「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

飲み忘れ

2008-11-30 18:24:13 | 遠野
 既に話題も遠ざかりつつある遠野産ホップ使用のビール、特に無濾過は店頭には皆無状態かと思いますし、飲み屋さんの主流は缶と同じ「とりたてホップ一番搾り」で今が旬かと思います。

 たまたま飲み忘れた無濾過が冷蔵庫の野菜庫の底に・・・クリスマスまで取っておいてその時にいただこうかと考えております。





 高校生の長男が関西方面に修学旅行中、コンデジを持っていかれたので、一眼デジで一発撮影となりました。



くすっこ団子(串団子)




 ごま団子が好物です・・・。



おまけ

 ネネ2連発




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Starbright 汗

2008-11-28 18:05:53 | 遠野
 星のかがやき・・・朝から雨降り、夜空から星のかがやきは期待できない空模様・・・しかも寒い・・・こんな日は身体を温めてくれるラーメンか温泉に限る・・・汗・・・ということで・・・・。





 洒落たお店といった雰囲気が画像からは想像できると思いますが・・・少し久しぶりでしたが、本日のランチは・・・・。




 普通のラーメン屋さんです・・・笑






 ということで、今回も「仙台辛味噌ラーメン」・・・絶妙といいますか、スープ3口目までは、味が少し薄いと感じる。
 口コミほどのラーメンではないな・・・なんて思われる方もいると思います。
 もちろん、味覚は人それぞれですから・・・しかし、麺を食べるに従って味が少しずつ濃くなっていく感じ、無論スープもそれを追っかける感じ、中番辺りにはもうその味の虜になっている・・・まさしく絶妙、計算してのことなのか?それともただの偶然か?・・・・まっ、グルメレポーターのまねごとはこれくらいにして・・・とにかく美味いの一言、そして熱い・・・!


殲滅


 熱いのと辛いので、大汗を掻きながらいただいた・・・。



 
 おまけ

 呑気に寝ておりますが、寝ているソファは土だらけ・・・外歩きで泥足のまま家に入って昼寝・・・間もなく嫁さんにたたき起されて大掃除がはじまる。
 本日はゆっくり昼寝もできなかったようです・・・笑






 本日の一曲

 エントリーでのラーメン店、以前は曜日によって割引があったようですが、今は無いみたい・・・ムーン・マーズ・ジュピターとか表現されていたので、少女アニメを真っ先に思い浮かべたりして・・・・娘が二人いるので、よく見せられたアニメでもありました・・・汗

 では・・・こちら・・・
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袖高屋館跡と鉄穴流

2008-11-26 18:22:18 | 歴史・民俗
 穏やかな一日、程よい青空も広がり、まさに小春日和。



遠野第2ダム辺りから・・・。



☆袖高屋館・・・遠野町

 市内城館跡調査による資料掲載における遠野町分の城館跡探訪にて最後の探訪箇所となっていた袖高屋館を探訪いたしました。




 市道により切り通しとなっていますが、左右の山野が館跡と考察されている。
 画像での右手には稲荷社、さらに遠野初となる水力発電所の貯水池(石組)、市道を挟んだ左側山野が主郭部分と思われ、今回は左手の物見山側の山野を探訪いたしました。


 館主・築、使用年代不明・館に関する伝承無し。



 当初は上郷町内の某所を探訪するつもりでありましたが・・・(おまけで記述します)・・・。

 思いつきみたいな内容になってしまい、資料も持たずに来内方向へ車を走らせ、切り通しの南側の杉林から山野突入・・・。

 比高も高くなく辛い斜面登りも少なめ、早くも2~3段程度の帯廓が出現し、まさに館跡と確信を持ちながら探訪を続ける。



 


 少し平坦な場所を先に進むと・・・・。



 空堀跡が目に飛び込んでくる。


 まあまあな空堀、しかも上方の斜面にも同じような流れの空堀を発見。
 しかもさらに上方にもそれらしき窪みが見え隠れしている。
 これは3重堀か?街場に近い館も捨てたもんじゃないな、なんて考えながら、2重目の空堀跡を斜面に沿って進む。






