「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

白鳥の田圃

2009-11-30 19:47:23 | 遠野

 いよいよ師走、一年もあっという間ですね。

 いずれ毎年、歳を重ねてきますと一年が早すぎると感じてしまう・・・汗

 来年は、大台・・・汗・・・としょり切符の仲間入りとなりますので、余暇にはその恩恵を受けて色々とみて廻りたいと思いますが、思うだけとなりそうな雰囲気も・・・・。

 

 ということで、10月、11月は雲海やら夜景で高清水通いで明け暮れた思いもありますが、既に白鳥もやって来ており、こちらを本格的に目にすることも気にすることもありませんでしたが、ここ数日、「ギャーギャー」と騒がしい・・・。

 今朝、いつもの道を走っていると田圃に白鳥が・・・・。

 お昼過ぎてもいる・・・・。

 

 

 

 

朝は20羽程度おりましたが、昼は10羽程

 

 白鳥は水辺にいないと絵になりませんね。

 餌付け等ができなくなって、白鳥の世界もバブル崩壊・・・?

 自分達で餌探し・・・人間の世界と同じで厳しい現実ですね。

 

 

積雪となると田圃に残るこぼれた籾殻もなかなか食べれなくなりますね。

 

 

 

暮坪そばをいただく・・・。

 

 

暮坪そばセット

 

暮坪かぶのおろし

 

 地元産の飯豊蕎麦と、これまた地元産、究極の薬味、暮坪かぶ

 

 暮坪地区で栽培されるもののみ暮坪かぶと呼ばれ、同じ品種でも別地域で栽培されたものは、暮坪かぶとはいわない。

 例えば姿形、味も一緒でも駒木で作られれば暮坪かぶではなく駒木かぶとか膝かぶ・・・笑・・・というしかないそうだ・・・聴いた話・・・。

  でもこの蕎麦も含めてやはり美味かった・・・・。

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奥友館再訪

2009-11-29 12:38:29 | 歴史・民俗

探訪による画像は11月27日のものです。

 

奥友館全景(小友町)

 

 

 今回で2回目の探訪、やはり前回探訪での画像を縮小してしまい原画像が無いということで、画像取材含めて探訪いたしました。

 前回と同じく保育園の南側斜面から進入、前回より笹竹が生い茂り、細かな木々も増え、僅か30メートル足らずの斜面であるが登り難い場面も・・・

 

及川館跡

 斜面を登り切ると3段程度の平場の一番広い場所に行きつく。

 奥友館跡の麓部分は、かつて遠野南部家臣の及川氏の屋敷があった場所と言われている。

 保育園、小中学校の南側部分の山麓一帯がその敷地であったそうですが、学校等公共施設建設の際に平場は削られ、法面となったとか。

 僅かに屋敷跡の名残として、稲荷社が鎮座する画像付近が残されるのみといわれている。

 葛西氏遺臣の及川善右衛門恒吉が遠野に流浪し、後に八戸弥六郎直義(遠野南部家)に仕えたのがはじまりといわれる。

 小友の金山開発に関係した一族とも考察されている。

 

 

 さて、前回の探訪では、及川館跡の平場から上部の山野目指して斜面を直登して、もの凄く辛い思いをしただけに、本音はできれば来たくなかった・・・汗

 しかし、画像取材も上郷の板沢館と青笹町の丑館(臼館)、そしてこの奥友館を残すのみでしたので、まずは辛いと思われるところから早目に片付けようということで、意を決して再訪したわけです。

 ところが、現地でよくよく斜面を見渡すと、細い道風の跡が斜面にビッシリ張り付いた階段状の平場を結ぶようにジクザグに付いているようにみえる。

 この跡を辿って登ってみることに・・・・これが案外楽で、あっという間に山頂近く南東側の帯郭に行きついたのでした。

 そしてその場所には、きちんと一段上の館内では一番広い平場への道跡がさらに残されている。

 おそらくこの部分が大手口だろうと思われる。

 その平場に行きつけば、この館跡は攻め落としたも同じこと、館跡探訪のコツばかりではなく、身体も山登りに慣れたのか、今回は汗こそ搔きましたが、楽勝といっても過言ではありませんでした・・・。

 

 二の郭(館跡内では一番広い平場)

 

二の郭北側の土塁

 

東側斜面の平場(帯郭)

 

 

 奥友館跡は南北に長い館で、北側からの尾根を3本の堀切で山野を断ち切り、主郭(本丸)は内側から1本目と2本目の堀切跡の間の平場であると思われる。

 それぞれの郭には土塁が施され、東側は急な斜面であるが6段の平場が整然と配置されている。

 西側は空堀二重が下り、下部付近には小さめの階段状の平場がみられる。

 小友町内の館跡としては造りも吟味され、まさに山城としては当地方でも大型城館に属する館跡でもある。

 最近、北側部分から西側斜面の木々が伐採され、奥部の尾根付近が禿山となって、遺構等が見やすくなっております。

 

主郭

 

北側尾根から堀切(館内)

 

外側の堀切跡

 

伐採された斜面

 

 館主を本姓菊池氏の奥友喜左衛門(小友喜左衛門)と伝えられる。

 館主及び館の概要は別家ブログ「遠野郷中世城館録」で取り上げる予定です。

 

 

巌龍神社

鷹鳥屋川を挟む位置に鎮座する

 

かつての宿場町の色合いを残す通り

 

宿場町小友

 応永24年(1417)創建と伝えられる巌龍神社から小友川沿いに東に宿場町が形成されている。

 小友地区は古くから金山地帯であり産金が盛んな地域でもあった。

 戦国末期頃から江戸初期にかけてゴールドラッシュに沸いたとも語られ、この時に宿場町としての基礎が作られたとも考察されている。

 また気仙郡への交通の要所でもあり、残される町並をみると、かつての隆盛を彷彿させる雰囲気が十分に感じられる処でもあります。

 

