「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

遠野旧事記から

2009-12-24 12:53:48 | 歴史関連コラム?

 「遠野旧事記」・・・

 江戸時代の遠野の事を遠野南部家臣である宇夫方広隆によって著された本ということになります。

 書かれた年代は宝暦12年(1762)とも13年ともいわれますが、八戸から遠野南部氏が遠野へ移って来たのが寛永4年(1627)、それから約130年余後のこととなります。

 うれしい事に、素人ではなかなか読み下すことも難しく、さらにそうは簡単に目に触れるような書物ではなかった遠野旧事記を遠野在の小原六郎先生が「やさしい遠野旧事記」を口語訳として2005年に発刊されまして、江戸時代当時の遠野の様子が手に取るような感覚で我々も知ることができております。

 

 その中で寛永4年、八戸から八戸氏(遠野南部家)が遠野へ入部した際に遠野に居た阿曽沼氏旧臣含みの武家達の屋敷を八戸氏家臣等がとりあえず宛がわれた内容が記されておりますが、疑問点や所伝で語られる武家の名とかがわからないといった場面も感じられ、その事について若干記したいと思います。

 

 

遠野旧事記には・・・・

 場所(屋敷)・石高・家士名・備考・・・の順で記されてますが、当方で順序や内容を若干簡略させております。

 原文では例えば「南館 800石 大原新右衛門・・・」とありますが、これは元南館に居た大原新右衛門、800石取りの屋敷であった・・・と解されます。

 続いて、中館与四郎屋敷300石、細越与三郎とありますが、こちらも中館与四郎の屋敷は元300石取りの細越与三郎の屋敷・・・という意味ですので、あえて上記の表を並べ変えしております。

 なお、石高等は太守である盛岡南部氏の南部利直から賜った内容だと理解している。

 

 さて、まずは南館に居た浜田彦兵衛500石とは何者であったのか?

 遠野南部家臣の浜田氏は確認できない、それでは盛岡南部家に仕えて寛永4年以降に南部藩士となって遠野を去った武家なのか?こちらも不明である。

 浜田とくれば気仙郡地方に居た千葉氏系の一族か・・・と一番に思い浮かびますが、遠野地方では松崎町光興寺地区に浜田姓のお宅が多くみられる。

 気仙郡との関わりがあったかどうかは調べてませんのでなんともいえませんが、ひとつ妄想含みで気になる点が・・・・。

 阿曽沼旧臣で後に遠野南部氏、附馬牛八戸氏に仕えた末崎氏との関連性が高いのでは・・・・・。

 末崎氏は阿曽沼広長時代、阿曽沼氏の重臣であったと伝えられ、八戸直義(直栄)によって新規に召しかかえられた阿曽沼旧臣であったと伝えられている。

 気仙郡内、現大船渡市に末崎町という地名がありますが、この辺りに居た一族で故あって遠野に来住、以前は千葉氏系で浜田氏を名乗っていたのではないのか?・・・これは妄想ですよ・・・汗・・・根拠とする資料もありませんので・・・・。

 それと「奥南落穂集」にみえる阿曽沼旧臣名にない武家の存在、こちらも気になるところ・・・・沼荒次郎とは、金新助とは?中沢外記はどうなったのか?宮沢十三郎とは菊池成景(青笹臼館)の末裔なのか?他にも五日市又五郎は五日市に居たといわれる立花 縫の系譜なのか?

 いずれ盛岡南部家に仕え遠野を離れた武家も多数存在し、遠野南部家に仕えた武家も確認できますが、まだまだわからない武家もあって、以前から疑問に感じてましたのであえて記述してみました。

 

 まずは南部藩参考諸家系図で調べてみなくては・・・数年前、5巻揃いで確か3万5千円でネット古書で売っていたような?その後、倍の7万円で古書があったことも確認してましたが、どうしても手が出せず・・・今は単品でバラバラに売られており、すべてそろえるには時間と費用がものすごくかかるといった雰囲気、あの時、少し無理していれば・・・と少し後悔している。

 とにかく市立図書館に全巻揃ってあるので普段は支障がないのですが、長期休館でかなり難儀しているところです。

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遠野孫次郎は広郷か?其の弐

2009-08-11 19:08:16 | 歴史関連コラム?
 前回は天正年間に織田信長に白鷹を進上(信長公記・巻12)したと記録される遠野孫次郎とは?遠野領主であった阿曽沼広郷なのか?それとも伊達政宗なのか?という疑問点を若干記してみましたが、今回は遠野と南境を接していた葛西氏との関係から私見として紐解いてみたいと思います。


○葛西晴信文書登場の遠野孫次郎

 葛西晴信文書という膨大な資料が存在するが、しかし葛西文書といわれるその9割は偽文書との見解が示され、その信憑性も極めて疑わしいといわれている。
 
 葛西氏は現在の宮城県北部から岩手県南部地方を領した武家で、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿の5郡、さらに本吉、桃生、登米の各郡を勢力下した奥州の大身でしたが、葛西晴信は葛西第17代、最後の当主といわれている。
 天正18年豊臣秀吉による小田原攻めに参陣しなかった為に奥州仕置きにより所領没収の憂き目となり没落という歴史ではありますが、押し寄せる豊臣軍を迎撃し、華々しくその最後を飾ったとの如く伝えられるも史実では奥州を去り加賀前田家に庇護され彼の地で没したのが真相のようでもある。

 かつては中奥に君臨し、大身であった葛西晴信の没落があまりにもあっけなかったものなのか、その栄華を何かで誇示するかのように、勢力下の各郡主等の武家に宛てた文書が偽装され、その歴史を伝える価値ある古文書として売買の対象に成りうるということで、数多くの偽文書が世に出たものと考察されている。
 このことにより、文書の9割方が偽文書といわれる所以でもある。

 
 しかし、そんな中で、葛西晴信香炉印文書の存在があるという。
 葛西晴信から発せられた永禄2年(1556)から天正19年(1591)までの122通を数えるという。
 その中で南部寛政記録に収められ、遠野市史・住田町史にも引用記載されている遠野孫次郎への文書がある。




 天正15年(1587)10月26日付、葛西晴信から遠野孫次郎に宛てた手紙である。
 住田町史訳によると・・・
 「先日、どうされているのかと思い遣いの者をやりましたが、お返事もなく心許なく思っておりました。従って来る11月2日に信安を世田米まで下向させるので、大儀なことであるが、世田米まで来ていただきたい。鱒沢の件には油断なきようしてください。」


