「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

浅沼八幡宮(阿曽沼城跡) 栃木県佐野市にお立ち寄り

2024-05-09 18:18:02 | 歴史・民俗

 令和6年(2024)4月9日(火)~11日(木)、3年目となる北関東方面へのドライブ旅を敢行しましたが、メインは「わたらせ渓谷鐵道」の撮り鉄ではありますが、お立ち寄り先としての一発目は栃木県佐野市浅沼町の「浅沼八幡宮」を訪ねました。

浅沼八幡宮拝殿

生憎の雨模様、しかも雨脚も結構強くて傘利用も足元(靴)は濡れるは、肩辺りもびっしょりとなりました。

浅沼八幡宮訪問は今回で2度目、最初は20年前後前か?郷土史関係の調べで佐野市図書館を訪ねるためにJR両毛線佐野駅に降り立ち、図書館を訪ねる前に浅沼八幡をまずは訪ねてからと、タクシーで向かいました。

タクシーの運転手さんに行先を告げると、はてな?其処って何処?みたいな言動であったことを記憶しております。

ただ浅沼町ということで、大方の雰囲気は分かったということで連れて行っていただきました。

住宅地の中にある神社で社は立派でしたが境内は狭いと感じた記憶と、隣接に集会所みたいな建物があったことは覚えております。

今回は事前にGoogleマップで何度か確認、カーナビもセットして臨みましたが現地近くまでは案内されるも道が思っていたより狭くて、一方通行か?と思うほど。

なんか雰囲気は違うかな?と狭い道を進むと集会所と鳥居が目に入り「あっ、ここだ」確信しました。

駐車スペースには数台の乗用車が駐車してましたが、社務所みたいな建物や集会所は無人でした。

境内の道路側の空スペースに車を停めて、雨中参拝と境内の探訪となりました。

浅沼八幡宮は実は古城跡に建立されたんですね。

阿曽沼城跡

中世遠野領主として約400年間、遠野郷を統治した阿曽沼氏発祥の地、故地ということです。

境内の裏、感覚的に東側には当時の防御遺構としての空堀跡が残されております。

空堀跡

訪ねた思惑は神社の参拝も兼ねての城跡探訪が正しいですね。

 

遠野とも縁が深い場所でもありますので、もう1度くらいは訪ねてみたいと思っておりまして、今回お立ち寄り先として考えておりました。

雨は残念でしたが、訪問出来て良かったです。

 

◇ 阿曽沼氏(あそぬまし)

藤姓(藤原流)足利氏 足利 有綱(戸矢子七郎有綱)の二男「阿曽沼広綱」(足利七郎四郎・阿曽沼四郎広綱)が下野国阿蘇郡阿曽沼郷(栃木県佐野市浅沼町とその一帯)を領して阿曽沼氏を名乗ったとされる。

※源姓足利氏とは別流。(足利尊氏等)

〇 藤姓足利氏

平安中期に活躍した下野守・武蔵守・鎮守府将軍 藤原 秀郷(俵 藤太)を祖とする家系

秀郷を祖とする藤姓子孫は全国、特に関東及び陸奥(奥州)に広がり平氏、源氏と並んで武家の棟梁として多くの家系を輩出した。

 

源平の戦いがはじまり、既に平家大軍を富士川の戦いで破った源 頼朝であったが頼朝の叔父である志田 義広が反頼朝として挙兵し下野国へと迫って来る。(平安末期の寿永(1182)2月)

義広勢は下野国(栃木県)の大族である足利宗家(阿曽沼広綱の伯父 足利 忠綱)と小山 朝政(藤姓)に加勢を求めると足利氏は呼応するも小山氏は応じなかった。

父の足利 有綱、阿曽沼広郷及び兄で佐野 基綱や弟の木村 信綱は足利宗家に従わず小山氏に加勢し、劣勢を跳ね返した小山方が勝利した。

これにより足利宗家は没落し、足利一門は足利 有綱が唐沢佐野氏として主流となって子の佐野 基綱以下代々命脈を伝えた。

これにより阿曽沼広綱も佐野武士団の一翼とし、さらに鎌倉御家人として繁栄していくことになります。

 

◇ 阿曽沼広綱

平家追討、奥州平泉藤原氏征討した源 頼朝が鎌倉幕府を開府すると阿曽沼氏は本家佐野氏と同格の御家人として認められた存在であったと云われる。

「吾妻鏡」には阿曽沼四郎広綱、足利七郎四郎、浅沼・・・と登場、記されているとのことで源 頼朝挙兵以来の重臣や有力御家人と交名の並べ方が同じ扱いとの見解でもある。

建久元年(1190)10.3 源 頼朝は上洛のため2千余騎の軍勢を率いて鎌倉を出発、先陣随兵の隊列は、15番中央の列に佐野又太郎(※佐野国綱)、53番中央に※足利七郎四郎(阿曽沼広綱)、右に足利七郎五郎(木村信綱)、左に小野寺太郎(小野寺道綱)、54番中央に足利七郎太郎(佐野基綱)、左が佐貫太郎(佐貫国綱)と記されている。

※足利七郎四郎 阿曽沼広綱は四郎広綱であるが父の足利有綱は七郎有綱なことから七郎の子、四郎すなわち七郎四郎という見解である。

※佐野国綱・・・佐野宗家 佐野基綱の嫡男

神社境内の看板

鎌倉御家人としての阿曽沼氏が顕彰されております。

阿曽沼氏800年記念碑

 

◇ 中世遠野領主 阿曽沼氏 

阿曽沼広綱は奥州平泉藤原氏征討軍として従軍、戦功の恩賞として奥州陸奥国遠野保・郷(岩手県遠野市)を源 頼朝から賜ったと伝えられる。

横田城跡(護摩堂館) 遠野市松崎町光興寺

横田城は一説には建保年間(1213~1218)に二代 阿曽沼 朝綱の弟、阿曽沼 親綱が遠野へ下向して横田城を築いたと伝承されている。

ただし遠野は当初、下野国本貫地より遠隔統治されており代官が派遣されていたと考証がされている。

いつの時代に阿曽沼氏或いは一族が下向し本格統治に移行したかは不明とされるが、代官として宇夫方広房が派遣されたと伝承され、以来代々宇夫方氏が代官として一定期間において統治したと伝えられる。

 

◇ 全国の阿曽沼氏所領

〇安芸国安芸郡世能庄(広島県広島市安芸区上瀬野他)