 

おまけ

 

小友町方面の館跡や史跡めぐりでの昼食や休憩は・・・・

 

産直ともちゃん

 

中華そばセット

 

 数年前までは、隠しメニューであった中華そば・・・知らないものですから、いつもは天ぷらそばセットをいただいておりました。

 いつしか表に登場、あっさり系の美味しいラーメンでした。

 セットに付く味噌おにぎりとの相性はgoo・・・・。

 

 

 それと小友町の某工場で開発された「カッパン」

 

一人用のジンギスカン鍋セット

 

遠野らしいデザイン・・・

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郷土芸能と小生・・・

2009-11-27 18:51:29 | その他

遠野郷しし踊・元祖角助駒木踊 

 

 

2009.11.3 駒木鹿子踊保存会結成50周年より

福泉寺五重塔

 

 小生は、地域では駒木鹿子踊りに、ほとんど携わってなくて、たまたま子供達が中学生になって踊りに参加するようになって関わっているに過ぎない。

 ですから、踊りの内容等もほとんどわからないが現状で、ただの付添人でもある。

 しかし、何を隠そう・・・笑・・・実は保育園の年長の頃から小学6年生まで、ふくべとして踊っていたのですよ・・・汗

 でも、踊りもほとんど忘れ、今は踊れない・・・。

 このことを知っている方々は少ないと思いますが、別に嫌いでもなければ好きでもない、そんなどうでも良い位置付けの鹿子踊りでした。

 

 小生には学年で二つ下の弟がおります。

 弟は小生と同じ頃に鹿子踊りを始めたので、少年時代に関してはキャリアは少しだけ小生より長い、弟が小学校に入る頃、親父に「しし頭被りたい」とねだったことがあった。

 親父は即反応して、大喜びで子供用のしし頭を作らせ、翌年から弟は、しし頭デビューとなった。

 今でこそ、子供ししはそれほど珍しくないですが、それでもカメラマンや観光客の人気の的、当時は珍しかったので、一気に話題となり、弟の周りは人だかりだったと記憶しております。

 兄としては、こんな悔しいことはない、本音は自分も親父に頼んで、しし頭被りたいと言いたかった・・・。

 しかし、弟がもてはやされ、口に出すこともできず仕舞い、小生はふくべの子供達のその他大勢の一人と化していた。

 親父も鼻高々で、地域でも弟は親父の芸能のDNAを受け継ぐ逸材と認知していたようだ・・・。

 比べられる兄の小生は、たまったものではない、それでもなんとか小学6年生まで駒木鹿子踊りに加わってお祭り等には参加しておりました。

 弟も小学3年生か4年生になると、身体も大きくなって、子供用のしし頭を被ることができず、また新規に作成も少しお金がかかるので、親父も我慢して、ふくべをさせていた。

 小生も弟も中学へ進むと、鹿子踊りから遠ざかり、その後は踊ることはなかったのですが、社会人となった弟は、駒木鹿子踊りに加わって、再び踊りはじめる。

 地域の知り合い等が家にくれば、「弟は踊りが昔から好きだったもんな、兄貴のおまえはやらないのか」と時折聞かれた。

 親父は決まって「親方(兄)の方は、しし踊り、まんてダメで(まるでダメ)おんず(弟)とは違う」といつも言っていた・・・この言葉を聞くと、無性に腹がたったことを思い出す。

 以来、鹿子踊りなんて、絶対関わらないぞと思ったものでした。

 

 

 弟は成人になるや、付き合っていた彼女と結婚して婿養子となって地元から離れるも、駒木鹿子踊りを続けておりました、しかし数年後には地元の早池峰しし踊・上柳しし踊りに加わり現在もしし頭として踊っている。

 

 郷土芸能は、からっきしダメと小生に烙印を押した親父ですが、親父は若い時から駒木鹿子踊りの太夫(太鼓)をしていた。

 自慢するものではないが、稀にみる天才太夫といわれ、常に駒木鹿子踊りでの太夫では中心的な役割を長年担っていたらしい。

 現在の保存会の師匠格の方々からは現役時代の親父の話は、ほとんど出ないが、40代50代で引退した踊り手のOB達からは、あれほど踊りやすい太鼓はなかったとよく言われる。

 踊りが太鼓に合せるのではなく、太鼓が踊りに合わせる、これができる数少ない太夫であったこと、そして喉が自慢の親父で、澄みきった高音が持味で歌詞もよく通った声でもあった。

 そんな親父も、57歳の頃ですかね、小生が結婚する辺りに、遠野郷八幡宮例大祭を一週間後に控えた練習の夜、突然と早く帰宅して「鹿子踊り引退」と宣言した。

 仲間内で何かあったとは察しがついたが、詳しい内容は今もわからない。

 時間を空けず、当時の保存会長が家に来て説得を試みるも親父は頑として受け付けなかった。

 会長さんは毎日、我家に通って親父を説得していた。

 また仲間の方々も変わるがわる来ては、なだめるように説得したが、遂に親父は鹿子踊りの太鼓を叩くことはなかった。

 でも根っからの鹿子踊り好き、若い時に歌詞の本を書き残す程、この分野には心血を注いだはず、祭り当日には半纏を着て出かけて行きましたが、太鼓は最後まで持って行きませんでした。

 

親父が残した駒木鹿子踊りの教本

 

 

 

 