 世田米とは気仙郡の世田米、現在の住田町世田米のことだと認識できる。
 また、世田米に来てほしいということで、ここはやはり隣接する遠野へ手紙を送ったと見るべきだと思いますし、ほぼ間違いないように思える。
 すなわち、遠野孫次郎はその当時の遠野領主である阿曽沼広郷を指しているものと思われますし、鱒沢という名が登場、鱒沢は阿曽沼支族の鱒沢氏で、この時代、阿曽沼主家と分家である鱒沢氏の力関係が拮抗して互いに争いがあったと伝えられますので、この文書の内容はその時代に関して一部とはいえ、よく現しているのではとも思います。

 この手紙が葛西文書における偽文書でなければ、遠野孫次郎の名が登場する唯一の信頼できる史料となり得ますが、どうなんでしょうね・・・・。

 今少し、さらなる詰めも必要でもあり、他の資料での遠野孫次郎の発見もしなければと思うところです。

                         以上





 おまけ


 お盆の帰省で長女が帰ってきている。
 夏休みながらも、のんびりだらりと過ごしている末娘と愚娘の長女、とんでもない組み合わせとなり、暇を持て余しているのか、その矛先は飼猫ネネに・・・









 暑いだろう、汗を搔いただろうと・・・と大人しく寝ているネネを丸洗い、シャンプーの良い香りが漂うも、ネネにはその匂いはどう感じるのだろう・・・。
 たまにはシャンプーは必要ですが、いきなり濡れネズミならぬ濡れネコは可哀想ですよね。
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遠野孫次郎は広郷か?

2009-08-07 18:58:54 | 歴史関連コラム?
 遠野孫次郎、遠野史では阿曽沼広郷(伝・中世遠野領主阿曽沼氏第13代)と長らく語られ、先人郷土史家含めほとんど何の疑問もなく同一人物として伝えられてきた。
 無論、小生もその中のひとりで、遠野孫次郎とは阿曽沼広郷であると今も信じてやまない・・・。

 今回も、平成初めに郷土史料の口語訳を依頼され、また博物館講座での講師を務めた某文学博士の先生による論説の中で、どうしても気になる部分があり、またネット等を通じ郷土史関連の意見、情報交換する方とのやりとりの中で、この論説に関することが再浮上という場面で、今一度考えてみようということで、自問自答に近い内容で記してみたいと思います。

 さて、過去エントリーでも何度か取り上げた経緯がある「遠野保事」関連にて、遠野保ではなく遠野係事の読み間違い、さらに遠野は福島県いわき地方の遠野であること、阿曽沼氏(姓)発祥は福島県阿沼郡であること、阿曽沼と浅沼は同意義にあらず・・・これらは江戸時代の遠野南部家臣、宇夫方広隆による「遠野古事記」「遠野旧事記」さらに「阿曽沼興廃記」は伝聞等による記録に過ぎず、また思い込み等による史実の捏造といった具合にかなり手厳しい批判が繰り広げられている。
 また、後の郷土史家達もなんの批判もなくこれら古書を第一の資料と捉えたために疑うこともなくただ時を費やしてきたかのような内容でもある。
 まっ、これはこれとして、本題は遠野孫次郎についてですので、話を先に進めます。


○信長公記での遠野孫次郎



 天正7年(1579)7月25日 奥州の遠野孫次郎が織田信長に白鷹を献上したという内容が「信長公記」巻12に記されている。

 このことに関して、某先生は、この頃の遠野領主は阿曽沼広郷と伝えられており、信長公記或いは「信長記」(小瀬甫庵・江戸期著)をみた遠野古事記の著者が奥州の遠野孫次郎とあったので、天正年間、現岩手県遠野地方を治めていたのは阿曽沼広郷であるので、遠野孫次郎を広郷と妄想したものとしている。

 確かに遠野孫次郎と資料的に出てくる古いものは遠野古事記、旧事記等の江戸中期に編纂された古書が主で他は皆無等しいものかもしれません。

 某先生は遠野孫次郎を伊達政宗と結論付けしている。
 解説によると、「陸奥国遠い野の孫次郎」という意味らしいですが、政宗の字は孫次郎ともいわれとか?藤次郎は知っているが。
 織田信長は奥州の遠国の情勢等理解していなかったこともあり、単に伊達政宗に関しても遠国の人間として思っただけ・・・という雰囲気でもある。


 これに対する反論・・・
・伊達政宗は永禄10年(1567年)米沢で生まれている。
 なれば天正7年(1579)は12歳であるが、天正5年(1577)に元服しているので、少年とはいえ、一廉の武将として内外には認められたものかもしれません。
 ただし、まだ伊達家当主ではないにしろ、また東北の片田舎の武家である伊達家だったとしても、信長公記登場の他の武家のように○○(国)の何々(地名、姓名)と記するのではないのか?遠い野の孫次郎とはいささか疑問も感じられる。

・伊達家は当時出羽の米沢が本拠地である。
 巻11.天正6年8月5日 奥州津軽の南部宮内少輔・・・等他の記述にもあるとおり、相手方の在地や名については案外きっちり書かれている。
 何故出羽米沢とは記せず奥州としたのだろう・・・。

 下記をご覧いただこう・・・。



 遠野孫次郎より2年前の天正5年(1577)に伊達家から信長に鷹が進上されている。贈主は伊達政宗の父、輝宗となりそうですが、ここでは奥州伊達とあり、出羽も奥州も信長というよりその記録を残した文筆係やら文官達には奥州も出羽もどっちでも良かったものかもしれない、或いは伊達家はあえて奥州の・・・と書状に書き記したものかもしれません。

 しかし、一度伊達家として進上している事実を考えると、次も伊達家としてもよかったような・・・?

 余談になりますが、何かで遠野孫次郎は伊達政宗のことだとみた記憶が・・・さらに遠い野は今の宮城県のある部分を指した言い方とか?

 
 ということで、まだまだ精度の足りない考察といいますか、疑問点含めまして記してみましたが、何せ、遠野孫次郎は阿曽沼広郷だと信じてきましたので、いきなりをこれを覆すとか、また反対に、遠野孫次郎は広郷で間違いないを証明するには今の小生の手持資料や知識では到底太刀打ちできません。
 また難解でもあります。

 この内容等の説が出されて15年以上か?後の展開が分かりませんので、これ以上の調べはその展開、行方を御存知の方々からのお聞きしてから改めて望みたいと考えております。
 何か御存知の方、ご意見、ご見解がありましたら、コメント下されば助かります。


 なお、遠野孫次郎其の弐も近くエントリー予定です。




 阿曽沼歴代公碑・・・松崎町光興寺

 
 遠野孫次郎は阿曽沼広郷公ですよね、歴代の殿様方・・・汗
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津軽工藤氏と根城南部氏

2009-05-24 14:26:19 | 歴史関連コラム?
 小生の母方の姓、工藤・・・その昔、八戸から根城南部氏すなわち八戸氏、後に遠野南部氏と共に遠野へ来たといわれ、遠野南部家の下級家臣でもあった。
 大叔父や叔父によると本家筋の工藤氏があって、家老加判を代々勤める重臣の家柄とのことで、寛永11年諸士の俸禄によれば、工藤与四郎(勘々由)2百石であると推測される。
 また、後に本家は失火で屋敷を全焼させたということで、一時上士から平士に格下げの処分をされたと伝えられ、所伝でも大身の工藤氏の屋敷全焼の事が語られているので、おそらく間違いないものであろう・・・。

 ただどの時点で分家となったものか、或いは八戸時代から既に分家であったものかは本格的な調べに至らず不明となっているも下の画像、母方祖父が先祖3百年として建てた墓碑があり、やはり遠野へ来てからか?