安芸国世能庄は承久の乱(1221)の戦功により広綱二男の阿曽沼親綱が世能庄の地頭職に補せられた。

阿曽沼親綱は鳥籠山城を築いたと伝承され陸奥国遠野郷同様に代官を派遣して下野国の本貫地より遠隔統治をしていたと考察されている。

〇伯耆国久米郡矢送庄(鳥取県倉吉市関金町付近)

建武5年(1338)2月、南北朝期、足利 尊氏から安芸国三津村を伯耆国矢送庄の代替地として拝領しているので、伯耆国の所領はそれ以前からあったものと推察される。

〇安芸国三津村(広島県東広島市安芸津町)

前記、伯耆国矢送庄での記載のとおり

〇備中国呰部(あざべ)(岡山県上房郡北房町上呰部・下呰部)

建武2年(1335)7月の「中先代の乱」での戦功として足利 尊氏より恩給された。

 

◇ 安芸阿曽沼氏

安芸国世能庄地頭職として補任されたが、鎌倉末期頃には阿曽沼氏一族が下向して鳥籠山城を拠点に勢力伸長し安芸国の有力国人へと成長して、尼子氏、大内氏、毛利氏・・・といった中国地方の大勢力の中で存続、戦国時代には毛利氏の麾下に属し後に毛利家家臣となり、江戸期は長州藩士として継続した。

  

◇ 遠野阿曽沼氏

阿曽沼広綱の二男、阿曽沼親綱からの流れで4代後の朝綱から始まると推察されるも詳細は不明。

一説には朝綱の子、或いは弟とも考察される朝兼から阿曽沼一族による現地統治が始まったものか?

遠野阿曽沼氏は現遠野市全域はおろか沿岸方面の釜石、大槌へも進出し、親族を郷内各地に配置して領内経営の安定を図っていた。

北の南部氏、斯波氏、西の和賀氏、稗貫氏、南の葛西氏との均衡も保ちつつ存続し、遠野孫次郎こと阿曽沼広郷時代には歴代でも絶頂期を迎えたと云われている。

天正年間(1573~1592)中には居城の横田城(松崎町光興寺)を鍋倉山に移した。

しかし、親族の鱒沢氏(鱒沢左馬之助広勝)の台頭によって主家との争いが激しくなり、阿曽沼氏による郷内統治も陰りを見せ始める。

北の南部氏(南部信直)の南下攻勢が激化し、紫波郡の斯波氏が滅ぼされると南部氏の脅威が増してきた矢先、中央では豊臣秀吉が天下人となり、小田原北条氏征伐への派兵要請が奥羽各地の大名、領主等に届けられる。

阿曽沼広郷はこれに応じることができず遠野の領主権を剥奪されたが、陸奥国閉伊郡、和賀郡、稗貫郡と広大な土地を新封地として得た南部信直の附庸、すなわち勢力下となることで命脈は保つことはできた。

阿曽沼広郷の後を継いだ遠野孫三郎こと阿曽沼広長は、南部氏の命で九戸政実の乱、最上の陣(上杉景勝攻め)と南部氏配下として従軍あるいは軍勢を出している。

豊臣秀吉が没すると徳川家康と石田三成が対立し関ケ原の戦い(1600年)が勃発、南部氏は徳川方、東軍となり西軍の会津、米沢の上杉景勝攻めに最上へ出陣し、阿曽沼広長も南部氏に従って出陣した。

広長が留守中の鍋倉城が一族の鱒沢広勝(左馬之助)、広長叔父とされる上野広吉、重臣の平清水景頼(駿河)によって占拠され、いわばクーデターが起こる。

最上の陣からの帰途の広長は領内境で阻まれて遠野領内に入ることができず、軍勢を解散して自身は近臣と共に伊達氏領内の気仙郡世田米(住田町世田米)に亡命するや、伊達政宗の後援を得て現地勢力を結集して3度の遠野奪還の戦いを挑むも全て敗れて遠野の支配権等を失い没落したと伝えられている。

(平田の戦い(住田町上有住)・赤羽根峠の戦い(上郷町)・樺坂峠の戦い(小友町))

遠野郷は南部氏による支配権が実質的に確定し、後年の寛永4年(1627)3月、八戸根城の八戸氏(遠野南部氏)が入部してより確実なものとなった。

阿曽沼公歴代々之碑 遠野市松崎町光興寺

遠野阿曽沼氏、最後の当主である阿曽沼広長は伊達家支配の気仙郡内に亡命、遠野奪還の戦いに敗れて没落と伝えられるが、実は仙台藩で生き延び、その子孫は仙台藩前沢三沢氏の家臣となってその命脈を伝えられている。

また、下野国本貫地の阿曽沼氏は唐沢城の佐野氏一門として栄えて、江戸期には喜連川公方足利氏(5千石の旗本交代寄合クラスながら10万石の大名の格式であった)の重臣で後に佐野氏を名乗り、さらに浅沼姓を名乗ったと云われる。

阿曽沼公歴代之碑は、昭和28年9月23日に日蓮宗開宗700年にあわせ地域住民や阿曽沼家のご子孫などによって建てられた。五輪塔はもと阿曽沼家の菩提寺であった養安寺(松崎町上松崎・古に廃寺)にあったもので、養安寺に仮住まいしていた善明寺が現在地に移転する際、墓碑と思われる2基の五輪塔を移したが、1基が阿曽沼氏の墓として現在地に安置され、1基は善明寺(大工町)に市指定文化財として保存されている。 

 

終わりに・・・

前回(約20年前)佐野市立図書館で調べものをするため佐野市を訪れ、まずは浅沼八幡宮の参拝、そして図書館へと足を運びました。

先方には事前にメールで調べものの趣旨や観たい資料等を告げておりまして、対応いただいたのは学芸員さんかな?若い女性でありましたが、お名前等は忘れてしまいました。

丁寧にご対応いただき、一緒に該当するであろう資料、書籍を探してくださり大いに助かった記憶があります。

年月はたいぶ経ってますが、あらためて感謝申し上げます。

「お世話になりました。ありがとうございました。」

目ぼしい資料は少なかったですが、現地の郷土史家の阿曽沼氏に特化した資料の一部をコピーいただいたこと、何よりも記憶に残るのは、当時既に刊行されてますが遠野市史編纂(昭和49年発行)での内容

、第1巻での中世期、阿曽沼氏時代の執筆を担当された編纂委員であった昆先生と佐野市浅沼町在住で阿曽沼氏のご末裔で郷土史家であった浅沼徳久氏との原稿のやりとりの痕跡でした。

