平日、家人は仕事で留守・・・読みが甘かった。


親戚宅からみた風景
幼少の頃、祖母に連れられてきたことがあった、おぼろげながら橋に学校という風景に記憶があったが、十数年ぶりに訪ねた際、当時と変わらぬ景色を見て懐かしく思ったことが蘇ります。

 さて、親戚も留守、昼も過ぎたということで宮古市、旧新里の「湯ったり館」へ・・・。


湯ったり館・・・温泉施設とオートキャンプ場も併設

 1時間半程度くつろぎ、サッパリとしたところで帰途に付き、来た道を引き返しておりましたが、そういえば山猫さん、小国から荒川高原への道を断念したとか・・・ならばトラ猫が山猫になってやろう・・・ということで途中、荒川高原と出ている標識から一路荒川高原を目指す・・・。

 途中の集落、現役の南部曲屋もあってなかなかいい雰囲気、遠野以上に昔の原風景が広がっている感じ、ここで画像と思うも道幅が狭く対向車が・・・対向車がバックしてくれましたので、私は進行、広めの道幅ですれ違い何故かそのまま私は発進してしまい、すっかり曲屋のことは忘れてしまった・・・汗


大仁田牧野の「べごっこ」

 集落を過ぎて10分程度か・・・割と早く高原らしいところに行き着いた、でも何か変、「ゲートあったけが」・・・確か以前荒川高原から小国に下りた際、高原側に冬季間閉鎖のゲートがあったはず・・・「う~ん、ねがったな」ならばさらに上を目指すも、遠野側、すなわち荒川高原に着いてしまった。


残雪・・・雪渓・・・。
あのくらい降った雪、もういらないとまで思ったが、この季節になって雪を見ますと何故か得したような気分。


「ありゃ~・・・ひとつ入るところ行き過ぎて間違ったようだ」・・・汗

 そういえば途中に紫波、早池峰、荒川高原という看板がありましたが、そちらが以前下った道、また山猫氏が積雪で引き返したのもそちらであっただろう・・。

 よってトラ猫(とらねこ)は山猫になれず仕舞で家猫のまま帰途につきました・・・涙

 荒川高原から地元耳切山牧道へ・・・妻の神に出て無事に帰宅。


耳切山から遠野、松崎方面

 小国の親戚宅に行くならば、妻の神、荒川高原、大仁田、小国・・・夏場なら30分くらいで着くのではないのか・・今度試してみよう・・・本日は時間は計らなかったため・・・。
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またまた半年

2006-05-30 20:24:30 | 
 今朝の雨もあがり・・・そろそろ休耕田土手の草刈でもしなければならないと思うも、どうも気が乗らない、しからば本編サイトへの加筆作業と思うも、こちらもなかなかやる気がおきない・・・結局昼食を食べたらいつの間にか寝ていた・・・汗。

 さて、2006年も半年となろうとしている・・・ついこの間、元朝参りをし、雪掻きに追われていた日々・・春は遅いといいながらも桜の季節も終わり今は新緑の季節、おまけに躑躅も終りかけている。

 さあ~・・あと半年で正月だっ・・・・笑

 飼猫のネネは、昼は昼寝、夜は家を出て福泉寺境内やら山野を徘徊しているようで、最近は朝帰り・・・早朝3時頃から玄関前で「ニャーニャーニャー・・」とうるさい・・・家に入れて欲しいとうるさいのである、その後は餌を食べて、後は寝ているだけ・・・人間様が朝起きているのにネネは寝ている、しかも夕方まで・・・たいしたご身分でもあります。

 今日は珍しく、午後起き出して庭を散策していた・・・・。



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未来に残す・・・植樹祭

2006-05-28 16:29:25 | 遠野
 天気予報どおり、雨・・・そんな中、毎年恒例の市の植樹祭に参加いたしました。
 
 今年からは数年続いた土淵町の琴畑牧野から貞任高原に場所を移しての植樹、参加者は150名くらいか・・・雨の中、少したいへんだったけど未来につなげる植樹・・・遠野の広大な面積にすれば、また林業関係者の方々からみれば微々たる内容ながら、少しは・・・ほんと少しは何かしら未来に向けて役に立ったのかな・・なんて思ったりもしております。