 ということで、遠野での工藤一族に関しては、今後徐々に調べを進め、然るべき時に本格的に調べたいと思っておりますが、まずは机上での調べということで、年代はかなり遡りますが、北奥羽における工藤氏とその主筋となる八戸根城南部氏(遠野南部氏)との関係等について考察してみたいと思います。

 まずは根城南部氏と最も関係が深いとされる津軽工藤氏関連から・・・




 これは、津軽黒石(青森県黒石市)に所領を持つ工藤右衛門尉貞行が万が一を考え、生前に嫡女であった加伊寿御前に所領や職を譲るとした内容である。
 工藤貞行は津軽黒石の政所職であり、津軽田舎郡、山辺郡の他に常陸や鎌倉にも知行地を持ち、さらに伊具郡(宮城県)内の村等の代官職を持つ武家であった。




 工藤貞行は、鎌倉幕府、北条氏の御内人であったが鎌倉北条氏が後醍醐天皇による倒幕により滅亡、これにより北奥羽各地の北条方残党が建武親政に抵抗すると工藤貞行は、陸奥守北畠顕家に従い合戦奉行として津軽の北条方鎮圧に功があって、津軽山辺郡二想志郷の内は合戦での勲功として拝領、他に田舎郡の内に所領をあるが、女子の加伊寿御前に記述の2ヶ所を譲るとした内容で、男子が出生した際に、改めて配分するとの内容である。


○工藤右衛門尉貞行・・・生年没年不詳
 津軽田舎郡黒石郷を中心に活躍、元亨2年(1322)安藤一族の乱があり、鎌倉からの鎮撫軍が派遣され、正中2年(1325)には鎌倉御家人の工藤左衛門尉祐貞が派遣、現地の工藤貞行も鎌倉方として活躍したといわれる。
 後に鎌倉幕府が滅亡、北奥羽の工藤一族の多くは北条方として抵抗する中、宮方の南部師行(一応遠野南部氏先祖・伝、八戸根城南部氏第4代)と共に北条残党の鎮圧に戦功をあげ、北畠顕家配下として名を刻む。
 その没年は不明とされるが、延元3年(1338)足利尊氏討伐の北畠顕家に従い、西上の軍の人となるも北畠顕家、南部師行と共に泉州(大阪府)で足利軍に敗れ戦死ともいわれる。

 子に男子はなく、女子5人と伝えられ、嫡女は加伊寿御前、その妹に福寿御前の名がみられる。

 貞行は伊豆の工藤祐経(曽我兄弟の仇討事件)の子孫ともいわれ、祐経の子、祐時(犬房丸)が陸奥に下向との伝説もあり(八戸)、その末裔と考察される書籍も存在するも真意は不明、鎌倉時代、青森県八戸やその周辺地域にも工藤一族の足跡が確認でき、鎌倉幕府滅亡後の北条方後人の中にも多数の工藤氏が含まれている。

 そんな中、何故に津軽の工藤貞行は所領を安堵され、建武親政下で宮方として活躍したのだろう・・・北奥羽検断職として下向した南部師行、政長兄弟との縁、これによる何かあったものだろうか?




 目谷郷、野尻郷は工藤右衛門尉祐貞法師の所領であったが、鎌倉幕府滅亡によりこれを祐貞から没収、北条方残党鎮撫の勲功として工藤中務右衛門尉貞行に与えるという内容である。







 尼しれんより娘加伊寿御前への譲状
 工藤貞行の妻、後家である「しれん」から南部殿(南部信政・政長の子)に嫁いだ娘、加伊寿御前に黒石の所領を永代に譲り渡すという内容である。
 工藤貞行は、いずれの所領も後家が一生の間、領有し一期の後は女子供と計って譲り、特に黒石は所領の中心地なので、これらを持ち続ける才覚ある者に譲るべしとしていた。
 南部信政(根城南部家第6代)の妻となっていた娘加伊寿御前の器量を認めて永代に譲り子々孫々まで与えるとしている。
 ただし、石名坂(黒石の一部)は志があって加伊寿の妹、福寿御前に譲るとしている。
 加伊寿御前には女ながらも惣領として他の妹も見守っていくように、またこの書状は「しれん」の自筆で、他の者が譲状があると言っても用いてはならないとしている。

 譲状の興国4年は武家方の曽我一族が攻勢に転じ宮方(南朝)の南部氏が守る糠部郡内に攻め入り、曽我勢が敗退した翌年といわれ、南朝方であった黒石工藤氏は後家である尼しれんが家をよくまとめ所領を守った女丈夫とも伝えられております。
 
※一期(一期分・いちごぶん)
 婦女子に譲る土地等をその婦女子の一生の間だけという期限付きで、後は惣領に帰属するとしたもの。





 興国4年に貞行の後家しれんが、娘加伊寿御前に黒石の所領の一期後は譲り渡すと譲状を与えたが、加伊寿御前と夫南部殿の間に生まれた孫、力寿丸に改めて所領を譲り渡すとした内容である。
 この譲りに関しては他の子供達は違論を唱えてはならないとし、ただし、女子については少しずつ一生涯のうち譲るというもので、このことは譲証文に記してあるので守るようにとしている。
 さらに自筆であり、自筆以外は用いてはならないとある。


※力寿丸は、後の南部信光(八戸根城南部代7代)





※ 一五とありますが十五の間違い


 祖父工藤貞行の遺領を祖母である「しれん」から一期の後に所領が南部信光に譲られたが、南朝方鎮守府将軍である北畠顕信(顕家の弟)から所領として安堵された内容である。







 北奥羽南朝方として、北奥羽の地を北朝方から守り通していた南部惣領、南部政長(八戸根城南部家第5代)が孫である南部信光には八戸を、その弟の政光には七戸を譲るとする内容で七戸に関しては半分を加伊寿御前に一期として与えるとしている。
 八戸、七戸いずれも政長が勲功によって拝領した土地であるとしている。