 翌年には完全に駒木鹿子踊から引退、地域の同年代で鹿子踊も神楽も若い頃に共にやった人達と駒木神楽の復活を目指すことに己の道を据えたようでもありました。

 親父は鹿子踊りの太夫と並行して若い頃は神楽の太夫もしていた。

 駒木神楽が昭和40年代前半で一時活動休止してから20年余り、初代会長に推されて復活となった。

 36の演目があるという駒木神楽、親父は21の演目を即叩けたらしい・・・ここでも天才的な太夫と言われていた。

 当時、よく我家に出入りしていた新張だったか八幡に住むという親父と同年代で酒好きのオヤジさんがいた。

 親父とはウマが合うらしく、よく家に来ては大五郎を昼から飲んでいた。

 名前は忘れてしまったが、親父が絶賛する笛の名手らしい・・・神楽の笛を吹かせたら天下逸品と酔ってるとはいえ互いに誉め称え合っていた・・・笑

 一時期、助っ人として駒木神楽の笛を吹いていた。

 以前は、やはり土淵の柏崎から笛の名人をお願いしていたのですが、この方が体調を崩されて、その代役にお願いした人らしい・・・どうしても思い出せない・・・笑

 

 結局、駒木神楽も太夫は親父ひとりであった為、親父が亡くなると、そのまま休止、そして途絶える運命となってしまった。

 後継者を育てなかった親父というイメージがある。

 無論、子である小生さえしっかりしていれば・・・との声も確かにあった・・・汗

 親父への反発もあった、郷土芸能は好きでも嫌いでもなかったが、弟と比べられた他に、この分野で期待もされなかったので、途絶えるとかそんなことも考えたこともなかった、今となっては難しい内容だと痛感しているところです。

 

 

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大梵天館跡・川井村小国

2009-11-25 18:00:45 | 歴史・民俗

 いつもよりは暖かい朝を迎えましたが、未明には雨が降った模様・・・。

 午前中も早くから曇り空が一転、青空に変わり小春日和な雰囲気でしたので、以前からいつかは探訪したいと考えていた下閉伊郡川井村の小国館跡(大梵天館)を探訪して参りました。

 国道340号線立丸峠は積雪となると、やっかいな峠道と化し、春先でも凍結路となったりとかなり怖い峠道でもありますので、本格的な雪のシーズン前でなければ安心して小国にも行けないと考えておりました。

 本日はいいお天気で気温も高め・・・一応、絶好の館跡探訪日和でもありました。

 

 しかし・・・・流石、天下の難所、立丸峠

 

川井村側

 

 さほどの積雪ではないですし、道路も融けているのですが、それでも川井村側は一部シャーベット状の圧雪箇所もあったりと、なかなか気を抜けない場面も・・・・。

 

 それと、恩徳の心霊スポットの空家は、解体されて古材が積まれているだけとなっておりました。

 

 

 ということで、小国館、別名・大梵天館

下閉伊郡川井村小国

 

 

帯郭(西側)

 

山頂平場・・・本丸

 

堀切跡

 

 標高が約400m・比高約100m

 南北に長い館跡で、北側尾根に砦風の小さな郭、本丸までの尾根にふたつの堀切を配し、本丸下の西斜面には5段程度の帯郭、南部分の尾根の山頂には見張場的な二の郭があり、本丸と二の郭との間は、大きめの堀切で区切られている。

 

 砦的な小規模な城館跡という内容を見聞していたが、遠野の館跡の標準クラス並みの規模で、帯郭的な平場は広めで、しっかりと斜面が切岸されて完成度といいますか、残存度はかなり良好でした。

 また二の郭とを隔てる堀切は深さ、幅とも十分で遠野地方であれば大型に属する造りで、少し驚いております。

 東、西斜面は断崖といっても良いくらい急な斜面で、北側の尾根は幅1メートルにも満たない小道風で、立ちくらみでも起して、「くらっと」とでもなれば断崖を転げ落ちそうな恐怖がありました。

 もちろん、つまずいたとか、足を滑らしたとかでも同様ですがね・・・汗

 ですから北側方面は、ほどほどの探訪にして本丸跡へ・・・こちらは東西25m程、南北約80m程の比較的広い平場となっておりました。

 

 2008年に麓と本丸に説明板が設置されたようで、簡単な縄張図と館の歴史が記述されております。

 またその際に、かつての大手口に通じる小道が少し拡張され、遊歩道として整備されたようで、本丸への道があります。

 ただ、かつての道を表しただけの小道で、遊歩道とはいえる内容ではありません・・・笑

 でも麓のお寺さん裏の斜面を直登するよりは、遥かに楽です・・・笑

 

本丸北側の尾根にある秋葉、愛宕権現の石碑

 

 館を築いたのは武田彦十郎忠直といわれる。

 当初は小国川を挟んだ向かいの末角集落後方の末角館に居たと伝承されている。

 武田氏の出目に関しては不明であるが、閉伊郡は閉伊氏が広く浸透していた地域で、その中でも惣領は宮古地方にいた田鎖氏とされている。

 武田氏は閉伊氏の影響下であったかは、こちらも不明ですが、小国館は文亀2年(1502)に築館されたと伝聞されている。

 その後、小国館の武田氏は、同地域の江繋氏の攻撃で館は陥落、武田氏は滅んだともいわれますが、麓の説明板には、三戸南部第22代、南部政康の家臣であったと記載されている。

 遠野へ通じる街道沿い交通、軍事の要衝との位置付けで、極めて重要な地域の要であったともいわれますが、当時の遠野は阿曽沼氏の治世、険阻な北上山地で遠野と小国は阻まれていたとはいえ、歴史的な伝えは遠野と閉伊地方との攻防等は語られていない。

 遠野では気仙郡や江刺郡との争いは度々あったと伝えられのに対して、この方面は平穏であったこと、これも少し不思議な思いでもある。

 武田氏第3代、武田彦右衛門重直の時に豊臣秀吉の天下となり武田氏は下北半島の田名部へ移封したといわれる。

 小国館すなわち大梵天館は廃城となったと伝えられる。

 なお、説明板には、武田一族が建てた石碑があったと伝えられるも、南部氏の命で土中に埋められたと伝えられ、その後、地域で何度も発掘を試みたが未だ発見に至らずとしている。

 武田氏の家臣の一部は岩泉小本に流浪した人々もいて、後に中里姓となったともいわれ、さらに武田姓が多い地域ともいわれる。

 

 大梵天館跡は別家ブログ「遠野郷中世城館録」で詳しく掲載予定です。

 

 

 鶏頭山大円寺(曹洞宗)

 

 開基は応永元年(1394)江刺郡黒石の正法寺二世月泉良印の開基と伝えられる古刹とされる。

 その後、無住寺となり荒廃したが初代武田彦十郎忠直によって再興と伝えられる。

 

 

古い狛犬

 

対の狛犬、よくみると、どちらも顔だけ欠損といいますか、無くなっている?