郵送でやりとりされていたようで遠野側から執筆内容に佐野側では赤鉛筆で斜線や〇印を付けたり、或いは訂正を促す意味か?別な文言が記述されたりと生々しいやりとりでありました。

こんなやりとりを経て書籍が刊行されても、だいぶ、いやっかなり遅れて小生が買い求めた中古としての遠野市史全4巻は遠野在の郷土史家が持っていた古書のようで、その内容にはこれは間違いとばかりに、やはり赤ペンで線を引かれたり文言が訂正されておりまして、先生方でも見解や考察の相違はあるのは当たり前と思うも、かなり吟味し調べても完璧とはならないという思いとなりました。

阿曽沼氏は鎌倉初期(1189?)から関ケ原の戦い(1600年)までの約400年以上にわたり中世期の遠野を治めておりました。

後の江戸期における遠野南部氏治世の倍近くの年月となります。

阿曽沼氏もまた現在の遠野の礎を築いたといっても過言はないと小生は思いますが、時代の新しい南部氏関連縁の自治体等との交流ほど阿曽沼氏に関係する地域との交流はないのが現状でもあります。

いやっ皆無が等しいでしょう。

べつに新たに交流せよ・・・ということではありません、遠野の歴史に少しでも触れ、そのルーツをちょっと考えてみる、思い起こしてみながら何かの機会に栃木県に出かけたら、「そういえば栃木県の佐野市は遠野に縁ある土地のひとつだったなあ」程度でもよいので頭の片隅に置いておいてほしいと思います。

どんどはれっ  

 

参考資料 「佐野市史」・「遠野市史第1巻」・浅沼徳久氏著 「阿曽沼城〇略〇」略字で読めず。

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥州弐古関跡を訪ねて

2024-04-24 19:44:41 | 歴史・民俗

源 義家(八幡太郎義家)騎馬像

勿来の関跡にて (福島県いわき市勿来)

 

北関東のドライブ旅を終えてだいぶ経ちますが、お蔵入りというのもなんですし、早めに探訪記と言いますか、折角訪ねて参りましたのでエントリーしたいと思います。

旅の二日目、わたらせ渓谷鐵道の間藤駅での撮り鉄後、向かった先は福島県白河市、その後は福島県南部地域を横断するようにいわき市へと向かいました。

お立ち寄り先は、白河の関跡と勿来の関跡の奥羽三関跡の二つの古関跡を訪ねることでした。

ちなみに奥羽三古関とは・・・

鼠ヶ関  山形県鶴岡市

白河関  福島県白河市

勿来関  福島県いわき市

 

白河の関跡

福島県白河市

ここからみちのく・・・奈良時代から平安時代の頃に機能し、関東下野国と奥州陸奥国との境(東山道)に設置されていたようです。

江戸時代の寛政12年(1800)白河藩主の松平定信が文献等を考証した結果、白河神社が建つ場所を以て白河の関跡であると断定したとある。

近代となって発掘調査等が行われ、防御機能、施設を有していた痕跡(土塁、空堀等)が出土したことから国指定史跡となった。

奥州に関わる数々の歴史的事件、逸話に関わりある人物が往来した。

「前九年の役」での八幡太郎義家(源 義家)、「奥州合戦」奥州平泉藤原氏攻めの征討軍を率いた源 頼朝、江戸期の俳人 松尾芭蕉の「奥の細道」・・・多くの歴史的人物等が白河の関を越えて奥州へと向かいました。

古歌碑

白河の関を題材とした和歌三首(平安時代)の歌碑

白川神社

空堀跡

他に土塁も残されており、個人的には古の防御施設跡の方が興味がありましたが滞在時間の関係で多くは見学できずでした・・・ちょっと残念。

白河の関とくれば・・・

甲子園高校野球での東北勢の優勝旗白河越えですね。

東北地方の高校、準優勝はあるも優勝はなかなか出来なくて、北海道勢が先に優勝したりして白河越えならぬ東北一気飛びされたりと悔しい年月がありましたね。

2022年夏の大会(第104回) ついに宮城県代表の仙台育英高校が念願の優勝を果たしたのは記憶に新しいですね。

野球とか普段は観ませんが、この時の試合、決勝戦はテレビで観戦し、勝った際は小躍りして喜びましたよ・・・(笑)

それと戊辰戦争後、「白河以北一山百文」と敗れた東北地方は西軍側に東北の山は一つにつき百文の価値しかないと蔑称されたことですかね。

あとは山本譲二さんが歌った「みちのくひとり旅」でのフレーズ・・・「・・・月の松島 しぐれの白河・・・」ですね・・・(笑)

 

ということで、実は白河の関跡を訪ねたのは初めてでした。

北関東まで来たので、早めに訪ねたいとは思ってましたが、3年目にしてようやく訪ねることができました。

古関跡のみ少し歩いての滞在時間は約45分でした・・・(;^_^A

 

勿来の関跡

福島県いわき市

勿来の関跡の謂れ等は下の石碑参照してください。(;^_^A

ちょっと石碑に刻まれた文字薄いかな?

関東の宮

奥州の宮

勿来の関としている場所は現在、勿来の関公園内となっておりますが、あくまでも推定の場所との見解でもありますし、勿来の関そのものが存在したか?こちらも確証がないということらしい。

雰囲気的には古の関跡という雰囲気は抜群でしたがね。

 

白河の関から棚倉を通っていわき市勿来まで横断、岩手県なら一ノ関から陸前高田に行くような感覚かな?移動距離は約70㎞強か、ナビから道が消えたりして新しい道も走ったらしいですが、なんとか2時間近くかかっての到着でした。

それでも栃木県日光市の間藤駅を11時30分頃出発、宇都宮まで出て東北道で北上し白河まで。

白河の関には13時30分頃到着し、14時30分ちょい前に白河の関を出発して勿来の関公園へは16時過ぎ頃に到着となりました。

勿来の関公園には約30分滞在となりました。

この日、旅の2日目は、いわき市内に宿泊となり翌朝いわきを出発、常磐道、三陸道、釜石道を経て正午頃に帰宅となりました。

まずまずな春の北関東ドライブ旅だったと感じております。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒼前堂