場所は水芭蕉群生地の南側草地・・・。

 ひとり5~8本の唐松、ミズナラ、白樺・・・の苗木を植樹・・・豊かな森林をそして森林資源を孫子の代まで残す・・・地域環境に良い影響を与える・・・何か好きで私がやっている郷土史分野と共通する事柄が・・・当初は深く考えずに植樹作業をしておりましたが、未来につなげる行為のひとつ・・好きな分野だけではなく、色々とあるということ・・あらためまして感じた日でもありました。
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13年・・・北小運動会

2006-05-27 20:39:48 | その他
 下の娘の運動会、小学生として最後の運動会、そして親の私も小学校父兄として最後の運動会でもあり、少し感慨深げな心境でもありました。

 長女が小学校に入ってから、途切れることなく長男、そして二女・・・13年間見てきた運動会・・・・運動会に来る地域の親たちの顔ぶれもだいぶ変わり、なんか生き字引みたいな感じ・・・それでも来年からは来ることは無くなるのだなあ・・と考えると少し寂しい・・・・。


運動会のお楽しみ・・・昼食。

この昼食も最後・・・・来年からは中学校で・・・しかし中学も3年で御終いである・・・・。
かみしめながらも楽しんで、しかもじっくり味わいながら13年の思い出を脳裏に浮かべる・・・しかし、あまり思い浮かべれない・・・同じテントの低学年の子供達をみて、ようやく小さい頃の二女の姿とダブらせることができた・・・少し涙。


遠野北小名物「薬研太鼓」

 6年生では必須の薬研太鼓、頑張って練習した成果を披露したと思ってます。
 見事でした・・・・涙

 あっという間に過ぎてしまった運動会・・・13年・・・長いようで短かった13年・・・小学校の運動会を地域のテントからみる・・・孫でも小学校に入学すればまた再び見ることができる・・・歳は取りたくないがでも楽しみです・・・汗
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後醍醐天皇様

2006-05-26 16:13:21 | 歴史・民俗
 後醍醐天皇を祀る神社(祠)、私の知っている範囲では、ここ遠野では聞いたことがない、その名も「後醍醐天皇様」・・・この祠が土淵町飯豊の山中に鎮座している。

※後醍醐天皇、第96代天皇・・・南北朝時代、南朝側の象徴
 後醍醐天皇を祭神とする神社は吉野神社があるが、その創建は比較的新しく明治20年代といわれる。
 

 画像は一応、後醍醐天皇様といわれる祠を写したつもりではありますが、ここがそうかといわれれば、少し自信がない。
 実は、昨年の春、飯豊地区の簡略ながら歴史やら民俗に関わる内容を調べ本サイトへアップしましたが、この際に、妻の実家が建立とされる天皇(天王)様といわれる社も画像取材と考え、義母にその場所を聞いて画像に収めたのですが、少し場所のズレがあったような・・・・その際は私は確か天王様と共に山の神の名も聞いたような・・・いずれ行って見たら鳥居と祠があったのでまずはよしっ・・とした経緯があります。

 また、今回の話題については花館の調べの一環でもありますが、本日も妻の実家を訪ね、今一度、後醍醐天皇様の祠は何処か・・・と聞きましたが前回と同じ答えだったので、再訪いたしまして、画像に収めてきたわけです。
 それでもなんか違うような、さらに林道を進んだところに別の祠があるような・・・地元の方、違ってましたらご指摘ください。