 下2本の空堀は峰を大きくカーブして斜面を横断するように駆け下っている。


 東南側峰を断ち切る堀切・・・でもかなり小さい・・・。



 主郭の雰囲気を感じる平場に到着したが、背後の峰を断ち切る堀切が見当たらない。
 空堀跡は峰沿いに残されているものの、背部で反対側斜面に下っておらず、そのまま山野の上方にほぼ真っ直ぐ伸びている。
 これは堀跡ではなく道跡か?と勘繰りながらも逆側の斜面を見ると、こちらにも2重の空堀跡らしき窪地が北側斜面を走っている。
 しかし、空掘にしては幅も狭く深さも足りないような・・・こちらも上方の山野から下ってきているようだ?・・・。




 最初に上って来た東南側の斜面、下2重は空堀跡といわれれば、そのとおりと答えそうな十分な大きさではあるが、他は水路か?と思えるような形状・・・、今まで見た空堀跡とは少し違うような雰囲気がしておりました。











 館跡での生活用水を峰沿いに水路を作ってひいていた水路跡だと考察しているものが結構ありますが、その跡なのか、疑問を残しながら帰宅して資料を見ますと・・・・。



 鉄穴流(かんなながし)の跡と考察されているようです。

 
※鉄穴流
 鉄穴流しとは砂鉄を含む山砂を渓流に流し、軽い砂は早く下流に流し、砂鉄は底に沈んで溜まる。これを繰り返すと次第に砂鉄の含有率が高くなる。いわゆる比重選鉱法。

 すなわち砂鉄をとるために斜面に水路を作ったもの・・・と理解されますが、産鉄に関しての知識等は無いに等しいですし、遠野における産鉄関連の資料も未確認ですのでなんともいえませんが、鉄穴流し法を調べますと江戸時代に確立した方法、或いは戦国時代から続けられていた?とか色々と説はあるようです。


 確かに現地を見た限りでは空堀跡ではなく水路跡といった雰囲気が十分感じられますし、袖高屋館は館跡とする内容の他に産鉄に関わる一大施設であったという妄想が膨らんでまいります。

 上部で上質な砂鉄を精製、下部でタタラ製鉄・・・傍を流れる来内川は砂鉄の宝庫であったという伝承もあるような・・・なんかそんな雰囲気も確かにいたします。


 来内方向





 おまけ・・・上郷町暮坪



 当初は、上郷町の暮坪館(赤沢館)を探訪しようと現地に突入するも、背丈以上の笹竹に阻まれて探訪を断念、予定を変更しての本日の探訪となりました。

 上郷町では、赤羽根館・平倉館
 小友町・・・高館(鷹鳥屋)
 綾織町・・・丹内神社
 土淵町・・・なれえ館
 宮守町・・・鳴沢館

 市外・・・江刺区内

 
 今季は以上の館跡探訪を予定しておりますが、別館への再訪もあるかもしれません。


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白黒の世界

2008-11-25 17:58:48 | 遠野
 この季節初、少しまとまった積雪となった遠野、5センチ程度の積雪でしたが、お昼前には、ほとんど融けてしまいました。


 午前9時半頃の画像



 大袈裟ながら水墨画な世界、黒と白のみの光景が一時広がっておりました。





 時間の経過と共に少しずつ色も出始める・・・。









 23日の青笹しし踊の踊り納め・・・・
 青笹ししでの中堅どころの踊手で職場の後輩がおりますが、彼より早い段階から情報を得ていながら、当日の取材ができず・・・・残念無念

 あの中村のお堂としし踊りというシチュエーション、滅多にみられない遠野らしい画像を収録できるチャンスであったのに、まことに残念でもある。
 
 まだ少しだけ気持ち的には「まやくしゃ」しております・・・涙






 大奥ぶれんどの姐さん方が楽しげにシャッターを切る姿を想像しながら、聴いてみました・・・汗


 本日の曲・・・こちら
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遠野菊池一族Ⅳ・江刺角懸

2008-11-23 18:24:24 | 菊池氏

 遠野の菊池姓、その広がりの中において、ひとつの流れとして江刺(奥州市江刺区)からの菊池一族の遠野流入が一部ささやかれますが、歴史的な何かがあったものだろうという推測的雰囲気が大いに感じられるも、実際はその痕跡を示す資料等は皆無に等しく、ただその思惑のみというのが現実でもあると思います。