2021-10-06 13:59:39 | 歴史・民俗

上駒木の千刈と呼ばれている地に建立されている。

牧草地、道を挟んだ西側には「遠野馬の里」がある。

こちらは馬の里側にある鳥居ですが、地域で畜産業等を営む方々から寄進によるものです。

蒼前神社、駒形神社は馬産に関わりがありますが、牛馬すなわち畜産に関係する人々が祀る神との位置づけでもあります。

境内には牛の像一対が鎮座しております。

狛犬ならぬ「べご狛犬?」「狛牛(べご)?」

こちらのお堂の創始は不明とされているが、その前身の祠は上駒木バス停から東側、大沢川を渡ったところにあったそうですが、後に祠の遷宮というか移転があって昭和54年10月に拝殿の改築、屋根瓦の葺き替え、牛の像及び赤色の鳥居が建立との流れとなっている。

 

こちらは本来の参道、鳥居ですが、別当家側となります。

 

境内から参道を臨む

若干、踏み固められた形跡はあるも、倒木があったりと荒れ果て獣道化している。

地域のみならず市内外で馬産が盛んな頃は、旧正月16日、4月8日の縁日、例祭では参拝する人々が多かったと言われております。

いつものウォーキングでの土日のいずれか週一での定番コース沿いとなりますが、気にかけながらも、久々に足を延ばしてみました。

正月過ぎ、赤い鳥居側の雪原に点々と足跡が若干あって、地元の方々か?初詣に来られる人達もいること確認しております。

棟札も含み社の謂れを記載した札があるそうなので、そのうちに別当さんの了解をいただいて、見てみたいと思っております。

 

本物の「べご」(牛)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮守 雲上鉄山と溶鉱炉跡

2021-02-23 16:43:23 | 歴史・民俗

 

今回、エントリーするにあたり参考、引用した図書、書籍

「宮守村誌」「宮守風土記」

 

〇岩手製鉄株式会社 雲上鉄山(うんじょうてつざん)

 ・大正7年3月(1918年)設立・翌大正8年に火入れを行い稼働

 ・資本金 500,000円(払い込み資本金125,000円)

 ・関係者 代表取締役社長 池野 三次郎(盛岡)

      取締役 大矢 馬太郎(盛岡) 照井 愛助(宮守)

 

 「雲上鉄は非常に靭性に富み、特殊の銑鉄たることを認む」と証明され往時は作業員約300人、溶鉱炉があった下郷蘭場には宿舎3棟、事務所、石炭窯、作業井戸、見張台等があった。

 

溶鉱炉遺跡の一部

 

高さ約4メートル、長さ約40メートルの石造の壁が現存し、かつては高炉、送風の煙突が建っていたとされ、当時石壁の上部は平地とし宮守駅(岩手軽便鉄道)までの馬トロ(馬で引くトロッコ)の道があった。

また塚沢方面からは多量の木炭が運ばれ、鉄鉱石は雲上鉄山から毎日30台もの馬車で運び込まれ炉へ入れられたとのこと。

しかし・・・

その隆盛も第一次世界大戦が終わり陰りが見え始め、鉄山存続のための採算が合わず、大正11年(1922年)9月、電気炉製鉄に転換し経営刷新を図るも第一次世界大戦後のデフレには勝てず休止となり、昭和10年(1935年)頃には機械類、建物等が解体され持ち去られたとのこと。

(山神社も移されたとのこと)

 

という簡略的な歴史の流れとなりますが、溶鉱炉跡は下郷蘭場の某所に残され、一部のみ遺構が確認できます。

しかし、鉄鉱石を産した雲上鉄山の場所については小生の確認は不明という状況です。

雲上・・・うんじょうという呼び方ですが、塚沢と達曽部の境には雲ノ上山「くものうえやま」があり、おそらくこの山麓辺りに鉄山があったものと推察されます。

細かな地名の場所に坑道跡とする遺構もあるとの記述もあり、少なくても下宮守塚沢地区に何かしらが存在していたことは確かな事でもあり、現地調査(おおげさ・・・笑)が簡単にできる時季に訪ねてみたいと思っております。

 

今回のエントリーについては、栃木県在住のK氏からの問い合わせがあり、まずは宮守村誌の記述から調べ、さらにもう少しだけ詳細をと個人的に求め宮守風土記(同級生ブロガー「遠野なんだりかんだり」(ブックマークにリンク)笛吹さんを訪ねた結果)行き着いたことでもあります。

それでもまだまだ簡略的な内容であり、宮守風土記の著者であるM原氏の言葉にもあるとおり、地域の文化、産業の面でも先人の努力を地域民や子孫に伝えたい・・・これが一番大事な事だと小生も思っております。

 

JR宮守駅

2015年、建て替えされた宮守駅

ホームに至るミニ回廊は健在

 

何度か宮守駅含み小生の知っている宮守の街について記したことがありますが、かつての面影のみ感じる雰囲気となっております。

現役時代、昭和後半~平成~令和初年と40年の勤務の中、宮守勤務は通算4度、14年となりました。(厳密には13年10ケ月)

小生の宮守出先機関勤務は最多、最長となっているはず・・・。

別に自慢でも逆の話でもありませんが、宮守村、後の宮守町への個人的な造詣は今も実は感じております。

宮守駅前

商店や旅館、食事処の食堂、小料理、寿司屋、さらにスナックがあり、遠野高校宮守分校(情報ビジネス校・・・後に廃校)も近くにあって列車通学の高校生の姿も多数、仕事帰りの方々で賑やかでした。

当直勤務での時折の出前、この駅前の「小松屋」さんからの「かつ丼ぶり」が定番で、当時の上閉伊郡一の美味いカツ丼だと思っております。

ほんと美味かった\(◎o◎)/!

今は昔ですがね・・・(;^_^A

とにかく懐かしい・・・。

 

 

参考図書、書籍

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒木鹿子踊笠揃え2019

2019-09-20 21:15:30 | 歴史・民俗

 いよいよ遠野まつりである。

その前夜、地元の郷土芸能「駒木鹿子踊」の笠揃えがありました。

 

遠野まつりは9/21、22ということですが、笠揃いは9/13という固定観念があって、確かめもせずに駒木地区コミュニティ消防センター(旧駒木小学校跡地)に出かけると暗闇の世界…(-_-;)

帰宅して駒木鹿子踊保存会から地区内全戸配布されたスケジュール表を確かめると笠揃えは9/20と判明・・・(;^ω^)

確認不足ということで反省です・・・笑

 

 

ということで20日に改めて出撃

 

 

 

地域の方々への約1ヶ月の練習の成果、さらには遠野まつり参加の意気込みという意味合いでのご披露、十分地域住民としては伝わっております。

 

 

今年も保存会の会長さんのご挨拶・・・

流石だと思いました。

遠野郷しし踊りの元祖として恥ずかしくない踊り、他の団体にない独特の踊り、これらをこれからも継承して参りますの言葉で事足りるという思いでもあります。

まさしくですね。

 