○加伊寿御前
 幼名を数子といい長じて加伊寿といわれ、黒石工藤氏、工藤右衛門尉貞行の嫡女。
 陸奥国糠部郡に居た南部政長の子、信政に嫁ぎ南部信光、政光を生んだ母である。
 一説には夫とされるのは信政ではなくその父親である政長であるという考察もあるが、いずれ南部殿と称される南部惣領家に嫁いだのは史実とみられる。



 まとめ

 根城南部氏に関わる伝承に南部の押し掛け婿というものがあるそうだ。
 南部弥六郎義長という若者が八戸の工藤氏の館を占拠して工藤氏の未亡人を脅して無理やり娘の婿となったものとか、実は以前からこの内容を書籍等で引用したりして紹介していた経緯がありますが、ホントのところ、直接何かを詳しい方々から聴いたわけではない。
 また天正年間に甲州から逃れた南部一族があり、やはり八戸工藤氏の館を占拠し、そのまま三戸南部、南部晴政の承認を得て八戸氏となったというもの・・・等がありますが、ここは遠野南部家文書にあるとおりとすれば、津軽工藤氏、工藤貞行からの系譜につながる関係とみてもよさそうである。

 御家しれんから南部信光へ、母加伊寿御前から信光へ、加伊寿御前の妹達の一期分も後に惣領へ・・・すなわち南部信光、政光兄弟へ津軽工藤氏の所領はそのまま引き継がれたとみるべきで、津軽工藤氏は根城南部氏の中に取り込まれていったものと解釈でき、これがもとで八戸南部氏が大きな基盤を得ることができ、さらに津軽工藤氏に連なる一族の協力によって勢力拡大が出来たものと思われる。

 津軽、糠部郡(岩手県北から青森東南部)さらには秋田仙北郡の一部は八戸根城南部氏の所領があったところであり、その中でも津軽に関しては工藤氏との縁によるものが大であるのは史料によっても明らかであるも、後の室町中期以降、どのような過程を経て三戸南部氏(後の盛岡南部氏)へ勢力移行がなされたのか未だに疑問が残るのも事実でもあります。

 いずれ、まずは工藤氏と八戸氏という内容で徐々に調べを進め、八戸や津軽地方での郷土資料閲覧等で再確認をし、さらには盛岡南部の工藤氏、やがて北奥羽全体の工藤氏の足跡を少しでも解ければと思うところです。
 肝心な遠野での工藤氏は小生の勇気と実行力があれば、ある程度は解明できるのですが・・・・このことはその時期がきましたらいずれまたということで・・・・。

                  参考引用図書 八戸根城南部家文書




 午後2時過ぎから休憩をいれながら、午後6時・・・アップ作業が随分とかかってしまいました・・・・


関連ブログ・・・こちら 

Force Dragon の 【 男 の 流 儀 】様
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大槌孫八郎・大槌氏 参

2009-03-08 18:31:48 | 歴史関連コラム?
 大槌孫八郎、伝えられる大槌城主、孫八郎は資料や伝承によれば3人確認できるが、孫八郎に関しては天正19年の九戸の陣、そして慶長5年の岩崎の陣に大槌孫八郎が南部方として参陣していた内容が確認できる。

○孫八郎家政
 大槌系図に出てくる孫八郎家政、どのような事績があったのかは不明であり、次の孫八郎広信までの歴代が不明でもある。
 系図には家政の三男とされる治郎介時成が気仙郡菊田庄の菊池氏の養子となり天正18年に流浪して遠野に至り、遠野孫次郎(阿曽沼広郷)に仕えて在名から畑中氏を名乗ったと伝えられるのみである。

 畑中氏の遠野登場は天正末期、系図に記される天正18年は、大方の年代等が符号していると思われ、畑中時成の実父とされる孫八郎家政は、さほど年代の古い人物でないことが伺われ、次の孫八郎広信との歴代があったとしても一代程度か?若しくは孫八郎広信は家政の子の世代とも推測できる。



 さて、小生が思い描く、ほとんど根拠も説明できないながらも、妄想含みの系図を描いてみましたので、ご参照願います。





○大槌孫八郎広信(広紹)

 
 孫八郎広信
 資料等に登場する孫八郎のひとりであり、天正19年(1591)の九戸一揆に南部信直方として参陣、大槌孫八郎8百石60人と記されている。
 
 遠野での資料には、遠野盟主である阿曽沼広郷が九戸の乱に参陣叶わず、嫡子の広長を名代として大槌孫八郎と共に参陣したかのような記述があり、大槌孫八郎は遠野の一族或いはある程度の勢力を持つ家臣的立場であったかのような印象でもある。
 
 孫八郎家政→広信→政貞・・・・家政と政貞は政の字を持つ当主であるが、何故に広信、そして広信の弟広重(子とも伝えられる)は広の字なのか?

 確信は無きに等しいながらも、広信は大槌の家督を継承する頃に何かしら遠野阿曽沼氏の強い影響を受けた或いは遠野から送り込まれた阿曽沼支族だったのではないのか?そしてこのことは、大槌が遠野郷の一部であり、遠野阿曽沼領であるがの如く語られる何かが隠されているのではないのかと思えてならない。

 天正年中に名を残す阿曽沼広郷、広郷はその武威が四隣に鳴り響きは、遠野での専制君主時代到来の最初であったとも考察され、この時代に大槌氏もその支配下に一応置かれたのではないのか・・・・?
 この時の産物が広信であり、本来の大槌嫡家に代って当主の座に付き孫八郎を名乗ったのではないのか・・・・推察しております。


 慶長5年での遠野の政変で遠野盟主の座を追われ、気仙郡世田米に亡命した阿曽沼広長が伊達政宗の後援を受けて気仙勢を以て遠野奪還の戦いを挑むに当たって孫八郎広信は阿曽沼広長支援の立場であったと伝えられ、その最後は、南部勢、遠野勢、閉伊勢に大槌城は四面楚歌の状態に陥りかけ、広信は伊達家領の気仙郡内へ亡命して落命とも語られますが、その真相は不明ながらも、大槌城主の座を明け渡しての行動があったものと想像がされます。



○大槌孫八郎政貞

 孫八郎政貞
 一説には広信の嫡子ともいわれるようですが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでの余波で東北地方も戦乱となり、当南部地方でも和賀、稗貫氏の旧臣等による一揆が勃発、稗貫、和賀郡内各地で戦いが繰り広げられるが、この時の岩崎の陣に南部利直勢に加わった武将に大槌孫八郎の名がみえる。
 孫八郎広信が反南部家、親伊達家という立場が語られる中にあって、何故に南部勢に大槌氏の名が記されているのか・・・・。


 信濃守利直公御岩崎御出陣人数定・・・慶長6年・・・聞老遺事

 七番 遊軍一手 八戸弾正備 士大将一騎 一万五千石 
 八戸弾正 此下三百廿人

 相備士大将一騎 二千石 大湯五兵衛 此下四十六人 内馬上三騎
    同    八百石 大槌孫八郎 此下百六十一人 内馬上三十騎


 遊軍の八戸弾正とは八戸直政(遠野南部家清心尼の夫で八戸根城城主)