 ここでは江刺における菊池氏の流れ等を中心に、遠野菊池一族との関連を少しですが紐解いてみたいと思ってます。


○江刺角懸菊池一族


 
「岩手県史 巻1」より

 岩手県内における代表的な菊池系図である角懸菊池系図(江刺)

 江刺人首川下流地帯に、九州菊池氏の裔と称する菊池一族がみられる。
 菊池肥後守武重七世の孫氏恒を祖とし、その祖先は応永年中奥州葛西家の許に下向、葛西家に出仕、江刺郡の田谷、伊手の2邑を采地に給され、角懸邑に住したという・・・・。

 関連する系図には、江刺での祖を蔵人武恒の裔としている。


 江刺郡内に散見する菊地一族は、この角懸菊池氏から分派したものといわれ、角懸菊池氏は江刺郡における菊池一党の惣領との位置付と考察されており、史家達による考察の多くも角懸近在に在住した菊池武恒の存在は史実であろうという大方の見方でもある。

 武恒四代の孫、右近丞定恒の代に郡主江刺家の重臣となっていたことは葛西晴信からの書状により明らかであるとされ、先にエントリーしております当ブログでの「青篠館」の説明板にもあるように江刺氏の執権職、家老という表記に間違いはないものと思われる。

 ここでの疑問は、他資料に多く登場の菊池右近恒邦の存在、遠野における新谷菊池系図に記されその祖とされる菊池右近、角懸菊池系図に示される人物に右近恒邦の名はみられない・・・・。




「岩手県史 巻3」

 こちらも角懸菊池系図と同様に引用される代表的な菊池系図「立花菊池系図」

 和賀氏に仕えた菊池氏の系図であるが、江刺角懸菊池氏からの分流といわれ、祖先の中に角懸菊池系図にみられる武恒(菊池蔵人)の名がみられ、歴代やその兄弟の名の相違もありますが、ほぼ同系統の系図である雰囲気が大いに感じられる。

 菊池蔵人武恒の弟、恒光を祖とし、少なくても永禄元年(1558)に和賀郡立花郷(北上市)を和賀主馬により菊池重長が給されたとする見解でもある。
 
 和賀主馬とは少し代が下るが和賀忠親であると見解が示されている。

 立花菊池氏は、恒光の代に江刺から和賀領へ移住、立花郷主である和賀氏家臣、高橋宮内少輔の家老となったと伝えられ、立花郷17貫文を和賀氏より給されたのが始まりとも伝えられる。


 
 そして遠野への流入、その関連はとなりますが・・・・



「遠野市史 巻1・・・等より抜粋、一部加筆」


○菊池右近

 菊池右近とは角懸菊池氏当主である菊池右近恒邦といわれている。
 各系図には見えない名ではあるが、他資料等では右近恒邦の名が散見され、その多くは天正末期における江刺氏の内訌に関わる主要人物として登場する人物である。
 また、江刺青篠館の舘主であり、江刺氏執権職、さらに角懸郷主、角懸菊池一族惣領という極めて重要な立場でもあった。
 
 年代に関する見解はまちまちながらも天正15年(1587)、右近は主君である江刺兵庫頭重恒に諫言を入れるも、逆麟に触れ、角懸郷は江刺重恒勢に攻められ、右近の子と伝えられる太田代伊予は討たれ、右近は九死一生を得て遠野へ逃れたとされる事件である。
 この時、菊池右近の呼びかけに応じた遠野孫次郎(阿曽沼広郷)や気仙郡世田米勢が江刺岩谷堂攻めに江刺郡内へ侵攻するも、郡内の諸勢力が江刺氏に合力したことにより遠野勢等は敗れ撤退、残された菊池右近は成す術もなく郡内より逃亡といった内容だったと推察される。