朽ち果てた祠と現在の祠

 さて、後醍醐天皇様といわれる祠、飯豊宮澤の宮澤家(分家)が本家より分家した際に建立したと伝えられます。
 ということは大正時代か昭和の初めということになろうと思いますが、何故に後醍醐天皇なのか・・・妻の祖母によりますと、流行病の治癒を祈願しての建立と聞いているということ、修験者だったか祈祷をする方に勧められたとか・・・いずれその詳細はわからないが近年になってからの建立で間違いなさそうだ。

 飯豊宮澤(宮沢)地区・・・
 何故に宮沢といわれるのか、言い伝えによるとその昔、皇室縁の人物とか、宮中に関係する人物がこの地に流れてきて住み着いたから・・・と語られる。
 その住み着いた場所近くの沢ということで「宮」沢となったとか・・・。
 
 明治初めまでは宮沢村が存在、さらに江戸初期の寛永4年(1627)、八戸弥六郎直義(八戸直義・遠野南部氏初代)に南部藩主である南部利直から与えられた黒印状には飯豊村47石4合と共に「宮沢村33石786合」とはっきり記述されているので、宮沢という地名は少なくても阿曽沼時代には付けられていた地名であるのが伺われる。
 ですから、遠野地方でも古い神社が存在しての宮なのか、皇室縁の人物が居たという伝承による宮なのか、これはわからないが、いずれ歴史的何か存在する興味深い土地でもあり、あながち皇室縁の人物或いは公家といった宮中に関連した人物が居たということは、案外史実なのかもしれない・・・と私は考えます。


祠が鎮座する平場・・・・
 実はこの場所は宮沢チャシといわれる城館跡の一部でもあります。
 館の本郭はさらに上部の山野であるが、この場所も階段状の地形、これは何か歴史的事実が隠されているに違いないと判断しております。

 まっ、吉野神社との関連はわかりませんが、この後醍醐天皇様、古に・・それも南北朝時代に何かこの地にあったのではないのか、これはお隣沢田の花館にも関わりありそうということで、本編サイトで明らかにしたいと思います。

 余談ですが・・・
 花館を最後に下りた人物が言い伝えとして残されている。江戸時代、花館跡の館内にいくつかの家が存在したといわれる。
 朝、農地のある麓へ下りて農作業、夕方になって舘山に帰るといった生活は流石不便だったということで、ほとんどの家は麓に下りて生活を始めたとされる。
 最後に舘山を下りた人物を万助と言い、なんでも幕末の頃とか・・?・・糠前の善応寺近くに家を構えたが、屋号を「はんだて」という・・・。本姓は菊池。
 「はんだて」は「花舘・はなだて」のことで、これまた偶然なのか、何かの縁なのか・・・妻の実家の祖母はこの屋号「はんだて」から飯豊宮沢家に嫁いできたのです。
 
 つまり後醍醐天皇を祀る宮沢家に・・・・何か南朝の忠臣菊池氏、後醍醐天皇を信仰した宮沢家・・・何かしら不思議なつながりが感じられます。

 またまた余談であまり関連はないのですが、我家は松虫・鈴虫とされる伝説を伝える家、屋号を宮洞という・・・宮中に仕えていたとされる官女である松虫姫・鈴虫姫が京の都より遠くこの陸奥の遠野まで流れてきて宮洞といわれる地に住まいしたとされる内容ですが、この宮洞と宮沢・・・宮つながりで恥ずかしながら愛以上の見えない何かで妻と一緒になったのではないか・・おしょす~・・・我姓も菊池・・遠野では馬の糞といわれる菊池姓・・・それでもこの後醍醐天皇につながる南北朝時代の何かがあるのでしたら、これまた不思議なことでもあります。

 おしょす・・内容も含まれておりますが、詳細は「遠野松崎じぇんご弐・遠野阿曽沼氏」で公開いたします。
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ちょっと公開

2006-05-25 21:06:06 | ファイヤー
 春風といいますか、初夏の風が感じられ、水田には早苗が微かに揺れる・・・。
 いい季節ですよね、陽も長いし暑くもなく寒くもない・・・でも暇な時は私には一日が長いと感じられる今日この頃でもあります・・・汗