 8百石余りの大槌孫八郎の率いた161人は、驚愕の数値であり、また200石当りの馬上の武士が一騎であるのが通例であるが30騎とはこれもまたかなり多い数値である。
 これは大槌のみならず、閉伊郡内の地侍や土豪も引率しての参陣と解釈されている。

 さらに、岩崎の戦いが終わるとそのまま南部利直により岩崎城に留め置かれ、岩崎城代4名の一人として名を留めている。



 慶長5年から慶長7年、二人の孫八郎が居たことになりますが、ひとりは大槌城主の広信、もう一人は南部方に加勢した孫八郎、すなわちこちらは政貞ということになります。
 広信による関ヶ原の戦いにおける真田昌幸父子のような双方に組することによるお家継続を図ったものなのか、それとも「遠野菊池党・入内島一崇氏 著」でいうように、大槌城に居たままの広信に対し、南部利直は政貞との当主交代で大槌城攻めを行わず、平和的に解決といった内容であったのか、いずれ史実では広信は大槌城を出て、孫八郎政貞が大槌城主となっている。

 
 その後の大槌氏は南部利直より3千石を給され、石高以上に海産物の取引でも潤い、繁栄したとも伝えられますが、南部家の策謀と多く語られますが、元和3年、孫八郎政貞は罪あって切腹、大槌家は絶家となる。
 南部家により謀殺ともいわれる。


 大槌城跡からみた大槌湾



 孫八郎広信と政貞は父子とも解されますが、その関係は不明とする見解もある。
 
 政貞は孫八郎家政系嫡家の子孫という思いもありますが、広信、政貞が反目していた形跡の印象は感じられなく、その関係がよく理解できない内容でもありますが、遠野阿曽沼氏同様、謎の部分が多いといったことで、今後の探究に努めれたらと思っております。

 

 
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中世遠野の位置付け

2009-01-30 12:01:00 | 歴史関連コラム?
 前回のエントリーにて「遠野保」について簡略ながら触れましたが、遠野保についての追記から・・・・。


 大げさな内容ではありませんが、「遠野保事」が実は「遠野係事」との説に関して・・・・。

 平成6年、遠野博物館講座にて私論を語った大川氏、その中で「係」の草体を「保」と誤読したが為の大きな間違いとの指摘であったようですが、遠野南部家文書での内容で陸奥国司北畠顕家から検断職であった南部師行に送達された教書で地名等が記されている幾つかの文書をつらつらと眺めてみますと・・・・おおよその内容からすると、その中に出てくる地名には・・・・「閉伊郡内大澤村・・・」「糠部郡七戸・・・」「糠部郡三戸内・・・」「外濱内摩部郷・・・」等・・・あり、地名を表す際は郡とか郷、村という記述が大半であり、遠野の場合は、郡でも郷でもない。
 遠野係事(遠野のあらそい事)の場合だと、遠野という地名は理解できるが、何処の遠野なのか、南部師行は遠野というだけで、あそこの遠野ということに併せて争い事の顛末も極めて深く知っていることを前提にしての内容だったのか?

 やはりここは、郡でもなく郷でもない、保である遠野、すなわち遠野保として理解しても問題はないように思えます。


 さて前置きが長くなりましたが、遠野保の成立は前エントリーやお寄せいただいたコメント等で判断すると、奥州平泉の藤原時代といった雰囲気ですが、それでは保となる前は・・・・大概は近在の郡の中にあるといったところでしょうが、果たして遠野は何郡だったのか?




 遠野保、或いは遠野郷は西は田瀬(花巻市東和町)から東は釜石市、北は大槌町を越えて山田町の豊間根まで含んでいたと語られますが、ここでは、現遠野市のみを対象としますが・・・・

 北は早池峰山を起点に北東から南東(釜石)に広く隣接する閉伊郡、北西は稗貫郡となっている。
 ほぼ山岳地帯での隣接であり、往来には高度にある峠越が必要不可欠である。

 次に南は気仙郡、南西に江刺郡、そして西部分が和賀郡と隣接している。

 特に和賀郡の場合は現花巻市東和町は旧和賀郡ではあるが、北部地域は稗貫郡にも重なる地域であったとも思われ、猿ヶ石川沿いが和賀郡であったものと思われる。


 隣接する各郡から遠野へ至るとすれば、ほとんどが山岳越えとなる。
 唯一、和賀郡から猿ヶ石川の渓谷を進めばさほどの山越とはならない雰囲気であるも、これは現代人たる私の感覚であって、実際はどういうものであったかは想像はできない。

 いずれ、北上高地の中にあって、周囲を高い山々に囲まれた大きな盆地に至った外部の人間達は、別世界に感じたのかもしれませんね・・・・。


 ということで、まずは障りだけ、実はこれらに関する資料やら書籍の準備がなっておらず、これ以上は単なる私の思いこみやら妄想となりますので、然るべき時に第二弾として考えてみたいと思ってます。




 猫には関係ないニャ~




 新幹線に乗る機会があったもので・・・某ブログにもありましたが・・・笑

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「遠野保」再び

2009-01-28 19:19:04 | 歴史関連コラム?
 ブログ更新、毎日更新は無理ながらも、3日を置くということは極めて少なく、ネタを探せなくても、それでも何かしらエントリーして参りましたが、今回は5日程の間が空いてしまいました。
 これよりまた平常に戻りたいと思いますのでよろしくお願いします。


 ということで、それほど内容的には変わり映えしませんが、かなり冷え切った遠野地方の朝、陽が高くなると青空が広がり、まずは近場の景色から・・・。


薬師岳、早池峰山





 見える範囲の大地に積雪は、ほとんどない・・・。


六角牛山



天ヶ森




 さて本題・・・遠野保について

 以前にも「遠野保」についてエントリーした経緯がありますが、やはり遠野は遠野保であった・・・という結論に近づいた形として結んでいたと記憶しております。


 そもそも遠野保とは・・・となりますが、歴史的公文書という位置付けでは、遠野という地名が登場するものとしての最古の文書は以前も記してますが・・・「遠野南部文書」陸奥国司北畠顕家から南部師行(又二郎)に宛てた、建武2年8月3日の国宣が存在している。




 阿曽沼朝兼からの訴えにより陸奥国司北畠顕家から北奥羽を管轄する建武新政下の奉行、南部又二郎師行にその対処について指令する内容であるが、この中に「遠野保」という文字があることから、少なくても建武新政以前から岩手県遠野市は遠野保であったとする紛れのない史実としている。