地震とかで落ちたとか?

歴史的何かではないですよね・・・?

 

 

かつてのメインストリート

 

歌声喫茶?

 

 遠野と川井村小国地区は、人々の往来が結構あって、遠野の土淵辺りでは小国から嫁いで来たという方々も案外多いようにも思えますし、土淵ばかりではなく松崎や遠野の街中でも結構いるのではないでしょうか。

 今や遠野を代表する郷土芸能で、遠野まつり等では、カメラ親父達が群がる大人気の土淵町「山口さんさ」は、大正時代に小国村尻石から山口の厚楽家に婿養子と入った尻石磯吉が生家の兄嫁を連れて来て、さんさを伝えたといわれる。

 

山口さんさ・・・遠野まつりより(2009.9.19)

 

 小国の尻石とくれば、我菩提寺、福泉寺の先代住職、宥燃和尚と現住職正全和尚は小国の尻石地区のご出身である。

 尻石姓でもありますし、何を隠そう・・・我祖父は小国関根の中野家が実家で、祖母に婿として入った人でもあります。

 なんの因果かわかりませんが、従妹が祖父の生家に嫁いでいるというおまけ付きで、完全なる親戚状態が継続中でもあります・・・笑

 

 車社会となる以前、昭和30年代までは、鉄道の沿線以外、人々の移動手段は徒歩で、小国の祖父の実家へ行く際は早朝に自宅を出発して、到着はお昼もだいぶ過ぎてのことだと聞いたことがあります。

 昭和の初め頃まで、駒木妻の神奥の大沢不動宵宮では遠く小国からも峠道をいくつも越えて参拝した人達もあったといわれ、祖父、祖母もこの妻の神から土淵西内へ出るルートで立丸峠を越えて小国へ行った時代もあったそうです。

 

 現代でも、婚姻等で交流がみられる小国地区、青年層の各種団体なんかも、わざわざ夜の遠野へ来て飲会をする方々もいたり、スーパーに買物に来たりする人々も沢山おられるようです。

 難所である立丸峠にトンネルを・・・・早期実現してほしいところでもありますね・・・。

 

小国川対岸の地域

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松崎遺産、松崎館

2009-11-24 17:27:44 | 歴史・民俗

 今朝の勤務地宮守はプラス1度、少しビリっとしましたが、辺り一面濃霧の中・・・・。 今朝は久し振りに遠野盆地は雲海の中かな?と思いながら帰宅となったが、なかなか霧が晴れない・・・。 

ようやく10時過ぎに・・・・

市街地方面

 

天ヶ森、高清水

 

霧が晴れ渡るとすばらしい青空が広がっている。

薬師岳・早池峰山

 

 久々の雲海日和だったと思いますが、高清水山頂は積雪もありそうな・・・?

 雲海ハンター達は、おそらくオフシーズンとなっているものと思いながらも、それでも積雪が10センチも20センチも積っているわけでもなく、冬タイヤ装着なら、まだまだ行けそうな雰囲気も・・・・。

 平日ですし、そんな強者はいないと思いますがね・・・・とりあえずドアップ画像をどうぞ・・・笑

 

誰かいたらびっくりです・・・笑

 

 

 とうことで、お昼過ぎ、本日の館跡探訪は何処にしようかと悩んでおりましたが、久し振りに地元の館跡でもと思い、松崎館跡を見ることに・・・もう少し詳しい図面でも描こうということで出かけて来ました。

 

 

 実は松崎館跡は今回で記憶が正しければ9回目なはず・・・。

 遠野市内外の城館跡探訪では一番訪ねている場所、訪れる度に好感度が増しているような・・・今回も先日探訪した大迫の大迫館と比べながらの探訪となりましたが、ひとつひとつの遺構はそれほど大きいものではないが、中腹部の帯郭は、かなり広くて大きい・・・大迫館の大きい帯郭よりは広くて立派だと感じる。

 そんなことを考えながら見ていたら図面もなかなか面倒になって最後は描くことを放棄してしまった。

 

帯郭跡

 

 館跡の規模はさほどでもないが、隣接山野にも二の郭と思しき大きめの館跡があり、これと合わせれば、当地方ではかなり大きな館跡となり得ます。

 今回は隣接山野の探訪はしませんでしたが、それでも本来の松崎館跡を見るだけで十分な遺構の数々・・・かなり素晴らしい館跡だと思います。

 さらに山頂の主郭の平場・・・杉木の間引きなのかかなり伐採されており、かなり明るくなっており、いつにも増して平場が広く見える。

 しかも堀切跡の東側斜面の杉小立もかなり伐採されており、今まで見れなかった部分がよく見え、それらをみてさらに感動する。

 堀と堀の間は大きめの土塁が施されていた・・・・また空堀が駆け下る様も見事でありました。

 

 山野を断ち切る堀切跡

 

 鱒沢館の堀切の堀底の幅には敵わないが、それでも高さも十分、何よりも5重の堀切が残されており、遠野でも珍しい部類の館跡です。

 これが松崎館の最大の見せ場で、いつみても素晴らしいと感嘆の声しか出ない。

 

 

西側へ下る堀跡

 

今回見ることができた東側堀跡の土塁

 

 阿曽沼家臣、松崎氏の居館、松崎館

 その昔、どの程度の戸数の村を抱えていたかは不明ですが、松崎村50~100戸近くか?人口も500名いたかどうか?