 さて・・・・本日の画像は・・・あまり好ましくはないですが・・・。


 なんの画像ですかね・・・・。

 関連記述・・・
 遠野市においては年間約1千件、おおよそ一日3件は発生、まっ一概にはいえませんが3人の方が利用ということになりますかね・・・。

 できればお世話になりたくない、私だって嫌だ・・・でも今や無くてはならないもののひとつに数えられるのではないでしょうか・・・。

 99車・・です。
 資格をもつ隊員が日夜頑張っております・・・自分でいうのもなんですが、結構しんどい分野の仕事でもあります。
 
 仕事話題は結構気を遣いまして、この辺にて終りたいと思います。
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花館探訪報告 壱

2006-05-23 21:25:44 | 歴史・民俗
 この春、遠野の城館跡を探訪調査、既に花館以外は本編サイトへ掲載済みであるが、主たる館の位置付け、花館(青笹町)はまだ掲載しておりません。

 この花館探訪では今回3度の現地探訪を行いましたが、3度目には八戸在住の睦月庵氏のご来訪をいただき共に探訪、当初は空堀の数、縦横無尽に山野を走る姿に驚愕し、そのすばらしさ、その不思議さに心を奪われたのも事実でもありました。

 流石、東北各地の城館を数多く探訪されている睦月庵氏、冷静に分析いただきようやく私もその興奮が沈静化といったところでもありますが、よく考えれば本線たる堀に支線たる堀が合流して駆け下るといった構図でもあり、複雑と考えがちながら実は案外単純だということに気づくといった場面でもありました。

こちら
睦月庵さんのサイト・陸奥の城塞・・花館編


沢田 館の沢方面から・・

 今回は、城館の構図、構造のみならずその近在の地域等の歴史考察も含めまして、色々と加筆中でもあります。
 関連資料が極めて少ない中、地域の伝承やらがその鍵となることでもありますが、思っていた以上に言い伝えやら民俗的なことが収集できたと感じております。
 また推測していたことと同様の言い伝えがあることも発見、少し弾みもつきました。
 
 遠野の知られざる城館・・いつ、だれが、なんのため・・・少しでも近づけたら・・・と考えております。
 本編サイトへは6月初めには掲載と予定しております。


この春の初探訪にてご案内いただきました今博氏と菊池R吉氏
(背後からの画像を公開させていただきました)
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ふと考える・・・

2006-05-22 16:40:12 | 遠野
 国土調査に係る説明会が今年もあった。
 前年に続いての該当ということですが、私の場合は今回は山林はなし、農地と宅地のみで昨年ほど時間等がとられるといったことはないものと思われ、まずは一安心といったところ・・。

 さて、重い話題でしかも「おめもだべだら(お前もだろう)」と批判を受けそうなことながら、あえて何かしらご意見やらお考えをいただきたくあえて書かせて頂きます。

 昨今はネット社会、特にも自らホームページを公開し、さらにはもっと手軽で簡単なブログが主流でいろんな意味での情報が満載といった現状でもあります。
 インターネットを通じて、地元以外の方々と知り合い、交流も盛んになされるといったこと、また同じ話題を共有できたり、情報、意見の交換も手軽にでき、しかもこの方々と実際に会うと以前から知っている者同士のような感覚を覚え、会話も弾み楽しいひと時を過ごすことができるといった良い面が確かにあります。

 私はホームページを開設して5年、さらに2年前に日記風という意味合いでブログも公開、ネット社会にドップリといった生活でもありますが、以前にも経験し、少し考えた時期もございましたが、あるとき、メールで「あなたが掲載した写真に私の車が写っている、幸いナンバーは確認できないが、特定の方々には私の車であるとわかる、なんの目的で私の車をインターネットで出しているのか・・」と苦情めいた内容を受けたことがある。