 遠野市史では、菊池右近は南部信直に以来仕えたと記しているが、南部領とは遠野のことで、遠野の小友に一時的に隠遁、匿ったのは平清水景光(後の新谷禅門)であったのではないのか・・・と思われる。

 角懸菊池系図には恒元(左近)・・・天正18没・・・と記されているが、この人物が右近恒邦か?・・・江刺郡内より逃がれ、江刺菊池党の権限一切を失ったが為に天正末期に亡くなったことにされたのか?或いは系図の信憑性はともかく、後に伊達藩時代の江戸期に書かれたであろう角懸菊池系図、南部領との関わりを知る術もなく、そのまま記した可能性も大いにあるものと推測もできます。


 然らば・・・



「安俵菊池系図」・・・現花巻市東和町

 旧和賀郡東和町も菊池姓が繁華な土地でもありますが、上記の系図に菊池右近恒邦の名が示されている。

 遠野においては小友平清水家や上郷板沢家の祖と記される菊池右近ではあるが、遠野での足跡がほとんど不明である点、角懸菊池氏に関しては「恒」「武」の字が多く用いられているが、何故平清水氏は「景」なのか?

 遠野菊池党(入内島氏 著)で見解が述べられておりますが、菊池右近は菊池一族である遠野の小友平清水氏に草鞋を脱ぐも、豊臣秀吉による奥州仕置により葛西氏と共に江刺氏も没落し、江刺郡が後に伊達領となってから故郷に帰ったものかもしれないと記している。

 新谷菊池系図は遠野菊池氏である平清水氏と江刺角懸菊池氏の合作系図であること、これは大いに考慮すべき内容でもあると私も考えますし、安俵菊池系図に示される菊池右近恒邦の存在、これも大いに興味が覚えることでもある。


 菊池右近は遠野菊池一族である平清水氏に家系的な何か、大いなる影響を及ぼし、後年遠野を後にして同じ南部領となった安俵に移住したのではないのか、つじつまが合いそうにありませんが、旧和賀郡土沢近在は、史実として右近のかつての主家、江刺恒重が南部信直に仕え、給された地でもあり、この時、江刺氏の家臣達の中には菊池一族もいたものだろうと推測もでき、その筆頭的立場であった菊池右近は江刺氏に許されたものかもしれません。



 ということで、江刺からの菊池一族の流れの概略を少し掲載してみましたが、遠野への流入に関する事項は、ほとんど見えてこないが現状でもあります。

 葛西氏没落、これに合わせて江刺郡からも遠野へ入っただろう諸氏・・・栃内氏、下川原氏、男沢氏、及川氏、高屋氏・・・・等・・・多くの武家の名が散見されますが具体的な菊池氏の名はほとんど出て来ないのは何故なのか?

 平倉氏、平原氏、駒木氏、内城氏、切懸氏・・・これらの諸氏は一応に遠野では館主となっていた史実も伺えますが、こちらもどのような経緯でひとつの地域やら館を領有するに至ったか不明でもあり、江刺からの菊池氏遠野流入への説、天正末期から葛西、大崎一揆の後年説、これが第一に考えられるという思いが、仕切り直しという場面に変わりつつある現状に陥ってしまったようです・・・・。


 さらなる精進と、少し頭を切り替えて、そして改めて原点に返って、今一度調べ直しが必要と痛感しているところです。

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ルパンⅢ

2008-11-22 20:30:35 | その他
 葬儀やら所用で少し疲れましたので通常のエントリーはお休みいたします。

 ということで、中学時代から観ておりますアニメ・・・ルパン三世。
 30年も前のアニメでもどこか洗練されたといいますか、大人の雰囲気を感じるアニメでもありました。
 今見ても子供向けアニメを通り越したイメージを感じるのは私だけですかね?