 石高でも300石前後と思われますが、これだけの大がかりな土木工事を行い、しかもよく吟味された館、このようなすばらしい館跡が地元松崎に・・・いやっ遠野に残されていること、素晴らしいと思います。

 是非に地元で遠野遺産に申請いただき認定をいただくようお願いしたいですね。

 遠野でも残される遺構も規模もトップクラスの館跡、地元の財産、宝だと思います。

 

 探訪を希望される方々がおられましたら、ご案内いたします。

 

 麓に鎮座する山の神社

山主は地元M浦氏一族

 

松崎館本館跡

 

サブ機のE-500で撮影

やはりオリンパスブルーがでるという最後の機種、いい色合いの青だと自己満足。

無論、補正等はしていない。

 

 

 

おまけ・・・

 

タイトル「あっかんべぇ~」・・・・笑

 

たまたま某お宅の前を通りかかると・・・・

一匹の猫が道路を横切る・・・。

 

庭側でこちらを見ていたので、まずは一枚記念撮影・・・笑

 

 

 

 

 

可愛い猫っこだ・・・。

でも少し警戒している雰囲気・・・・。

 

怪しいものではありません、猫好きのとらねこさんですよ・・・。

 

 

あんたなんか知らないニャー・・・・汗

 

べぇ~~っだっ!

 

 

 

 

 

あちゃ~・・・・笑

 

このぉ・・・ねごきしぇっ・・・笑

 

ぶれんど某女史の飼い猫なはず・・・笑

 

 

 

久々、懐かしの歌・・・・

中学の頃、一番思い出深き歌

 

http://www.youtube.com/watch?v=LsvLuXnebTI

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板沢しし、小春日和に舞う

2009-11-22 19:03:27 | 歴史・民俗

 遠野郷しし踊り、板沢しし踊りの踊り納めを翌日に控え、本日11月22日、その踊りの記録の為の撮影があって、午前、午後とほとんどの演目が披露されるとの情報をブログ「遠野なんだりかんだり」(笛吹童子氏)で得ておりましたので、画像取材も兼ねまして見学して参りました。

 

午前10時頃、集合場所のお宅から一斉に地域の旧家へ移動

ビリッと冷え込んだ朝でしたが、青空が広がり久し振り良いお天気に恵まれました。

 

 

踊られる場所は地域での名士、旧家のお宅

かなり大きな古民家

 

通り踊りから各種誉めの踊り・・・

 

 

位牌誉め

 

 

柱掛り

 

 

 午前は柱掛りを演じて終了、午後は四っ掛り、雌鹿子狂い等の見せ処の演目ということであったが、小生、前夜の飲会で体調が悪い、しかも睡魔も降臨しかけて、取材を共にした笛吹童子氏にこれにて失礼する旨を伝えて自宅へ戻りました。

 翌23日は板沢しし踊りの踊り納めが予定されているそうですが、本日踊るということで、若干踊っただけで納会の予定とか、また青笹しし踊りも23日に踊り納めの予定で、遠野プロガーの多くは青笹しし踊りの取材へ出向く雰囲気が・・・・小生は勤務日となっているので、今年のしし踊り関係は本日の板沢しし踊りで終わりとなると思います。

 

午前の部終了

太刀振り(刀掛け)の上郷美人の彼女達

 

 さて、ちょっと今までの本音を語らせていただきます。

 今まで、少なくても今年になるまでは、上郷町のしし踊りは自分の中では認めたくない、観たくない地域のしし踊りでした。

 なかでも板沢しし踊りは、その中でも最たるもので、表には出さずとも観るに値しないと決めつけておりました。(関係者、ファン方々、上郷町の皆さんすみません)

 ひとつは駒木しし踊りから習い覚えたと伝えられるも、何故に旗印に元祖の文字を染めているのか、確かに上郷町では板沢しし踊りを習い覚え、他のしし踊りが創始されたと伝えられ、上郷町では元祖、本家であろう・・・でも少し納得がいかなかった。

 さらに、テンポが速く踊りは躍動感というより飛び跳ねている印象、それと小生が駒木しし踊りの付き添いをここ何年か勤め、カメラマン的に少し離れた場所にいることもあって、以前にも何度か愚痴みたいな内容を記したことがありましたが、観客の一部からは、駒木しし踊りはつまらないとの声を聞いたり、決まって駒木しし踊りの近くには板沢や細越のしし踊り団体がいて、「細越の方が面白いぞ・・・」とか「あっちに板沢がいるからあっちへ行こう・・・」とかの声も耳にしたことがあった。

 こういったことから、上郷町のしし踊り団体は嫌な存在と化していたこと、駒木しし踊りが遠野の元祖とするならば、彼等の踊りはアレンジしすぎ、しし踊りの流れがこういった方向へ行ってしまうと、将来はさらに踊り方も変わるのだろうな?・・・なんて勝手に思ったりもいたしました。

 しかし、こうして青笹しし踊り等、板沢も含めて他団体の踊りを観る機会が増え、なかなか観客に魅せつける何かがあると感じはじめ、特に板沢しし踊りに関しては、平日開催であった遠野郷八幡宮例大祭に参加したこと、神事としてのしし踊りという捉え方に感銘を受けたこと、11月3日に行われた駒木しし踊保存会結成50周年に歴史的関連が伝えられるとはいえ、板沢しし踊りの重鎮の方々が出席されお祝いいただいたこと、大袈裟ながら義を重んじる団体なんだとこちらでも勝手に感じたところです。

 単純な考え方なのですが、各団体それぞれ素晴らしい内容もあって、何処が凄いとか上手いとか、そんな心の狭い考え方であったことが恥ずかしいです。

 来年から、堅く考え過ぎず、遠野郷しし踊りを楽しみたいと思っておりますし、板沢ししはお気に入りのひとつとなりました。

 板沢しし踊り保存会の皆様、すばらしい踊りをお見せいただきありがとうございました。

 今後、ますますのご活躍をご期待しております。

 お疲れ様でした。

 