駒木鹿子踊は今年で保存会結成60周年とか・・・

区切りの年ではあるが特別何か記念式典やらする余裕はないとのこと

10年前の50周年では地元、福泉寺境内、特に五重塔での案山子踊りの披露、たいへん印象と記憶に残っております。

小生のように地元に貢献していない者に対してもご案内いただき、記録係りとして参加をお願いされた保存会の方々には感謝しかありません。

いずれ、60周年に関しては今年に限っては多忙につき出来ないとのことなので、これ以上言うことはございません。

なんの貢献もしていない身でもありますので、こうして写真撮り、ブログ等で地元郷土芸能の活躍を紹介するのみと心得ておりますということですね。

 

話し変わって9月中旬

藩都盛岡に8月に続き一人出かけて参りました。

いい頃合いで脱出して、いつもの一人カラオケ

今回は早めに解放されたので90分コース

40年以上も前の思い出の曲をまずはスタート曲に・・・(;^ω^)

これを知っている、歌えるという人は同年代もそんなに多くはないはず・・・

(;^ω^)

 

色々と歌って・・・

 

契機付に・・・

独り盛り上がり明日への活力というか元気を出す基本とするも翌日はさしたる元気も出ず・・・笑  (;^ω^)

 

思い思いの曲を歌って一人楽しみ・・・

 

締めは手頃の冷麺の締めとする。

 

十分美味い・・・盛岡冷麺のランクは県内なら、どこでもレベルが高いと思います。

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中野と元祖角助

2017-11-26 15:47:30 | 歴史・民俗

 今月も最終週となり師走、年の瀬といよいよ12月も間もなくとなりますが、拙ブログでの今月のエントリーはこれがラストとなりそうです。

 

さて、先週に久々に地域の歴史、民俗分野の講座として地名や屋号といった内容を受講しましたが、これをきっかけについでという感じではありますが小生の住まいする地域に関することを勢いで少し調べてみました。

元祖角助の墓前にあるレリーフ

 

まずは角助の墓がある松崎町駒木字中野

現在の住所表記には無い地名(小字)中野

松崎町駒木7地割内を指しているが我家も7地割で中野の一部とされ、福泉寺本堂下から県道沿いを海上集落に進み共同墓地のある辺りまでが中野と云われているようですが、明治初年頃まで中野という集落が実際にあったと伝えられている。

集落は角助の墓がある一帯とされている。

福泉寺五重塔が間近にみえる拓けた場所

今は田んぼをはじめ畑等の農地となっているが、かつては10数件の家々があったことを彷彿させる雰囲気が感じられる。

集落内で火災が重なり、人々は現在の海上集落の方へ移り住み、いつしか1軒も家が無くなったとされる。

 

この中野の一角に駒木鹿子踊りでの創始者と云われる角助の墓が存在している。

 

 

 

遠野遺産に指定されたことにより伝統芸能としての位置付けである駒木鹿子踊りそのものの伝承のみならず創始者といわれる元祖角助の墓所の環境も整備されている。

こちらでの説明は駒木鹿子踊りで伝えられている創始について記されているが大きく二つの説が語られている。

「駒木村の覚助と云者、熊野参詣の登り候時、京都の町辻にて獅子踊有て・・・其の踊を習い、国元へ帰り村の若者共に教え、・・・」とあり、これは江戸期の宝暦12年(1762)完成した「遠野古事記(宇夫方広隆 著)」に記されている。

このことから遠野古事記が記された1762年以前から遠野ではしし踊りが踊られていたということになる。

 

そしてレリーフの内容、さらに駒木で伝承されている内容としては・・・

上閉伊郡志(大正11年(1925))には、「嘗て(かつて)駒木村の一農夫、遠江国掛川(現静岡県掛川市)に於て鹿踊りの興行を見、之を覚えて遠野に伝ふ故に掛川踊と称すると。」

上閉伊郡志の出典は何なのかは不明ではあるが、地元に伝えられる巻物「駒木鹿子踊濫觴(こまぎししおどりらんしょう)」では京都から「角助」が習い覚えてきたと伝えられている。

遠野古事記での覚助、地元での角助、名は同じですが「かく」の字が違う。

なお、先人郷土史家の調べによる駒木村の覚助は宝暦6年(1757)3月28日に没した人と角助、安永3年(1775年7月18日没)の二人(字はそれぞれ違う)が菩提寺とされる西教寺の過去帳に記されているといいますが、どちらが伝えたものかは不明である。

墓石には没年月日は刻まれているのか?何度か写真を撮りに行ったりしているけど、そういえば詳しくは調べたことがなかった。(家からは500m程しか離れてませんがね・・・(;^_^A)

通称「元角(がんかく)」と呼ばれるしし頭

駒木鹿子踊りを象徴する違え鎌と遠野南部家の裏紋である九曜紋が入ったしし頭

 

幕には掛川と角助の文字が入ってます。

縦に向かって左から(遠州掛川・九曜紋・元祖角助)

 

さらなる調べ、検証についてはまたいつか?ですね

(;^_^A

 

 

ところで・・・

この日の朝は雪が少し積り後に雨も少し降ってましたが・・・

煙ではありませんよ。

白い靄みたいな?

 

2メートル四方くらいかな?

10秒程度で消え去りました・・・

(◎_◎;)

 

やはり、かつて人々が暮らした集落があった場所柄からなのか?

墓地が傍にあるからなのか?

・・・・・・

単なる靄でしょう・・・

そう思うことにします。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地名、屋号講座

2017-11-19 09:32:28 | 歴史・民俗

 かなり久々に郷土史関連の講座に参加しました。

題して・・・

松崎町の地名、歴史・・・とありますが地名と屋号に関しての内容となります。

受講者は地域民ばかりではなく市外から転居されてきた方々も含めて20名くらいですかね、なかなか面白いというか参加してよかったという思いが久々にいたしました。

松崎町全体の住宅地図を拡大したものに、かつての小字名を記していく

2区、駒木から参加は自分ひとりでしたから、知っている範囲で今は語られない小字名を記してみました。

 

駒木方面

 

 

遠野広しといえども現在小字名が住所表示されているのは松崎町の一部のみ

なるほど・・・と改めて納得・・・。

遠野の在郷に行けば大字、小字が普通に使われる地域もありますが、実際は住所表記はされてない。

 