 以前お寺さんか神社の画像をアップした際に、たまたま駐車中の乗用車が写り込んでいたことがあったが、そのことだと記憶している。
 意図はない・・・たまたま写っていただけのこと・・・仕方がないこととしてしばらくほっといていたのですが、ネット仲間の来訪を受けて、サイト運営での苦労話みたいな話になった時に、その方も「我家が写っている、勝手に人の家を公開するな」と苦情のメールをいただいたとか・・・その時私は「ビクッ」としましたね、こちらがアップする内容とは無関係と思われていた画像が、実はその人達にすれば不快な思いをさせること・・・まったく考えもしないことでもありました。
 後日、画像削除と謝罪の意味を込めてメールを送信したことが思い出されます。

 それ以降、ネット社会にも暗黙の了解やらマナーが存在すること、身をもって体験し勉強はしているつもりであります。
 たまたま我々がアップした画像に皆さんが気づいていないだけ、気づいても気にしないでいるのだろう・・・「あっ、おらほの家だ・・おらの孫だ・・まっいいかっ・・」くらいなものか、それとも「やったじぇ~・・おら出でらじぇ、みだが」かもしれませんがね・・。

 昨今は誰でも簡単に手軽にブログを開設し公開できる世の中、日記風や自らの主張中心のブログならいざしらず、画像付きで公開する際はある程度、気にしながらしているつもりではある。
 が・・・偉そうに大きな声ではいえない、勝手に他人の持ち山に入って堀があるとか、史跡だなんて立派なことを言ってはいるが、そのほとんどは無許可に近いのが多い・・・考えればきりがないが、いずれ氾濫するブログ社会、おのずと肖像権やら何々権とか、規制がかけられる日も近いかもしれません。

 今までどおりブログもホームページも楽しみたい、初期の段階ながら何かしらブロガーも考えなくてはならない時ではないのか・・・。
 例えば、遠野発信のブログ仲間で任意の会のようなものを作って、ブロガー共通の名札とか、腕章を作成してせめてイベントとか撮影取材にはこれらを身につけてブログの管理者である旨をアピールするとか、・・・少し内容とはズレているかもしれませんが、難くなくそれでいて少しピリッとしている、しかも気軽に・・そんな何かを考えなくてはならないのではないでしょうか・・・時期尚早ながら、ふと考えたことでした。
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棒倒し

2006-05-20 18:22:08 | その他
 天気予報どおり、昨夕から雨模様となり翌日(本日20日)に行われる運動会に影響がなければよいが・・・と案じておりましたが、なんとか今朝には雨もあがり、息子の通う遠野中学校の大運動会が開催されました。
 グランドコンディションが悪いということで他の市内中学校では順延を決定したところもあったようですが、遠野中学校グランドは市内でも屈指の水はけの良いグランドとして有名でもあり、昨夜の雨による影響はほとんど感じられませんでした。
 そしてまたまた天気予報どおり、日差しも戻り暑くなるとの予報、汗ばむ陽気に帽子を忘れた私は顔が真っ赤に焼けてしまいました・・・顔がかゆい・・汗



今から数十年前、私も遠中生でしたが、運動会といえば名物のやぐら・・新張地区の農家さんにお邪魔して長木(ハセ)を数十本借用し、やぐらを組んだ思い出が蘇ります。
 今は鉄パイプでやぐら風な佇まいですが、私の頃は長木で三段、四段と組み上げての本格派でした。

 また私の頃はクラスも6クラス、息子は4クラス、私の一回り上の先輩達は8クラスだったそうですから、いかに少子化が進んでいるか、人口が減っているかが伺えることでもあります。

 さて、本題の棒倒し・・・遠中運動会恒例の種目でもあります。この種目も私が中学生の頃、そしてその前から行われていた種目でもあります。





 中学1年の時、軽量級ながらも割りと背が高い方だったので土台をさせられた。
 といっとても1年生のほとんどは土台か守り専門、一番下は身体が大きくて大人しそうな2年、3年の先輩、後は1年生といった具合・・。
 しかも私は一番外側の配列・・・対戦相手の特攻隊がモロに背中に飛んでくる位置、背中を踏まれ頭を蹴られ・・・ほんと怪我するのでは思った。
 悲惨なのは一番下の土台の生徒、棒の下敷き、我々の下敷きでうごめく姿は悲惨そのものでした・・・涙