 

 一反もんめ目撃

 

 

これはスクープですぞ・・・・汗

 

 

 

ついでに・・・

 

 21日、東京から知人が久しぶりに来遠、家族ぐるみでお付き合いがありますので、我家族含めて総勢8名の宴を、遠野ぶれんどの集まり等でよく利用する某店で行いました。

 

 

 小生は得意分野ではありませんが、知人は魚介類、特に新鮮な三陸の味を楽しみにしており、大正解だったようです。

 

 未成年者を一旦自宅等へ送り、大人達だけで二次会へ・・・・

 知人は沖縄出身ということで以前遠野で知り合いとなった宮古島ご出身のM氏をお呼びして、大いに盛り上がる・・・・。

 二次会の場所は・・・・?・・・汗

 

 ちょっと有名なマスター?ママ?・・・笑・・・がおられる某店で・・・。

 

 

 

 

 すばらしいキャラクター・・・ホント・・・ピンクレディのカラオケが始まると、歌に合わせて振り付けをご披露・・・凄い・・・よく覚えてますねぇ・・・。

 また、我々が歌を歌う度に手拍子と笑顔・・・・お客さん思いだと感じる。

 そして何より歌が上手い・・・ホントなかなか良い声で、歌手並でしたよ・・・ホント

 

 結局、代行も終了、タクシーもほとんど終わった時間の解散、夏場なら夜が明ける時間帯です・・・汗

 なんとか運よく知り合いのタクシーが通りかかり、自宅に行き着くことができました・・・大汗

 

遅いお帰りだ二ャー

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大迫城探訪

2009-11-20 19:08:19 | 歴史・民俗

 紫波町に用向きがあって出かけておりましたが、そのついでといいますか、2時間程早く自宅を出発して、気になっていた城館跡を探訪いたしました。

 

大迫城跡

花巻市大迫町内川目

 

 遠野の城館跡探訪、秋・冬編に突入しておりますが、用向きついでに何処か探訪できないものか、と少し悩みましたが、遠野市外の市や郡(旧郡)等で、その地域を代表する城館跡ということで、紫波への道すがらということ、旧稗貫郡を代表する城館跡ということで大迫城を選択いたしました。

 以前、ネット仲間の八戸の藤九郎さんが探訪した経験があって、その攻城の模様をお聞きしたことがありましたが、かなりきつい山城との印象、直前まで実は悩みながら車を走らせておりましたが、覚悟を決めて大迫バイパスから早池峰方向へ右折、間もなく目印の桂林寺に到着、勝手ながらお寺さんの駐車場に駐車させていただき、城跡の山野に分け入りました。

 さて、何処から登ろうかと思いつつも民家等が数件ある沢沿いの道をテクテクと歩いていると山野へつながる林道を発見、そのまま谷沿いをまたもやテクテクと歩く・・・。

 城跡は右手の隣接山野らしい・・・しかし、道沿いに徐々に登って行く・・・途中、林道が少し下るところがあって、その場所には隣接山野からの尾根があって、その尾根を少しずつ進む・・・。

 間もなく空堀跡を発見、斜面には大きめの帯郭と思われる平場があって、その上はどうやら山頂らしい・・・。

 案外楽に辿りついた雰囲気・・・汗・・・搦手側から登城したような・・・笑・・・間もなく本丸の背後、東端の堀切にたどり着く。

 遠野の標準的な館跡の堀切と遜色はない、むしろ小さい。

 どうやら二重の堀切、内側は幅狭な土橋があって、わたると若干な段差を越えるとそこは主郭、本丸と思しき大きめの平場がありました。

 

北側の帯郭

 

 

堀切跡

 

 本丸は案外広く、しかもその本丸から覗いた北側や南側斜面に張り付いた階段状の平場は案外大きくて、幅も広かった。

 遠野の比較的大きな館跡とは比べものにならない帯郭だっ、これより大きいのは遠野では鍋倉城か鱒沢館くらいか?切岸も高く見事といっとところ・・・。

 ただ南側は藪が多くてその遺構の確認は難しい、写真もなかなか上手く撮れなかった。

 西側は杉林となっておりこちらも規則正しい階段状の平場が数段展開されておりましたが、中腹に社が祀られておりました。

 探訪を終えて桂林寺駐車場設置の説明板には稲荷社とあった。

 

山頂本丸跡

 

中腹の稲荷社

 

 約1時間強の探訪でしたが、細かくは見ておりません。

 それでも、稗貫一族大迫氏の往時の姿を想像するには、なかなかの城跡でもありました。

 大迫城跡に関しては、別家ブログ「遠野中世城館録」で少し詳しく掲載予定です。

 

 

○大迫城主・大迫氏

 大迫氏は稗貫氏の一族で亀ヶ森以外の大迫全域を分知され、稗貫領の北東部分を治めた比較的大きな勢力だったといわれる。

 歴代に関しては調べておりませんので、なんともいえませんが、遠野との関係を伝承により紐解けば、綾織谷地館の宇夫方氏が宝徳年間に葛西勢を率いた金成右京大夫政実に攻められた際は、隣接の達曽部氏と共に大迫掃部が宇夫方氏援軍として参戦し、葛西勢を敗退させたと伝えられる。

 いずれ他領である稗貫郡からの援兵、宇夫方氏というより達曽部氏と何かしら盟約なり誼を通じる何かがあったものと推察されますが、詳細等は不明です。

 

 天正19年(1591)大迫城主、大迫右近の時、主家である稗貫氏が奥州仕置きで改易となると、大迫氏も没落するも九戸一揆(九戸政実の乱)に加担して抵抗、間もなく大迫右近は子の又三郎、又右衛門を連れて江刺郡人首に逃れ、彼の地で大迫右近は死去する。

