一面の濃霧、天気予報では晴天で本日も春を思わせる気候とか、そんな中、今年初の城館跡探訪を実施、上郷の方々には失礼な言い方ですが、熊出没地帯という印象の上郷、それも細越地域、春先やら晩秋の頃の探訪となりますとかなりの確率で出くわす確率が高いと判断して、まずは森の下へ・・・・・。
森の下からの六角牛山
森の下館と思われる山野から・・・
観音堂
平野原館跡
平野原館
菊池将監吉武(平野原備後)故あって遠野に至り、阿曾沼広郷に仕えるも、慶長5年(1600)遠野の政変で主家阿曾沼氏没落、浪人となる。
後に南部利直に召しだされ菊池吉成(平原助左衛門)旧領平野原村に35石。
遠野南部氏が八戸より入部の際に遠野を離れ南部藩士として存続・・・・。
比高10mの平山城で空掘跡や稲荷社、姫森といったものが残されていると資料には記述されますが、現地にてご年配のご婦人に声をかけて聞いてみますと、いつの頃か不明ながら、大水が出て、館跡は鉄砲水で流されてしまったとか、さらに家人がトラクター等で整地して畑としてしまったらしい・・・・とのこと。
背後の山野が気になるところでしたが、森下館、平野原館共に空振りといいますか、彷徨っただけで終りましたが、いずれまた再調査が必要と考えております。
さて、彷徨ついで、しかも不完全燃焼ということで、笛吹童子さんや山猫さんとこのエントリーで気になっていた象坪山(土淵)へ・・・・。
土淵町大楢方面
愛宕社のある場所から山登り開始、まあ正規な道順かと思いましたが、まずはこの山が館跡だったのか、柏崎館であったのかの検証が第一でもあり、頂上に着いたらそのまま北西側をくまなく探訪といいますか山野徘徊となりました。
頂上
勝軍地蔵といいますか、愛宕さんがあった証でもあると思います。
頂上、その周囲、結論からいえば館跡らしい形状は皆無でした。
また、もしかつて館があったとしたならば、北西側、すなわち小烏瀬川方向に何かしら遺構が展開されている可能性があると判断、それは海岸方面からの街道といいますか交通や軍事的な要衝という位置づけが考えられ、正面をこの方面とするのではと考えてのことですが、早速北西側を探訪、しかしこれといった形跡は皆無、さらに水の便などを考慮すれば、居舘とするのは無理があるのではないかと判断いたしました。
北西側の下部には土塁らしき形状も確認できましたが、これはその中央が整地された形跡があって近年であろうという雰囲気も感じられ、この山に館があったとしたならば水光園側の南東側ではないのか、また愛宕社で地元のご年配の男性と話をしたが、柏崎館は水光園から山口へ抜ける途中の高い山だと聞いたことがあるが忘れてしまったとのこと、さらに柏崎在住の同級生が柏崎館は自分の家の近くの共同墓地のところだということ、このことから柏崎館はもう少し南東方向にあった可能性が高いという結果となりました。
今年初の館跡探訪は、山野を彷徨った割には目当てのものに出会うことがなかった館めぐりでした。
ちなみに郷土史家の先人、故菊池春雄先生、故荻野馨先生のお二人は年に何度もこの象坪山に来られて色々と調べていたそうです。
館跡じゃなくても何かしらあったものなのか?
森の下からの六角牛山
森の下館と思われる山野から・・・
観音堂
平野原館跡
平野原館
菊池将監吉武(平野原備後)故あって遠野に至り、阿曾沼広郷に仕えるも、慶長5年(1600)遠野の政変で主家阿曾沼氏没落、浪人となる。
後に南部利直に召しだされ菊池吉成(平原助左衛門)旧領平野原村に35石。
遠野南部氏が八戸より入部の際に遠野を離れ南部藩士として存続・・・・。
比高10mの平山城で空掘跡や稲荷社、姫森といったものが残されていると資料には記述されますが、現地にてご年配のご婦人に声をかけて聞いてみますと、いつの頃か不明ながら、大水が出て、館跡は鉄砲水で流されてしまったとか、さらに家人がトラクター等で整地して畑としてしまったらしい・・・・とのこと。
背後の山野が気になるところでしたが、森下館、平野原館共に空振りといいますか、彷徨っただけで終りましたが、いずれまた再調査が必要と考えております。
さて、彷徨ついで、しかも不完全燃焼ということで、笛吹童子さんや山猫さんとこのエントリーで気になっていた象坪山(土淵)へ・・・・。
土淵町大楢方面
愛宕社のある場所から山登り開始、まあ正規な道順かと思いましたが、まずはこの山が館跡だったのか、柏崎館であったのかの検証が第一でもあり、頂上に着いたらそのまま北西側をくまなく探訪といいますか山野徘徊となりました。
頂上
勝軍地蔵といいますか、愛宕さんがあった証でもあると思います。
頂上、その周囲、結論からいえば館跡らしい形状は皆無でした。
また、もしかつて館があったとしたならば、北西側、すなわち小烏瀬川方向に何かしら遺構が展開されている可能性があると判断、それは海岸方面からの街道といいますか交通や軍事的な要衝という位置づけが考えられ、正面をこの方面とするのではと考えてのことですが、早速北西側を探訪、しかしこれといった形跡は皆無、さらに水の便などを考慮すれば、居舘とするのは無理があるのではないかと判断いたしました。
北西側の下部には土塁らしき形状も確認できましたが、これはその中央が整地された形跡があって近年であろうという雰囲気も感じられ、この山に館があったとしたならば水光園側の南東側ではないのか、また愛宕社で地元のご年配の男性と話をしたが、柏崎館は水光園から山口へ抜ける途中の高い山だと聞いたことがあるが忘れてしまったとのこと、さらに柏崎在住の同級生が柏崎館は自分の家の近くの共同墓地のところだということ、このことから柏崎館はもう少し南東方向にあった可能性が高いという結果となりました。
今年初の館跡探訪は、山野を彷徨った割には目当てのものに出会うことがなかった館めぐりでした。
ちなみに郷土史家の先人、故菊池春雄先生、故荻野馨先生のお二人は年に何度もこの象坪山に来られて色々と調べていたそうです。
館跡じゃなくても何かしらあったものなのか?