現在、住所表記がされているところは・・・

遠野市松崎町白岩字地森

遠野市松崎町白岩字畑中

遠野市松崎町白岩字薬研淵

この3地域のみ

白岩が大字、地森や畑中、薬研淵が小字ということになります。

松崎町白岩地区は遠野でも都市化が進んでいる地域、こういう地域に小字名が残されているという点が面白いですね。

小字名、既に住所表記から外れ年月とともに廃れていく、何処が残す手立ては必要なのかもしれません。

 

次に屋号

こちらは小生の住む地域では比較的使われている現実はありますが、若い世代ではどうなんだろう・・・

親とかが使っていれば知っているということはあると思いますが、こちらもそのうちに廃れる運命という思いはないわけではないですね。

配布された資料に我家の屋号が記されていた。

1940年刊行、松崎村郷土教育資料からの内容とのことですが・・・

祖父の名が記されている。

 

20年ほど前、地域で発刊された小冊子

小生の住む駒木地区の歴史、民俗関連が収められております。

こちらには地区内の屋号について細かに記載され貴重な資料となります。

その昔・・・?

農協の有線電話というのがあって、その電話帳に屋号が記されていた。

また、家族構成も一緒に書かれていて、今の時代ではプライバシーの侵害、情報漏洩に秘匿義務なんとか・・・とか、とにかく批判され大騒ぎになる内容でもありますが、別な意味では基調な資料でもありますね。

「遠野なんだり・かんだり」でも以前に誰か持っていたら譲ってと言ってましたが、けっこうインパクトがあった電話帳でもありました。

我家でも当然、当時はありましたが、いつしか何処かへいってしまい、探し出すことは叶いません。

ちょっと残念という気持ではありますね。

蔵の壁や瓦屋根に屋号を記す・・・というのもけっこうありますね。

 

いずれこうした講座に参加したのは久々、さらに興味があった郷土史分野に触れたのも久々で忘れていた感覚が覚醒という思いでもありました。

来月、もう1回地域の歴史についての講座が開かれるということなので是非に参加したいと思っております。

それと実際に歩いてみる、フィールドワークみたいな内容があれば、さらに詳しく知ることもできるのでは、そんな思いもしております。

 

当ブログも当初は郷土史分野の記事メインでもあり、地域に残された史跡(舘跡)を調べ、そのレポをご紹介していたこともありましたが、近い将来リタイヤしましたら、この分野の復活も・・・とあらためて思ったりして・・・いずれ地域の歴史、民俗、文化・・・総じて郷土史分野に関わりたい気持ちが再燃というところです。

 

さて・・・

話し変わって

最初の乾杯かな?

某夜、高校時代の科でのプチ同窓会があったので参加しました。

参加者は遠野住まいですが、年に1度か2度程度しか顔を見ないという同級生がほとんど、高校同級生全体での懇親会はけっこうやっているけどクラス限定というか科の飲会はあまり記憶がない。

今回は9名の参加で高校時のクラス構成と同じく女子が多かった・・・。

男3、女6

それにしてもけっこう地元に同級生がいるということが分かった集まりでもありました。

盆と正月恒例の同級生の集まり、まずは正月2日の同級生の新年会に皆さんお誘いしましたので例年よりは少し賑やかになるかもしれません。

いつもとはまた別な感じでの昔話に華が咲いた愉しい時間を過ごしました。

また大いにやりましょう・・・。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平田の戦い 

2016-02-17 06:17:04 | 歴史・民俗

 約15年前か?、当時、宮守村の出先に勤務していた時のこと、職場の研修の一環で郷土史関連の講義を受けたことがある。

その際の講師先生は当時、遠野物語研究所の研究員の方で鱒沢在住のТさん、60代半ばで宮守村関連の歴史と上鱒沢の鞍迫観音(白山神社)について語られたと記憶しております。

内容に興味を示していたのは小生ひとり・・・汗・・・何故に郷土史のような研修内容になったかは不明ですが、小生にとってはまさに楽しい一時でもありました。

 

講義も終わり質疑の時間、自分としても郷土史は好きというより得意分野と自負していたので、意気揚々で鱒沢氏のことを聞いたのですが、Тさんはカバンからハガキ大の薄い冊子を取り出して小生に進呈しますとのこと・・・。

 

資料の内容は、鱒沢館主で鱒沢左馬之助広勝没後4百年法要を鱒沢館跡麓の長泉寺で地元民よって執り行ったとの内容が記されていたものでした。

(長泉寺は鱒沢氏によって開基された寺院)

(そのいただいた冊子も大事に取っているはずですが資料に紛れて何処にあるのか行方不明・・・探し出せず・・・汗)

 

Тさんから語られた鱒沢左馬之助の最後、小生を試すかのように、その最後の場所について何かご存知ですか?の問い・・・。

おざなりですが語られる定説ということで釜石平田の戦いで討ち死にでは・・・と普通に、至極当然という気持ちで答えたのですが・・・(^^ゞ

 

Т氏から語られた内容は釜石ではなく気仙の平田・・・釜石は平田(へいた)ですが気仙は平田(ひらた)、その気仙の平田(ひらた)は住田町下有住の平田(ひらた)で、なので長らく云われてきた平田(へいた)の戦いは平田(ひらた)の戦いであるのは史実かと思います・・・とのこと。

当初、このじいさん何を仰せかと理解に少し苦しみましたが、釜石の平田ではなく合戦は住田の平田という場所で行われ、そこで鱒沢左馬之助は討ち死にしたということが理解できました。

Т氏は詳細は自身でお確かめ下さいとのこと・・・おそらく現地に出向いて調べればそれなりに何かしら掴むこともあるでしょう・・・とのこと。

 

まさに目から鱗・・・まっ大袈裟でしたが、それまでは遠野阿曽沼時代の歴史とかは遠野市史や阿曽沼興廃記等の資料、遠野内での内容のみでしたので自分の浅学、自己流というか思い込み優先での考察等、中でも机上での事が主だったので反省しきりでした。

 

ということで前置きが長くなりましたが・・・

その後、現地を訪ね、なんとか平田砦跡を探し出し、現地での伝承さらに地元の自治体史での記述からも平田の戦いとは気仙郡平田(ひらた)の戦い、平田合戦と確認した次第でもありました。

 

平田砦(外根岸館)跡

説明版が真新しくなっていた。

 

 

8年前に城館跡探訪ということで八戸在の同好の士、当時はТ九郎さんと名乗っておりましたが、その方と調査した経緯がありましたが、分け入った山野にこれといった遺構は確認できずでしたが、直線で1キロちょっと東側に位置する上有住城跡も訪ね、こちらの出城、支城という位置付であろうという伝承に納得というところでもありました。