 時は過ぎ、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの余波は奥州にも戦乱を招き、旧和賀氏、稗貫氏の遺臣達が蜂起する。

 蜂起軍は伊達政宗の物理的支援を受け、南部領となった旧領地に攻め込んだ。

 この時、大迫兄弟は伊達政宗からの後援を得て一族旧臣約3百の兵を以て大迫城を攻撃し、これを落城させ宿願が果たされたかのようにみえたが、南部利直の反撃で大迫城は再び南部勢の手に落ち、和賀氏旧臣達が籠る和賀岩崎城(北上市)の戦いで大迫又三郎は討死、弟又右衛門は捕えられて盛岡で処刑されたと伝えられる。

 なお、大迫兄弟の叔父で大迫右近の弟、十郎兵衛の系統は南部氏に仕えとされる。

 

寶鏡山桂林寺(曹洞宗)

大迫右近によって永禄年間(1578-80)開基と伝えられる。

 

 

大迫氏の菩提寺であり右近の墓地と位牌があるという。

 

 

おまけ・・・

久しぶりに温泉・・・汗

 

 

 用向きの前に山野徘徊での汚れをサッパリと洗い流し、着替えもして・・・。

 

 

 野暮用の後はちょっと遅い昼食

 

久しぶりに・・・・

 

 

今月26日から、またもや例の冷麺祭りとか・・・汗

 

今回もいくぞぉ~・・・・おっぉ~・・・

コメント (10)
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初冬の山々

2009-11-19 14:31:34 | 遠野

 遂に遠野でも18日、積雪となりましたが、日中のうちにほとんど里の雪は融けたようでもあります。

 しかし、遠野の山々は雪化粧となり、いよいよ来年4月までの長い北国の冬に突入といったところでもあります。

 青空も見え隠れするお昼頃、野暮用ついでにちょこっと遠野の山々等を撮影いたしましたので、ご覧ください。

 

遠野三山から

 

早池峰山

 

 

六角牛山

 

 

 

 

石上山

 

 

遠野三山は青笹町より撮影

 

 

青笹駅近辺を車で走っていると・・・・

雪の塊か?・・・・汗

 

停車してみていると少し動いている・・・これは・・・鳥だ!

 

シロサギ

 

 

けっこう大きいシロサギでした・・・。

 

 

松崎方面に移動して・・・・

 

 

貞任高原方面

 

 

先月から今月初めまでお世話になった高清水・・・

 

 雲海撮影は、ほぼ終了ですかね・・・。

 

展望台

2009.11.19の様子

 

 

 一応、積雪もあっていよいよ冬といったところですが、それでも今月末辺りから12月初め頃の間の1週間程、例年、小春日和な日もあります。

 本格的でまとまった雪はクリスマス近く、正月過ぎても積雪がないという年もありましたからね・・・とはいっても初冬、路面凍結含み油断は禁物ですね。

 

 

おまけ・・・

 

 レンズ沼の極み・・・汗

 

 

 

ズイコーデジタルレンズ8本・・・汗

 

ほとんど使わないお蔵入りレンズも存在しますが・・・

広角系と単焦点が皆無・・・汗

それと望遠をさらに遠くへ・・・テレコンもほしいところ・・・汗

 

 全てオリンパスのフォーサーズシステムですが、ここまで揃えたからには、キャノン等へのシステム変更は難しい・・・E-3の後継機が出なければ、キヤノンへ乗り換えるつもりである・・・大汗・・・新たなレンズ沼が押し寄せようとも・・・・笑

 

 

まだまだ先の遠い将来への希望です・・・笑

コメント (16)
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鱒沢館探訪

2009-11-17 18:48:35 | 歴史・民俗

 遠野では3度六角牛山が雪化粧すれば、里も本格的な降雪シーズンとなり冬の季節となるといわれている。

 本日、自分では2度目の雪化粧と思うが、他人によっては3度目だという方もおりますが、どちらにしても暦では11月も半ばを過ぎ、いつ積雪があってもおかしくない季節でもあります。

 

17日の六角牛

 

 

 早池峰山は厚い雲で確認できなかったが石上山も雪化粧、貞任高原の奥の方も白くなっているのが視認できました。

 六角牛山をみると標高7~800メートル辺りから白くなっているようにみえますが、高清水、物見山は白くなっていなかったようです。

 

 

 さて、職場の後輩と予てから同行を約していた館跡探訪を午前中行いました。

 本来は上郷町の板沢館跡の予定でしたが、折角だから遠野でも大型城館で遺構も大きめで見応えのある館跡ということで上鱒沢の鱒沢館跡に急きょ変更して探訪いたしました。

 

西側の空堀跡

 

 ちょっとサブ機で史跡めぐり専門のE-500の調子がイマイチ、暗かったせいもありますが、なかなかピントが定まらず、こんな調子の画像連発・・・汗

 

主郭(本丸跡)に祀られる館神様

 

 今回で4度目の探訪、今までの画像データを小さくしてしまい、元画像がないということで画像取材も含めての今回の探訪、ここでもE500君はピンぽけ連発・・・汗

 この後、脇差的なコンデジに切り替えて画像取材、コンデジの方が広角も狙えてピンボケもなし・・・汗・・・一眼デジE500は軽い方なので館跡探訪にはうってつけながらも、この分野専用のコンデジのちょっと大きいカメラも必要か?・・・なんてまた金のかかる考えが頭をもたげる・・・マイクロフォーサーズが欲しいなんて一言も言ってませんよ・・・大汗

 ということで館神様の社に覆いが作られておりました。

 2年前はなかったような?・・・。

 

 東側の空堀跡

 