 ということで、ふたつのテーマソングをお楽しみください。


こちら
 さらに
こちら
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青篠館(奥州市江刺区)

2008-11-21 20:52:36 | 歴史・民俗
 遠野菊池一族関連調べにての江刺菊池党との関連、このことに関する内容把握といった意味合いも含めて、この季節のフィールドワークたる城館探訪も併せて奥州市江刺区の気になる館跡をこのほど探訪して参りました。(11/17)


☆青篠館(あおざさたて)・・・奥州市江刺区玉里








主郭・・・山頂平場






主郭下部の帯廓



主郭背部の空堀・・・二重堀






 遠野の同規模な館跡と比較すれば、幾えにも展開される階段状の平場が見えない(山頂平場下に2段程度のみ)ことや、急傾斜地に立地されるも比高が低く、少し拍子抜けといった印象でもありました。

 空堀は二重堀、山野全体を包み込むように形成されておりましたが、主郭背部に関しては遠野規格型と称する形状で、こちらはなかなか見応えもございました。

 舘主は説明板にも記されているとおり、菊池氏・・・江刺菊池一族の惣領といわれる角懸菊池氏、菊池右近恒邦の名も別資料で確認できますが、江刺区各地に散見される菊池氏は、この角懸菊池氏から分れたものとも語られております。

 菊池右近に関しては、遠野小友の新谷氏、平清水氏、さらに上郷の板沢氏の祖と遠野新谷菊池系図では記されておりますが、この件に関しては後日に考察した内容をエントリーしたいと思っております。

 青篠館、探訪しての感想は、それほど防御性を吟味した館とは思いませんでしたが、小友町長野の新谷館の形状に酷似していたこと、このことが少しばかり驚いたといいますか、印象に残っております。

 小友町の新谷館は菊池一族の館跡、しかも菊池右近を祖とする平清水、新谷氏の館跡でもあり、資料のみならず史跡もその関連を示しているのか?・・・いずれこれらも含めて考察をしてみたいと考えております。


 奥州市江刺区の館跡に関しては、宮守町上鱒沢にある猿ヶ石川流域の城館跡では最大級といわれる鱒沢館と極めて酷似しているといわれる「高間館」と江刺菊池党の「太田代館」を早期に追加探訪と考えているところです。

 ということで、積雪もありましたが、いよいよ館跡探訪の季節到来、しばらくは探訪関連エントリーが増えるものと思いますので、よろしくお願いします。


 青篠館の空堀
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冬支度

2008-11-20 19:54:26 | その他
 先日の秋仕舞、農家の皆さんからみればタイヤ交換に軽農機具の整備でお終いでは失笑ものであると重々承知の助・・・笑・・・ではあるのですが現実がこうなのですからこれも仕方なし・・・・。

 そして本日は・・・・

 昨日には里でも降雪、そして今朝は雪降りの朝となり、里でも積雪となった。






 風が肌を刺すように冷たい、いよいよ冬将軍到来ながら、今年に自宅寝室の床が落ちるというアクシデント発生、さらに調べてみると湿気による土台の腐食等が進み、寝室のみならず居室や座敷にもその影響が・・・これにより思い切って一部リフォームを実施したが、冬期間の暖房器具はFF式ファンヒーターとするも先立つものが足りず、今まで設置に至らず・・・・。

 しかし、間近に迫る冬の足音には敵わず、遂に馴染みのお店にお願いして本日、取り付け工事を行っていただきました。








完成


 半日の工事で完成、これで一応の冬支度も完了ということになります。

 ちょうど、八戸の友人から鹿角名物をいただいておりましたので、ささやかながら秋仕舞の夕食といたしました。




 遠野産ホップ使用・・とりたてホップ一番搾りと鹿角幸楽ホルモン焼





 本日の思い出の洋楽・・・

 こちら



★ 下組町の大叔父逝く・・・週末、連休は少し忙しくなりそうです・・・合掌
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田瀬(たんせ)館跡

2008-11-18 19:55:38 | 歴史・民俗
 いよいよ城館跡探訪シーズン到来!
 とは言っても既に小友町の鮎貝館を一応探訪はしておりますが、まずは遠野郷内の知られざる城館跡探訪前に足慣らしとばかりに市外の館跡ふたつばかり探訪して参りました。


田瀬・・・花巻市東和町田瀬(旧和賀郡東和町)





 正面に聳える山は確か・・・砥森山


田瀬館跡



 かつての主郭部分に建つ標柱・・・かなり大きい・・・笑

 主郭部分は今は観光用の駐車場となり往時の面影はみじんもない、それでも湖寄りの斜面には・・・・。




 2段の平場(帯廓)


 
 二の郭?