 しかし、以前にも笛吹童子氏がご紹介した内容、遠野保ではなく「遠野係」という説が存在し、「係」の草体を「保」と誤解し、それを「遠野保事」(遠野保のこと)と誤読したことによるものとしている。
 本来は「遠野係事」(遠野のあらそい事)ということらしいが、このことを指摘する学者先生が居たようです。


 さて、中世遠野の歴史を語る上で一応に鎌倉時代以降は下野国(栃木県)の阿曽沼氏が遠野の地頭だったとする説が通説であり、ほぼ史実といいますか、少なくても何かしら阿曽沼氏が遠野に関わりがあっただろうと思われます。
 しかし、それ以前の平安期は・・・平泉藤原氏の勢力下の時代は平泉に関わりある封主が居たものと想像はつくが、具体的に誰が・・・となれば全くの不明といった内容でもあると思います。

 遠野は「郡」でもなく「郷」「荘」でもない、「保」とされるのがなんとも興味深い。

 保とは特別な土地であり、本来は公領であるが社寺や朝廷、国衙の用にあてるために朝廷や国衙の承認を得て設定された土地という意味がある。
 平安中期以降に荘園制の変形版といった内容で成立といった考察がなされ、荘園が廃れた鎌倉期に成立した内容ではないのは確かで、遠野が遠野保ならば平泉の藤原時代以前かその中期には成立していたものだろうと推測される。

 しかし、本来は公領としての保、遠野保ならば何かしら封主一族の名やら或いは平泉に関わるものなら、平泉に関連した何かしらの伝承等も残されていても不思議ではないが、こちらも全く不明である。

 遠野は保だった、或いは前段に記しているように国宣の文中での誤読として「係」であったとしても、やはり私の住む遠野は昔から遠野と呼ばれる土地であったものと理解したい。

 建武新政下で北奥羽を管轄する検断職、南部師行は津軽地方から西は比内郡、そして南は閉伊郡まで管轄していたことは史料によっても明らかであり、遠野がその管轄の南限であっても不思議ではなく、国宣での処置に南部師行の名が出てもこちらもなんの不思議でもない。
 南奥州、いわきに遠野という地名があり、こちらの遠野保という説もあったようですが、南部師行との関連性からみれば、陸奥国遠野は現岩手県遠野のことであろう・・・・。

 おっと・・・汗・・・保、遠野保に関してまたもやウヤムヤになりそうですが、さらなる研究の加速に期待したいと思います。



 阿曽沼氏が遠野へ下向、遠野で最初に関わりをもった地域といわれる駒木地域



 その中心地、下駒木下村(堀の内)





※ 当ブログの内容として郷土史関連にて城館跡もエントリーしておりましたが、ウエブサイトリニューアルに併せて城館関連は全てブログに移転の方向です。
 よって、城館専門の新ブログを開設し、そちらで主に城館跡関連を展開して参りたいと思っております。
 一応、新ブログは仮ながらも開設しております。
 
 名称「遠野城館録」としております。
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城館跡探訪報告

2008-12-06 19:50:57 | 歴史関連コラム?
 2003年春から遠野市内の城館跡を主に探訪調査しておりますが、当面の目標は100程度の城館跡の探訪としております。
 遠野市内には160前後の城館跡が残されているようですが、資料や山野の雰囲気からその都度選定ということでもありますが、最近は頭打ちとなっており、数がなかなか伸びていないが現状でもあります。
 それでも今こうして自分が探訪した城館跡を思い起こしてみると、結構回ったような・・・・・。


帯廓

 2008.12.4 宮守町上鱒沢 鳴沢館


☆遠野町  5
鍋倉城(複数回)・杉山館(2)・長洞館・袖高屋館・程洞館(2)

☆綾織町  8
谷地館(6)・西門館・西風館(6)・鴨館・万蔵坊・丹内神社・愛宕神社(2)・上野館

☆小友町  7
南館(3)・鷹鳥屋館(2)・奥友館・平清水館(4)・新谷館(2)・及川館・鮎貝館(6)

☆附馬牛町  7
大萩大館小館・角地山館(2)・大野館・小出館・蝦夷塚森・火渡館(5)・根岸館(2)

☆松崎町  8
松崎館(6)・駒木館(6)・八幡館(5)・光興寺館(2)・宮代館・真立館・横田城(8)・阿曽沼館(6)

☆土淵町  9
西内館・栃内館(3)・山口館(2)・角城館・大楢館・本宿館(2)・五日市館・宮沢館(2)・柏崎館

☆青笹町  4
臼館(3)・中沢館(3)・花館(4)・大将館(2)

☆上郷町  10
板沢館(2)・刃金館(2)・林崎館(2)・森下館・太田館・駒込館・大寺館・来内館・糠森館・平野原館

☆宮守町  8
鱒沢館(4)・高館(5)・落合館・石倉館(2)・宮守館(2)・神成館(4)・達曽部館(3)・鳴沢館


 遠野市内分 2008年12月4日現在 66箇所 ( )は探訪回数


他に市外・・・

江刺区5・住田町5・釜石市2・大槌町1・八戸市、紫波町等若干


 全体で80箇所程度ということになりますが、複数探訪している城館跡もありますから延べ探訪回数は200回程度と思われます。
 
 遠野市内においてはまだ総数の半分に満たない数、しかも宮守町関連は資料も乏しく難儀しそうな予感もいたします。



手持ちの館跡関連資料




 先人郷土史家の先生お二人が調べ上げた力作、この資料そのものの存在は昨年の今時期知ったということで、このことからもだいぶ探訪に至る廻り道をしてきたと思ったりもしますが、反面、これがなかったから、自分で舘跡を見つけ見た時の感動は格別なものでもありました。

 自分的には探訪に関して二番、三番煎じという思いはございますが、それでもこういった先人が残した資料はたいへんありがたく、助かる代物でもあります。

 この分野は今や遠野市内では自分一人か?数名といったところと思ってましたが・・・・。






 最近、図書館の郷土資料室で見つけたといいますか、新しく加えられた資料と思いますが、自分以外にも城館跡を調べた方々がいることが少しだけ心強い思いがいたしました。

 城館跡探訪していると時折、館跡近隣の方々と少しだけ接触することがございますが、その際に「この前も3,4人調べに来たっけ」とか「年に10人は見に来ているな」・・・と聞くことがございますので、ようやくこういった内容の真相をみたという思いもいたします。
 ただ残念なのはこうした資料を作成しているとか、準備しているという情報があれば何かお手伝いなり、同行も出来たものを・・・と少しだけ残念でもあります。
 また、きちんと製本された冊子ながらも簡略紹介と画像一枚、地図も添付はされてますが、もう少し内部の遺構等の画像も数枚掲載してほしかったが本音でもあります。