 2年生の時、足が速い部類でしたので、突撃隊に・・・しかし、今で言うラリアットを食らって撃沈・・・3年生になって突撃隊の先頭に・・・棒へは二番手でしがみつくも、敵もさるもの、先頭の三人は真空飛膝蹴りかライダーキックばりの空中技で、守りの外側をなぎ倒し、あれよあれよの間に味方は倒壊・・・口にこそ言わないが、皆打撲とか内出血のひとつやふたつ、怪我は付き物でした。



 この伝統的に行われる棒倒し・・・怪我人がでた年もあったと聞き及びますが、それなりにルール等を取り決めて紳士的に行われて続けられている点、少し遠中OBとしてはうれしいながらも、親の身としてはちよっと心配・・・なんとも複雑な心境でもありますが、まずは気をつけて行っていただきたいと思います。

 さてと、明日21日からは4週間程宮守勤務・・・ブログ話題も宮守が若干登場という場面になるかもしれません・・・。
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畑中

2006-05-18 19:46:57 | 遠野
 松崎町白岩字畑中(はだげなが)・・・・・。
 
 私が中学生の頃は自動車学校の裏側に少し密集した住宅地があって、後は田んぼ、畑が連なって・・数件の農家のみ・・・、さらに葦といいますか原野みたいになっていて延々と光興寺橋まで続いていたと記憶している。
 しかも道は田圃道といいますか畦道の類・・・・農村地帯といってもまだ私の住む駒木や松崎の方が開けた農村といった思いがございました・・・笑

 今は、農地を残しながらも住宅地が増え、スーパーや大型店舗も立ち並び、まさに商業地帯と農村が融合したなんともいえない雰囲気でもあります。


松崎町畑中・・・バイパスを挟んだ南側は昔小平村といった・・。まだまだ農村といった雰囲気は残っております。

 さて、畑中にはなかなか行くことは少ない、強いて言えばバイパスのスーパーへの裏道として利用するくらいなもの、また観光客も猿ヶ石川を越えた登戸橋近くの「サムトの婆」のレリーフを訪ねる際に素通りするくらいかもしれない・・・。

 前々から気になっていた大木・・・標柱が建っているがなんの木なのか分からなかった・・・。


「畑中のナラガシワ」直系453センチ・・・全国で3番目に大きいナラガシラの木なそうです・・・知りませんでした・・・汗。

 畑中といいますと、歴史話題で恐縮ですが、阿曽沼臣、畑中(畠中)氏・・・。
 本姓を菊池と称し、気仙郡菊田村から天正18年、菊池時成(葛西浪人)が遠野へ移り住み、遠野孫次郎(阿曽沼広郷)に仕え、畑中村に100石知行。
 阿曽沼時代に米の生産高を石で表すということはおそらくなかったと考えますので、後の江戸時代の発想と思われますが、南部藩関係の記録には文禄4年に畑中村に100石・・南部信直(南部藩祖)より拝領。
 時成の子、畑中内膳吉光、吉忠(久左衛門)と続き吉治(久右衛門)の時に八戸氏(遠野南部)が遠野入部(寛永4年)、南部利直(南部藩主2代)より転封を命ぜられ、盛岡へ・・・南部藩士となるも後に畑中氏は絶家となる・・・・。

 畑中には阿曽沼時代、畑中舘があったとされ、舘主を畑中五郎七と伝えられる・・上記に記した歴代のうちの誰かであろう・・・。
 今はそこに畑中舘があったという痕跡は見つけ出すことはできない。
 ひょっとして、ナラガシラの大木のみ知ることなのかもしれない。


畑中のメインストリート
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