 

久々にその看板の地をチラッとのぞいてみて、過去にも何度かブログで取り上げてはおりますが・・・

平田合戦とは・・・

 

慶長5年(1600)、遠野盟主であった遠野孫三郎(阿曽沼広長)は太守南部利直(三戸南部氏、後の盛岡南部氏)に従って遠野勢を率いて最上(山形)へ出陣する。

中央では徳川家康旗下の東軍と石田三成率いる西軍が激突する関ケ原の戦いが開戦しようとする情勢、東北地方では石田方の上杉景勝(会津)と東軍に属する最上義光(山形)が対峙、最上氏への応援に伊逹氏や南部氏といった奥羽諸氏が最上に出陣する。

遠野の阿曽沼広長が最上に出陣中に遠野の留守を預かった一族の鱒沢左馬之助広勝、広長の弟とも叔父とも語られる(おそらく叔父)の上野右近広吉、小友長野地方を領する平清水駿河景頼によるクーデターが勃発、遠野は鱒沢氏等の手に落ち、最上から帰陣する広長勢は遠野へ入ることができず、部隊を解散して自身は僅かな側近と共に妻の実家、舅の世田米城主、世田米修理広久の許に亡命したとされる。

このクーデターは南部利直の意に沿って行われたとも云われ遠野は完全に南部氏の勢力下に入ったと云われる。

 

 

慶長6年(1601)3月、気仙世田米に落ちた阿曽沼広長は、仙台の伊達政宗の後援を取りつけ、気仙勢を引き連れ遠野奪回のための軍を起こすと噂が立っていた。

気仙郡の浜田喜六(上有住城主)、笹木丹波(竹駒城主)、横田大学(横田城主)、紺野美作(下有住外館城主)、只野民部(越喜来城主)が加担、総大将は阿曽沼広長、旗頭が世田米修理広久、案内役で部隊長は浜田喜六の陣容であったという。

 

南部氏から遠野の盟主として認められた鱒沢広勝は、気仙の情勢を聞き及び、気仙勢の機先を制すべく・・・「気仙郡の境、平田といふ所え攻入、村々の在家へ火を付、鐘、太鼓を打鳴らし、鬨を作りて押し入りけり」(阿曽沼興廃記)

 

 上有住城跡(住田八日町)

 

ちょっと古いですが上有住城跡レポ

 

鱒沢広勝率いる遠野勢は蕨峠から気仙に侵入・・・

今も当時も遠野中心部から気仙に抜けるには最も近距離のルート、戦禍に見舞われた平沢、新切集落は蕨峠麓の気仙側の集落であり、遠野勢がこの方面から攻入ったのは、ほぼ間違いないだろう・・・。

遠野勢は新切川沿いに下有住方面へ進軍、東部の平田砦へ兵力を集中させたことにより、平田砦の攻防戦が熾烈を極め、本城たる上有住城から浜田喜六が手勢を率いて迎撃にでるも伝承では鱒沢広勝の郎党、上台兄弟により落馬させられ、首を討たれたとされる。

 

地理的に平田砦の西方、約1キロか?現在は万福寺という寺院がありますが、その山野には外館城跡があり、当時の城主は紺野美作、紺野氏は遠野奪回軍の気仙勢の将でもある。

当然、異変を察知した外館城からも迎撃勢が出撃したと推測され、新切、根岸、十文字といった比較的狭い地域で戦闘が行われたという印象でもあり、遠野勢が下有住という限定された地域のみに押し込まれ、気仙勢に対して機先を制すといった目的は浜田喜六を討ったことと戦禍に見舞われた集落が焼け討ちされたという恐怖を植え付けたのみか?

しかし・・・

同年秋に遠野奪還に燃える阿曽沼広長率いる気仙勢は赤羽根峠を越え上郷平倉地域に攻入っているが、半年近く待たなければならないほど準備等に時が必要であったことが伺える。

 

赤羽根峠(上郷町)の戦い 1601年秋

樺坂峠(小友町)の戦い 1601年11月

と、平田の戦いと合せて3度の戦いが遠野勢と気仙勢の間に繰り広げられることになります。

 

 

世田米からの援軍も駆けつけ平田の戦いでの遠野勢は、しだいに劣勢となり地理不案内もあって気仙勢の反撃に合い、鱒沢左馬之助広勝、上台兄弟、従者の兵共に深沢に転げ落ちたところを気仙勢の鉄砲隊の餌食になって討たれたとある。

いずれ後の遠野関連の史料に鱒沢広勝の名は出てこないので、この戦いで戦死したのは史実なのかもしれませんね。

 

遠野市史には、この平田の戦いに関して釜石平田での戦いであろうと記しているが、ここ10数年か?気仙郡側の考察から先に記したように気仙郡平田(ひらた)の戦いであるとの指摘がされており、おそらく史実であろうと思われます。

遠野市でもいよいよ約40年ぶり?に遠野市史が編纂され、現代編からはじまり通史編での中世の阿曽沼時代関連は10年後位の刊行か?

阿曽沼時代に関しての見解、考察がどのように記されるのか、たいへん興味を覚えるものでもあります。

遠野周辺の伝承も含み各地域の史料も数多く検証され編さん作業に活かされることを期待したいと思います。

 

 

話変わって・・・

折角、住田町まで出かけたということで少しだけ足を延ばして五葉温泉まで・・・

 

実は今年初となる天然温泉でもありました。

地元たかむろ水光園とか釜石のシーガリアマリンホテルの日帰り入浴は何度か行ってますが、温泉は内陸ではなく沿岸方面の温泉とは、例年の自分の行動とはだいぶ違う方向となっております。

久々の温泉、短時間ではありましたが堪能いたしました?