 ちなみに作られた方々は昭和6年生まれの方々の集まりといった雰囲気、小生の親父とほぼ同じ年代、親父はこの世の人ではありませんが、同じ年代の方々が頑張っているということで、ものすごく励みにはなっております。


 ということで、今季もあと僅か、後いくつ探訪調査出来るやら・・・・。



松崎館の堀切


 大小5本の空堀が残されている。
 
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伝・八戸上総 弐

2008-09-11 19:47:41 | 歴史関連コラム?
 前回の続きでのエントリー・・・・

 八戸上総の本領地である附馬牛町の一部、本日の模様・・・。

早池峰山・・・松崎町駒木から


火渡石碑群



 〇伝・田名部献上と御誓文呑込み事件・八戸上総 弐

 南部藩主、南部利雄公の嫡子、利謹公は幕閣要人と親交があり、その中で幕府に対して功績ある行い等があれば外様から譜代となり、さらに幕政に参画することも夢ではない・・・というニュアンスの内容を聞き及び、藩領である田名部(現青森県むつ市・下北半島)の献上、さらに南部10万石から20万石への格上げ、そして若年寄、老中に将来は任じられて幕府の政務に参画したいという御誓文を幕閣の一人に託したとされます。

 このことを知った家臣達は上へ下への大騒ぎとなり、連日の重臣達の協議もまとまらない有様、結局は事態を重くみた藩主利雄公の裁量で、嫡子利謹公は江戸から盛岡に送られ、しかも幽閉されるという局面となった。


 公文書ではないものの、御誓文という形で幕閣要人に差し出された文書、当然ながら他の幕閣達にもその内容は伝えられたものと思われますが、盛岡南部家の嫡子が国許へ送られ、廃嫡になろうとも田名部献上の事は予てから企図するところでもあり、ましてや諸侯の嫡子で官位まで持つ者が約束した事実には相違なく、早速ながら盛岡へ然るべき藩老の江戸表への出向を命じる内容が届けられたといいます。

 論議の結果、八戸上総が選任され江戸へ出向くことになりました。

 八戸上総は遠野南部家(八戸家)の分家、附馬牛八戸家の当主でありましたが、兄の八戸義顔は分家から本家である遠野を継承した殿様でもあり、これにより附馬牛八戸家の当主となっておりました。
 ちなみに遠野南部家(八戸氏)を大八戸氏、附馬牛八戸家を小八戸氏と称する場合もあります。


 八戸上総が江戸に着くと間もなく老中より登城の命が下り、居並ぶ幕閣からは、「主人、信濃守よりの願いにより田名部献上の願いのこと許す・・・早速御受書を差出し、引き渡しの手配とするよう・・・」と申し渡された。

 八戸上総は、ある程度の申し開きを行い、食い下がったと伝えられます。
 幕閣は、利謹からの御誓文を取り出して、上総へ見せたといいますが、上総は確かめたいということで、手に取ると、何を思ったか、誓書を手で丸めて呑み込んでしまったという・・・・。

 驚く幕閣達・・・ほとんどは怒ったと思えば呆れ返ったり、話にならないという雰囲気、それでも公の場での論議中のお墨付きを呑み込むという出来事で、最後は、一同怒りが込み上げ、いかなる処罰でも飽き足らない・・・という態度となるも、上総はしからばこの場で腹を切り、御誓文を取り出してお返ししましょうと・・・今まさに切腹もしかねない状況となり、ここは一同で上総をなだめて後日の処分とする旨が言い渡されたようです。

 さてその結果は・・・・「八戸上総なるもの、その行儀いささか不調法であるも、その志に免じてお咎めなし」


 伝えられる内容では、田名部は遠野南部家領で盛岡本家が勝手に献上を約束して、今度はその対処は遠野で行えという理不尽さ、上総は家臣とはいえ同列の家の所領を勝手に献上するといったこと、本家盛岡とて勝手はできない旨を幕閣に訴えたのだろうとしている。

 いずれ、八戸上総は江戸で評判になり、各大名家からは何かの行事に頻繁に招かれ、人気者となったと伝えられ、そのまま江戸勤めのまま彼の地で逝去したといわれます。


 附馬牛八戸氏本貫地・・・附馬牛町片岸



 

附馬牛小学校付近に屋敷と家臣団の家屋が居並んであったと伝えられます。



 ○ 真相は・・・

 今まで記した内容は、物語風といいますか、八戸家と田名部という結びつきが長らく尾をひく流れの中で成立という雰囲気でもあります。
 
 八戸時代の八戸領田名部、清心尼公が田名部を叔父である太守南部利直公に譲り渡したのは史実であるも、遠野の人々は近年まで盛岡南部へ貸していたと思っていた内容も語られます。
 現に私が参考とする「遠野南部家物語」吉田政吉 著 の中でも随所にその内容を伝える伝承が登場しております。
 本家盛岡といえども本来の遠野八戸家の所領に関して、ことに田名部に関しては根強くその考えが根底にあったものと推測され、このような物語風の言い伝えとなったものではないでしょうか。

 他に「太平東国堅秘録」という書物では、江戸城にて南部利敬と二本松藩主、丹羽左京大夫(10万石)と煙草盆のことから争いとなり、利敬は恥辱を受ける。
 依って丹羽と同部屋であることを嫌い、 回避の方策は15万石への格上げと位階昇進であるの思いを募らせ、若年寄堀田摂津守が、松前視察の帰り盛岡へ立ち寄った折、その宿に訪ね、田名部五千石を条件に願の趣旨を申し出る・・・・・ここでも八戸美濃という遠野南部家分家に関わる人物が登場し、結果は書付を呑み込むという所業に至り、最後は忠臣として称賛される。

 これも田名部献上に関係し、さらに南部藩の格上げ問題へと発展する内容であるが、読物の世界と歴史家の間では定説であるといわれる。

 いずれ、記録よれば八戸美濃はこの事件が語られる時代に家老という職には任じられていないという見解もあって、またこのことに関する研究成果もある程度行われ、遠野で語られる言い伝えは、物語という範疇であろうという結論付となると思います。


 史実として田名部献上は立ち消えとなりましたが、盛岡南部藩の20万石格上げは南部利敬時代に行われ、これに関しても実は藩全体で望んでのことという見解もあるようです。

 近世関連は資料も割と残され、素人史家でもある程度閲覧できる環境はありますが、その分、妄想や推測が入り込めない雰囲気もあって、私的にはポロが出そうであまり手を出したくないが本音です・・・汗