 湖側の東斜面下に二の郭と思しき平場と遺構が確認できる。
 平場にはお稲荷さんが祀られている。


 かつての遺構、小路として利用されているが、主郭との連絡は土橋で下部は空堀跡と思われる。




 主郭部分


 上の画像部分、舗装され平らになってはいるが、かつては二段、三段の平場が展開されていたかもしれない・・・少し複雑な心境ですが、今となってはなんともいえない・・・。



 田瀬湖


 猿ヶ石川を堰止めてのダム湖である。
 当然ながら館が機能していた時代は、湖ではなく川が流れていただけ・・・。


 全景



 築年代、舘主は不詳といわれるも、葛西氏重臣であった江刺郡の惣領、江刺氏の一族が一時期在館していたとも伝えられる。
 
 和賀郡と江刺郡、そして遠野郷と隣接する地域であり、どの勢力が把握しようとも最前線といった位置付けで、まさに軍事交通の要衝という場所柄だったと推察できる。

 遠野孫次郎(阿曽沼広郷)時代、田瀬地域は遠野勢の勢力下で、遠野郷の内との見解もありますが、この田瀬館に遠野の配下の武将が居た時代もあったかもしれません。
 後に南部領となっている。



 実は、ふたつの館跡探訪の内、江刺区の青篠館跡も探訪、こちらは遠野菊池一族四として菊池右近恒邦と江刺から遠野流入の菊池一族について、後日考察の予定です。



 
おまけ

花巻市(旧東和町)



奥州市江刺区(旧江刺市)




 史跡、特に城館跡の標柱に関しては、画像のような文言が記名されている。
 かつての江刺市も東和町も小さな館跡に至るまで標柱や説明板が設置され地域の歴史や史跡の保存に力を入れていたことが伺われます。
 
 遠野遺産制度で守られる史跡や伝承は良いとして、他の知られざる史跡、こうしたものにもせめて標柱くらいは・・・・遠野物語だけが遠野の宝ではないはず・・・と思います・・・謝


 
※デジブックなるものに登録いたしました。
 姉妹ブログ「遠野発信・MAYAKUSYAず!」に記念すべき壱号デジブックを公開しております。

 こちら



 久しぶり・・・懐かしの・・・こちら
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秋仕舞08

2008-11-17 19:34:13 | その他
 秋仕舞、農家での農作業もほぼ終了、冬に備えるといった意味合いでもありますが、農家で無くなってからは、自分的には自家用車のタイヤを冬タイヤに替えた日が我家の秋仕舞といった位置づけでもあり、近日中に寒気団も入りこんで降雪になるとの天気予報、とは言ってもほぼ例年並みのタイヤ交換となった。


愛車、濁酒特区スッケ号

タイヤ交換中・・・。








 タイヤ交換は終了・・・来春の4月上旬まで冬タイヤを履くことになります。


 僅かに農家であった名残ということで・・・・



 草刈機械の燃料を抜いて管等の残燃料にてエンジン始動・・・・。




 軽くボディを拭いて御終い・・・笑


 親父が健在の頃は秋仕舞とした日の夜は御馳走を食べ、一年の労苦を家族で労ったものでしたが、今は日を改めて12月に入ってから何か美味いものでも食べようということにしている・・・(思いだけ・・・汗)
 また伝承行事の「ごし(御酒)」もここ数年行われていない、農家の忘年会といった意味合いもあるも、なかなか再開といった場面に至らず・・・。

 じぇんごたれ・・・を気取っても中身が付いてきていない・・・笑・・・でも根は「じぇんごたれ」でがんす・・・・笑



 タイヤ交換後の一服にて飲もうと決めていたお茶・・・。



 何か美味いものでも喰わせてくれたらやるニャー・・・。
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