 館跡は猿ヶ石川流域では随一といわれ館域面積1万平方メートル、遠野を代表する山城で大規模な土木工事が施され、館主一族の鱒沢氏の隆盛が偲ばれます。

 館や鱒沢氏の歴史、事績等は分家ブログ「遠野郷中世城館録」(ブックマークにリンク)にて後日、掲載予定ですが、久し振りにその威容をみて、心躍る思いでもありました。

 遠野阿曽沼氏分家鱒沢殿と呼ばれ、上下鱒沢、小友半分の1千石を領有、後に本家である横田城の阿曽沼氏を凌駕する勢いがあって、度々本家と争い事なとがあり、合戦に及ぶ場面もあったと伝承されております。

 その名は遠野領域外にも知られ、葛西氏、大崎氏等の内紛等にも出兵を主家阿曽沼氏と共に催促される内容もあったとされております。

 慶長5年(1600)の遠野騒動では主家の阿曽沼広長を気仙郡へ走らせる謀反の立役者で南部利直より遠野盟主と大封を得た鱒沢広勝(左馬助)が有名でもありますが、間もなく広勝は気仙平田の戦いで戦死、後を受けた鱒沢広恒、後の浅沼忠次郎(忠右衛門)は南部家の策謀で御家断絶の憂き目となった歴史でもあります。

 忠次郎の愛妾おなべの方や忠次郎の嫡子、千代松の悲話等も残され、非業の一族でもあります。

 

 

 

八坂神社

 

 館跡の南端部分、一部空堀が見られる箇所に八坂神社が祀られている。

 社の由来等は調べてないので不明・・・。

 

牛頭天王

 

 

竜興山長泉寺(臨済宗)

 

 天正2年(1574)、時の鱒沢館主の鱒沢広勝によって開基と伝えられる。

 当初は高館(下鱒沢)に長泉寺は建てられたそうですが、現在の場所に寺院が移されたのは江戸中期頃とされている。

 鱒沢館跡は長泉寺の裏山であり、鱒沢氏縁の場所に寺院が移され鱒沢歴代も心安らぐ思いではないでしょうか?

 

 

 

おまけ

 

 館跡探訪、同行した後輩の反応はイマイチといった雰囲気でしたが、それでも大がかりな土木工事の跡をみて、数百年も前の昔、人力だけでこれだけのものを作り上げたこと、さらに単なる山にこのような遺構が残されていること自体、驚いておりました。

 今回の同行のお礼としてお昼を御馳走という条件でしたので、鱒沢駅に移動して、某ラーメン店にて昼食といたしました。

 

濃厚しょうゆラーメン(じょう吉ラーメン)

 

 なかなか美味いラーメンでした・・・ホント・・・癖になりそう・・・笑

 濃厚ということ、こってり系ということですが、検診も終わったので少しこういったものも良いのではないのか・・・汗

 

 ところで、いつも目にしながら来店することはなかったのですが、嫁さんにもし行ったら長渕 剛のポスター貼ってあるか見て来い・・・と指令されておりました。

 なんでも店主は長渕ファンとか?・・・嫁さんは長渕ファンなので長渕に関係あるものは気になるようです・・・笑

 今回、食べるのに夢中で確かめて来なかった・・・笑

コメント (2)
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ダメだこりゃ~2・・・汗

2009-11-16 19:07:46 | その他

 前回は禁煙関係でダメだこりゃ、となりましたが、今回は・・・・。

 

 年一度の循環器検診を受けました。

 詳しい検査結果は来月に通知されると思いますが、まずは体重はほぼ昨年並みながらメタボ検診で境界値をやや超しており、これは間違いなく生活習慣等の指導が入る内容と心得ております。

 また血圧も高めでちょっと心外な数値・・・・汗

 

 体重は初夏の頃に5キロも増えてしまい、なんとか秋口までに3キロを挽回するも、その後がなかなか減らない・・・。

 先月から写真撮影を兼ねて福泉寺の散策やら夜に飛びとびながら歩いたり、またカロリーが比較的高い職場での夕食を抑えて野菜や豆腐中心のメニューで約一ヶ月程・・・(それでもラーメン食べたり飲み会あったり・・・汗)

 これで2キロを減らして検診に臨んだのですが、お腹まわりは思うように減ってなかったようです・・・汗

 煙草同様、こちらもダメだこりゃ~・・・といったところ、検診結果もおそらく二次検査や医療機関での診察は間違いなさそうである・・・

 

 そしてこちらも・・・・

 

下手くそな字ですみません・・・汗

 普段、文字を書くといったことが減ってしまい、全く上達はしてないのですが・・・・まっ、字の方は良いとして、いよいよ例のフォトコンへ発送である。

 ところが、今一度プリントされた写真をじっくりみると、どうもパッとしない、おまけに少し自信があった写真をよく見ると端の方に他人の頭とカメラが写りこんでいる・・・汗・・・他の写真も平面的で何も訴えかけるような内容が感じられない・・・汗

 これではダメであろうと今から戦意消失である・・・。

 まっ、ダメもとで応募するのだから、結果は良いとして、それにしてもあの時、別なアングルからとか、時間をずらしてとか・・・色々と考えられることが脳裏に浮かんで応募をためらう思いもしますが、一応、出してみようということで、近日中に発送予定です。

 こちらもダメだこりゃ・・・です・・・・笑

 

 

 

 もうひとつ・・・

 

 先日、可愛い系の猛禽類を撮りましたが、前回とほぼ同じ場所にまたもや前回と同じと思われる猛禽類が・・・・。

 胸羽毛は白くみえ、啼き声はギ―ギ―みたいな声・・・・。

 カメラを持っていなかったので、直に自宅へ行き、望遠レンズに付け替えて、少し遠くから撮影するも、構えると飛び立つ姿勢・・・・慌てて数枚撮ったが、ほとんどピンボケ・・・涙

 いつもの猛禽類の追っかけも今後の課題となりそうです・・・笑

 

 

 

今日も良いところで感ずかれて逃げられた・・・汗

コメント (4)
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