 よく意味が伝わらない内容となりましたが、これに懲りずに今後もお付き合い願います。


 附馬牛町片岸集落の傍らを流れる猿ヶ石川

 
 まさに清流


 そして・・・

 某ウラワンの青年が自ブログで萌えるという・・・ばぁさま

 少し附馬牛の「ばぁさま」にしては上品かな・・・謝・・・汗


 花輪にて





 祭り近し・・・

 昨夜、しし踊りでの「かんながら」が配布された。
 早速点検を兼ねて新しいものを装着する。




 付け替え完了



 しし頭・・・駒木鹿踊


 長男が被るしし頭・・・
 しし二年目、まだまだ踊りの方は初級レベルですが、14日、15日は画像のしし頭に青色の垂幕は「元祖角助・遠州掛川」中央は九曜紋が染め抜かれた装束ですので、見かけたら「虎猫の息子がんばれ」とでもお声がけください。・・・笑
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伝・田名部献上と八戸上総 壱

2008-09-10 20:54:00 | 歴史関連コラム?
 3日連続の秋晴れ、空の青も時間が経つに従って青さが増し、湿度も低くて過ごしやすい、いわば秋晴れといった一日となりました。

我家から



大きな洗濯物には絶好な日和



〇田名部献上と後誓文呑込み事件

 あくまでも遠野側からの口伝え・・・。

 江戸時代の安永年間(1772~1781)時の遠野南部家当主は、第7代八戸弥六郎義顔公、盛岡南部藩主は、第8代藩主南部利雄公の時代とされています。
 事の発端はよくはわかりませんが、この時代、蝦夷地ではアイヌの反抗やらロシア等の外国船の出没が頻繁となり、幕府にとっては北辺の警備といった事案が急浮上してきた時代ともいえます。
 とりあえずは蝦夷地の松前藩、海峡を挟んでの本州では津軽藩に応急的な対応を指示したようでもあります。
 それとともに蝦夷地に至近の本州、其処は下北半島に他ならないことでもありますが、この地を田名部と称していて、南部藩領でありました。
 幕府は蝦夷地への前線基地的意味合いで田名部の重要性を認識したとされ、幕府の直轄地とする目論見があったとも語られております。

 話は少し逸れますが、藩主利雄公(としかつ)は、温厚な太守であったと伝えられ、何事も藩老等重臣達の進言をよく聞いた殿様だったといわれます。
 利雄公には嫡子、利謹公(としつよ)がありましたが、利謹公は剛毅大胆それに才気にあふれた若殿で、家臣達からは利謹公の世となれば南部盛岡藩の国威が大きく発展するものと期待が大きかったともいわれます。
 幕府からも期待する何かがあったものなのか、成年に達すると父利雄公と同列の官位に叙され、藩政に加わることが許されるものでした。(従五位下信濃守)
 利謹公はこうした処遇に慢じたものなのか、みちのくの片田舎の太守を越え、幕政に関与したい、老中、若年寄となって参与したいという夢が芽生えたともいわれます。
 しかし、幕府要職は譜代大名に限られ、外様の南部家は論外という仕組みでもありました。

 幕府重役と親交があった利謹公は、その実情を懇願すると幕府に対して大きな功績があれば、外様といえども譜代に取り立てられ幕政参与は夢ではない旨を聞いたと伝えられ、その見返りは何かといえば、先に記述した田名部を幕府へ献上するといった事であり、利謹公は早速このことを実行と移さんとしたと伝えられる。

 取り交わされた約束事とは・・・あくまでも言い伝え、噂の範疇か?
・田名部3千石献上の事
・老中、若年寄の御役を承り天下の政務に参与する事
・南部10万石を20万石に加増する事

 この三つの内、第一の難題は、20万石への加増の事で、傍からみれば10万石を20万石に加増して、一気に大々名の仲間入りとなって国力が上がるのではないのか?そんな事を思うことでもありますが、その内情は10万石の国力はそのままで、幕府に対する義務等ばかりが倍になるといった内容で、むしろ国力の弱体化が懸念されることでもあり、家臣達の間では大騒動となったようです。
 すなわち家臣は20万石に相応しい倍の人数にしなければならず、名目だけの加増で家臣達の俸禄はむしろ減らされる公算が強いものでもある。
 (1万石当り250名の武士、10万石では2千5百人、20万石では5千人)

 そして幕府要職となれば、国替が普通で奥州の片田舎ではなく関東甲信越の江戸に割と近い封地が与えられる可能性が大きく、国替は長年蓄積された財産の放棄を意味し、江戸時代は国替となった大名家が弱体化するといった内情があって、これも大問題だったようです。


〇 八戸上総
 田名部は本来、八戸時代の八戸家領でありましたが、清心尼公時代に太守南部利直公に返上?献上されたもので、その後しばらくは八戸から遠野に移った八戸家中では、盛岡に貸していたもので、いずれ返還して貰うものと思っていたようです。

 八戸上総は、遠野南部家(八戸家)分家の附馬牛八戸家第6代義覚公(よしさと)後に篤義公。
 附馬牛八戸家は遠野南部第2代義長公の弟、義也公を分家と成した家であるが、はじめ本家から附馬牛村、東禅寺村、平館村(現八幡平市)の2千石であったが、後に盛岡南部家、遠野南部家との知行地間のやり取りで1千石は本家預かり、徐々に加増を受け1千5百石余となる。
 遠野南部家分家ながらも、盛岡南部高知格に据えられ、歴代は加判役(家老)となり藩政に参与している。



 ということで、長くなりそうなので、続きはまたの機会に・・・・

 このことは記録等によるものではなく遠野で語られていただろう口伝での内容であることを申し添えます。
 真意はよく調べておりません、あくまでも「遠野南部家物語・吉田政吉氏 著」からの引用及び参考とし、私なりに少し資料等から付け加えた内容であることもさらに申し添えます。

 さて、続きはいかに・・・・笑


 我家から附馬牛方面





おまけ

またまた盛岡冷麺



 今回は、2番目に食べる機会が多い、や○な〇やの冷麺。
 スープはバッチグー、甘めのスープですが、しっかりとコクがあって好きな味です。
 ちょっと辛味で入れるキムチ類が酸っぱいかな・・・?・・・でも個人的には好きな盛岡冷麺です。

 で・・・


・・・・殲滅・・・笑



 もうひとつ・・・

 14日、15日遠野祭り、遠野郷八幡宮祭礼での駒木鹿踊への参加が危ぶまれていた長男が今週より練習に合流、両日共に参加できることになりました。

 小生は14日は勤務のため、祭りを観ることは叶いません・・・涙・・・パレードでの南部囃子、昼夜にわたってカメラ撮影をしたいがここ数年の願いですが、なかなか叶えることができません。

 八幡宮での馬場めぐりでは、地元しし踊りについて歩かなければならず、地元の出番が終わればそのまま移動ということで、こちらもなかなか上手くいきませんね。

 いずれ15日、八幡宮若しくは途中の沿道でお会いしましょう・・・駒木鹿踊の引率をしておりますので・・・・。


 
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