でも、けっこう混んでいて本音はゆっくりできませんでした・・・(;^_^A

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小正月行事「畑蒔き」

2015-01-15 19:18:58 | 歴史・民俗

 遠野の農村地帯でも農業主体の生活からサラリーをいただく職業に就く農家が大多数、いわゆる兼業農家というところですが、農業主体での在郷地域に伝承される民俗的な行事も様変わりしたり、或は廃れたりというそんな昨今でもあります。

 

そんな中、土淵町飯豊では小正月行事のひとつ「畑蒔き」を1月15日に行っているということで、仕事帰りに道草をして様子を観て参りました。

「やらさのえ~やらさのえ~、恵方(あき)の方から畑蒔き(はたけまき)に来ました。蒔かせますか、蒔かせませんか?」

と、子供達が訪問したお宅の玄関で問いただすと・・・

家人は

「蒔かせます」と返事をして、子供たちに菓子袋等をあげるという日本版ハロウィンのような内容の伝承行事である。

お菓子を受け取ると子供たちは次のお宅へと移動し集落内のお宅のほとんどを回る。

 

地域内全てを回るのは大変なので何班かに分かれて回っているようです。

この日は、おっ家内さまが同地域の出身なので、実家及びその近所で待ち伏せして取材いたしました。

 

 

小正月行事としては・・・

〇お作立て

米の団子を繭の形にしてミズキに刺して飾る(豊作祈願)

 

〇カラスよばり

小正月の午後、小豆餅や団子をカラスにやる。

「カラス、カラス餅やっからこぉ~団子やっからこぉ~」と叫んでカラスを呼び集める。

カラスによる食害悪戯防止祈願

 

〇お田植え

雪の庭を田んぼに見立てて松葉で模擬田植えを行う

豊作祈願

 

〇やろくろ

内容は不明ながら江戸期の遠野の殿様、弥六郎にちなむことであるのは間違いないが、子供達の行う畑蒔きに近いセリフも盛り込まれている。

 

他にもあると思いますが・・・

最近は地区センターや観光施設で小正月前後の土日にまとめて行うことが多いようですが、簡略されても廃れないで継続させることが肝心なのかもしれません。

 

 

ところで吾輩の暮らす地域、松崎町駒木ですが・・・

吾輩が小学生の頃は、このような行事は皆無で記憶もないし触れたこともなし・・・

社会人となってから何年経った頃だろう・・・?

集落の子供たちが畑蒔きに来たということで初めてこのような小正月行事を知りました。

そして自分も長女が小学1年となった時に父兄として子供達に引率して畑蒔きに関わりました。

以前から土淵町飯豊地区は畑蒔きを絶やさず継続していたことは知ってましたが、我地域と若干内容が違います。

 

家人に・・・

「畑蒔きに来ました。当年も毎年も相も変わらず恵方(あき)の方からお田植えが参った」

とセリフを言うと・・・

「畑蒔くぞ、畝を踏むぞ、畑蒔くぞ、畝を踏むぞ・・・」と繰り返し歌いながら簡略な踊りを皆で踊る。

その後、家人から菓子袋や現金が入った封筒をいただいて次のお宅へ向かう・・・。

昔はみかんやお餅が多かったそうです。

 

処違えばなんとやら・・・ですね。

 

ところで・・・

大きな声では言えないのですが、私は地域での伝承で大罪をふたつ犯してしまって、少しばかり心苦しいのが本音です・・・(-_-;)

 

ひとつは、駒木神楽(神人系大出早池峰神楽系)が廃れるのを見過ごしてしまったこと。

亡父は駒木神楽の大夫で保存会長でもありましたが、平成元年に神楽復活も13年後に父親が他界、大夫の後継者を育てないままだったので、後継者が無く他のメンバーも高齢でそのまま休止状態、さらに13年経過で廃れたも同然状態。

息子である吾輩は神楽に関わったことはなく芸音痴で心苦しいも何ともならず・・・

 

それともうひとつ・・・

小正月行事での畑蒔き

当時吾輩は小学校での集落の班長でしたが、長女が小学1年になると集落には上級生が何人かいて、この子供達と畑蒔きを毎年しておりましたが、娘が3年の時に上級生が中学生となって小学生が娘一人という状態に・・・

この時に隣の集落と合同とか中学生に再出馬を願って継続を図ればよかったものの、この年は休止としてしまい、翌年は1年生ひとりに長男が保育園年長組となったので3名でやるはずが1年生が風でダウン、家の子二人では心許ないのでその年も休止・・・(-_-;)

その後も4~5人に子供たちが増えるも班長も変わり新班長含み親達もやる気をみせなくなったので、そのまま休止状態となっていつしか廃れてしまいました・・・。

 

今はブログなんかでこうして紹介して良い事、記してますがホントは中身が伴っていないことも多々あって心苦しいです。

だったら復活の方向に行動開始したら・・・と、思われるかもしれませんが、行動力が無く勇気もなし・・・

情けないですがこれが現状です・・・(-_-;)

 

 

ということで、遠野の小正月行事取材に訪れたフリーライター女史の迎撃の宴

 

なかなか手に入らないという芋焼酎のお土産をいただく・・・

御馳走様でした。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷土芸能交流会

2014-10-05 18:22:15 | 歴史・民俗

 初の試みとなる郷土芸能交流会が遠野郷八幡宮鳩集殿で、このほど行われました。

 

まず初めに飯豊神楽(遠野市土淵町飯豊)が踊りを披露

 

八幡舞

 

木曽舞

 

中央で踊る巴御前を演じるのは義妹でして、以前は義姉が長らく踊っていたと記憶しております。

木曽舞を初めて観た演目という方々が多数おられましたが、なかなか演じられない珍しい踊りでもあるようですが人数が揃えば、これからも観る機会が増えるかもしれません。

 

 

 

飯豊神楽の後は・・・

座談会というかディスカッション

 

そして・・・

40名以上の参加者による交流会

 

市内の神楽団体や鹿踊はもちろん市外からも多数参加、花巻市、北上市、奥州市、大槌町・・・皆さん、楽しみながら意見交換をしておりました。

 

吾輩は郷土芸能関係者ではありませんが、ブロガーということでご案内をいただいており、参加するか迷ってはおりましたが、この機会に市内外の郷土芸能に携わる皆さんのお話を聞いてみようということで参加させていただきました。

 

けっこう若い方々が参加されており、また伝承に関しての意気込み等も知ることもできて、素晴らしい集まりでもありました。

 

宴もたけなわの頃、皆さん舞台にあがって即興で・・・

組が違う方々のコラボもみられるも見事に合わせてくる・・・

流石というか、素晴らしいの一言でもありました。

 

参加された皆さん全員とお話しできれば良かったのですが、人見知りする性格なので思うようにはいかず・・・

でも、何度も言いますが楽しく素晴らしい交流会でもありました。

 

同級生の笛吹さんと二次会へ移動・・・笑

余韻を楽しみ、三次会では飯豊神楽の方々と合流・・・

 

調子が出てきて午前様となってしまい、翌日は予定があったのに一日棒に振ってしまいました。

(;´・ω・)

 

 

またこのような機会がありましたら是非にまた参加してみたいと思います。

 

関係された皆様、たいへんお疲れ様でした。

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする