「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

ぺっこばり久々・・・・

2010-04-29 11:01:00 | 遠野

 まずは遠野桜情報・・・・

 

自分的には、法務局の桜が遠野の標準木だと思ってますが・・・

鶯崎の桜の方が若干早く咲くとのこと・・・・

 

4/29 午前中

鶯崎

 

もう一声・・・といったところ・・・・。

 

 4/30には、ほころびそうですが・・・・いずれ例年より、かなり遅れております。

 

 法務局(新町)

こちらも、もう少しといったところ・・・・

・・・が・・・

 

幹の部分に何輪か開花しております。

明日、4月30日には、開花宣言かな?

 

 我地域の福泉寺は、遠野市街地の桜より3~4日ほど遅いのが通例ですが、今年に関しては、全体的に遅れている点、寒かったということを考えると、さほど開花時期に差はないような・・・?・・・それでも、今日明日に咲くという雰囲気ではなく、5月に入ってからとなりそうです。

 

 遠野駅前の風景

 春の観光シーズン到来・・・遠野物語めぐり号

 

 駅に長男を迎えに行く・・・・・。

 4月初めの入学式以来・・・と言っても、ほんの4週間程、しかし、親としては独り暮らしが心配には心配であったし、2週間前には風邪をこじらせて、学校を少し休んだということもあったので、なおさらでもあった。

 群馬県前橋から夜行高速バスで仙台まで、さらに仙台から釜石行の高速バスを乗り継いで帰省といった具合・・・・片道約8千円程、新幹線に比べれば半額程度、オヤジの小生に真似しろといっても体力的に厳しい・・・。

 新幹線なら高崎から上越新幹線で大宮まで、そして東北新幹線に乗り換え・・・がポピュラーかもしれませんが、親の脛も考えてのことと理解している・・・・謝

 

仙台~釜石の高速バス

 双方、早朝に釜石、仙台とそれぞれ出発、仙台からは宮城県のバス、釜石から岩手県交通、午後の便は、その逆といったパターン・・・仙台からの便、遠野駅前到着の予定では午前10時10分頃、しかし、早かったり遅れたりが常、平日は早く着くとか?・・・本日は連休に突入という場面なのか20分遅れで遠野へ到着であった。

 ぺっこばり(少しばかり)久しぶりの長男、バスから降りてきた際は、うれしかったが本音です。

 けっこう仙台からの乗降客も多かったみたいです。

 

 本来なら、おふくろの味で長男をもてなすのが本筋か?嫁さんも仕事を持って、本日も仕事ということで、夕食は、ふるさと遠野の味ということでジンギスカン・・・・。

 小生としても、少しばかりご無沙汰といったところでした。

 

 

 やっぱり、家庭用のホットプレート(電器)ではなく、炭火とかガスによる直火によるジンギスカンが最高・・・・

 いずれ、遠野人は、これからの時期、お花見に田植え上がり、瀬ざっこの際に・・・運動会の反省会、イベントの後に・・・・とにかくジンギスカンをいただく季節到来・・・・・・・となります。

 

 長男の後は連休後半、長女も帰省予定・・・この時もジンギスカンか?

 

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濁酒柔氷菓子

2010-04-28 18:35:07 | 遠野

 陽春の後は冷たい雨の日、なかなか遠野の桜も咲いたという話は聞かない・・・それでもだいぶ芽も膨らんで赤くなっているので、そろそろ咲き出すものと思われます。

 ということで、雨降りの一日、しかも肌寒い・・・当初の予定では、釜石に行って釜石ラーメンを食べて来ようと考えていたが、今月は結構遠出をしており、来月の給油支払いがかなり厳しい状況ということで、遠出は自粛・・・汗・・・いつもの入浴施設に行って温まって参りました。

 

 釜石ラーメンを諦めたということで、某施設のラーメンをいただく。

 

 醤油ラーメン

 ラーメンを評するような者ではありませんが、味については可も無く不可も無く・・・いたって普通かな・・・ただし、俗にいう普通のラーメンなんですが、チャーシューにナルト、海苔、シナチク、刻みネギ・・・値段が580円・・・・これは少し高すぎではないのか?・・・いちゃもんをつけるわけではないが、特徴あるラーメンでもないし、せいぜいワンコインまでだろう・・・と思うが・・・・・まっ、感じ方は人それぞれですし、入浴休憩、宿泊施設ですからね・・・・笑

 

 でっ・・・本題

 

濁酒ソフト(どぶろくソフト)

濁酒特区遠野ならではの味、これは大人の味で美味い・・・。

 

 ほんのり濁酒といいますか酒粕風の味が少ししますが、丁度良い甘さ加減、小生は大好きなソフトですね・・・。

 

 ところで、ソフトを漢字で表わすとなんて書くのだろう・・・?

 此処では「柔氷菓子」と記しましたが、他に・・・柔乳冷菓子・・・やわらかい乳?・・・

 

 

 意味はないけど、皆さんも思い当たる漢字、当てはまる漢字をご披露ください。

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どごだり早池峰

2010-04-26 19:15:20 | 遠野

 なんか、自分的には久しぶりに青空をみたような?・・・

そして、陽春といった雰囲気がしました・・・・

・・・が・・・

 

遠野は、また桜(ソメイヨシノ)は開花しておりません。

 

鍋倉城址から駅前辺り

 遠野物語発刊百周年関連イベントも目白押し、市立博物館もリニューアルオープン、春の観光シーズンも本格的に開幕、まさに全部ひっくるめての遠野物語が動き出しているといった雰囲気がします。

 とにかく良い季節到来、そして天気も良いということで、キレイに見えた早池峰山を「どごだり、かごだり」から撮ってみましたので、ご覧ください。

 

 

 松崎から(大柳橋)

 

権現前(青笹町飛鳥田)

 

駒木橋から

 

附馬牛町、小倉辺りから

 

 

 

そして・・・・

通い人さん達は、命名のプロですね・・・笑

 

とすてむ神社・・・笑

確かに・・・汗・・・書いてある・・・笑

神社ではなくお堂ですがね・・・。

 

 

そして・・・・

食堂はやちね

 

 

 

天気が良かったので、かなり久しぶりに洗車を行った。

 

 

愛車も、サッパリしたようです。

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宮守にて

2010-04-25 18:57:37 | 遠野

 勤務地関連の歓送迎会がこのほどありましたので、参加いたしました。

 

4.23(金) mm1 銀河ホールにて

 

 昨年、宮守町の出先に赴任し、歓迎される側でしたが、勤務の関係で歓送迎会には参加できず、今回は送る側、歓迎する側として参加、かつての宮守村時代を知っているだけに、人数的には少しだけ寂しい思いもあるも、それでも参加者は30名近くで、話はしたこと無くても顔は知っているという方々や、かつての村時代に大いにお世話になった方々もいて、和やかに親睦を図ることができたと思います・・・おそらく・・・。

 

 

 宮守町で飲み会、何年ぶりだろう・・・・宮守村時代は年に数回、宮守で飲み会があったこと、そしてそのほとんどに参加していたことを思い出す・・・。

 今回の会場は道の駅と隣接のmm1(エムエムワン)内のホールですが、mm1開設当時から何度もお世話になった会場でもある。

 退職間際の当時の上司が「ミリミリワン」と言っていたのを思い出す・・・笑

 

 いずれ、仕事面では何かと協力関係を築かなければならない皆さんとの親睦、今回限りではまだまだ足りないと思うも、後は日頃の仕事の中でとなりそうです。

 

アイドルふたり

 宮城県から遠野人へ・・・そして京都から遠野へ赴任というお二人・・・とにかくお互い頑張りましょうぞ・・・・オヤジの励みでもあります・・・笑

 

 一次会も終了、最終の釜石線で帰るため、そぼ降る雨の中、上司とふたり宮守の町を歩いて駅へ向かう・・・・。

 

宮守駅

 

 遠野市内の釜石線の駅で駅舎が残されている宮守駅・・・地元にあった高校も閉校したことにより乗降客も減り、駅前は、さらに寂しくなってしまった。

 

 

ブラットホームに立つのは酔っ払いのオヤジ二人のみ・・・汗

 

 

 やって来たのは1両編成のワンマンカー・・・・。

 遠野までの料金は?整理券は何処で出すのか?遠野駅ではドアは自動なのか?・・・とにかく普段は列車に乗らないし、ましてや少し酔ってのこと、まさに不安になってきて、酔いも醒めてきたような・・・汗

 

 とにかく、なんとか遠野駅に到着、無事に改札もクリアということで一安心・・・。

 駅から直ぐということで、上司と某店へ入って締めをいただいて、帰宅いたしました。

 

 締めは・・・塩バターラーメン

 

 宮守は氷雨でしたが、遠野はみぞれ・・・冷え切った身体には心地良い温かさがうれしかった・・・。

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達曽部館

2010-04-23 15:52:58 | 歴史・民俗

 今回で5度目の探訪となる宮守町達曽部の達曽部館跡

国道396バイパスから遠景(4.21)

 

 

主郭平場(本丸)

 

 単郭の平山城で主郭の周囲を2~3段の帯郭が配置され、西側部(宿川・宿)は急傾斜地、北側はなだらかな傾斜で幾重にも階段状の平場が展開され、東側(八幡社側)は帯郭の他に二重の空掘、土塁が配され、南側(達曽部小)は数段の帯郭が斜面に配されている。

 館主は多田氏系とされる達曽部氏歴代と伝えられている。

 

 空堀跡(画像では確認できないが二重掘となっている)

 

帯郭(北側)

 

 

達曽部八幡神社

達曽部館と隣接の山野に鎮座する八幡神社

 隣接といっても館が機能していた時代は、神社側の山野も何かしら館としての機能が施されていた雰囲気が感じられる。

 八幡神社は地元民等による熱意等で遠野遺産に認定されている。

 後世に残すべき遺産、名勝地といったことではありますが、隣接の達曽部館も併せて遠野遺産とすべきだったのではないのか?神社と館は関連する事項もあるということで、共に地元で維持管理等をするといったことかもしれませんが?いずれどちらも大切に後世に残す、伝えるといった内容をよろしくお願いしたいと切に思います。

 

○達曽部氏

 ほんの概要というところで館主とされる達曽部氏について・・・

 遠野で主に語られる内容としては、画像の説明板参照のこと・・・・。鎌倉時代初頭、遠野郷を賜った阿曽沼氏、その代官として遠野へ入部した宇夫方氏による統治の障害のひとつ、現地勢力の存在が語られ、達曽部氏もそのひとつと伝えられる。

 説明板には主家、阿曽沼氏と共に入部した家臣と記してあるも出典等は不明。

 後に宇夫方氏との婚姻等によって同盟が成り、遠野郷の一部、遠野阿曽沼氏の家臣と語られますが、紫波郡の斯波氏関係の資料には、斯波氏の配下としての達曽部氏がみられ、戦国時代後半、天正の頃は遠野というよりも斯波氏の影響下に置かれていた雰囲気が強く感じられる。

 

 達曽部氏は多田氏系の一族とも語られ、遠野史においては、多田光俊の名が最初に登場している。(南北朝期の人)

 南部藩関係書籍には多田氏と記され、達曽部氏と改名は、南部利直公時代の慶長9年とされるも、達曽部氏が多田氏とされる系図には多田源氏の歴代が記され、その信憑性含め信じ難いと雰囲気もあるが、こちらも仔細は不明である。

 達曽部氏歴代が確認できるのは、天正の頃からと推測され、多田綱影→多田綱俊→多田綱保(斯波氏に属す)→多田忠綱(多田孫右衛門)南部信直公より天正16年8月斯波氏没落して帰降、旧領達曽部村を賜る。

→多田清綱(多田弥兵衛・達曽部孫右衛門)南部利直公の時、達曽部氏に改む。慶長9年8月28日付、利直公黒印 達曽部村400石。

→達曽部弥兵衛綱正・利直公の時、家督、元和2年3月、元和6年5月 黒印

 (慶長19年大坂冬の陣に南部勢として従軍した遠野勢に達曽部弥兵衛14人と記されている)

 南部藩士達曽部氏は6系を数え、その中では分家の宮手氏(100石)をはじめ、明治維新まで存続した家、或いは途中で断絶した分家もあった。

 

 

 

 達曽部  宿

 

 宿場町としての名残を残す宿地区・・・・。

 江戸藩政時代は大迫通りに属していた達曽部、盛岡南部藩の直轄地で代官支配であった。

 ちなみに達曽部と共に下宮守も藩直轄、上宮守と鱒沢は遠野南部家領であった。

 達曽部は一時期、寛永4年前後までは宮守主水が達曽部、下宮守の代官を勤めていたとされる。

 

 

 国道396号線、達曽部バイパスが出来て交通量が大激減、時代の流れといえますが、かつては大型観光バスや沿岸と盛岡を結ぶ定期バスも通った宿場町通り・・・

 小生が旧宮守村時代の最初の赴任の頃(1980代前半)、宮守町の宮守駅前や新町、そして此処達曽部宿に旅館が営業していたことを思いだす・・・四半世紀も昔となりましたが・・・・汗・・・それでも人通り等は寂しくはなりましたが、当時と建物や景色は、さほど変わってはおりません。

 いずれ、達曽部氏に関しては、然るべき時に大いに検証し、その見解等をご披露できればと思っております・・・・おそらく・・・汗

 

 

おまけ

 明番・・・仕事関連で少し帰宅が遅れたが、休みであった嫁さんと釜石に野暮用に出掛け、昼食は本日も麺類・・・・。

 

 ネットや各方面をみると釜石は、やはり釜石ラーメンとか、ラーメン関係に力を入れている雰囲気が感じられます。

 釜石ラーメンマップなる存在も確認できますが、先頃いただいた「昇華」のラーメンもそうですが、かなりレベルが高いと思われる。

 そんな中、口コミで一番人気と思われるラーメン店へ・・・・支店でしたが・・・。

 

小生は

 

これも美味い・・・・

極細ちぢれ麺かな・・・

 

嫁さんは店員さんの超お薦め・・・

坦々麺

 

これはかなり美味いとか・・・嫁さん絶賛・・・。

小生も味見程度に少しいただく・・・・

おっ・・・これは美味い・・・いい味でした・・・

 

 

 釜石ラーメン・・・当分目が離せないですよ・・・マップ制覇まではいかないと思いますが、少しでも多く色んなお店の自慢ラーメン食べてみたいです。

 

 釜石は寒かったですが、それでもようやく桜が咲いたようで3~5分咲きくらいかな?

 

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新堀城跡

2010-04-21 19:26:53 | 歴史・民俗

 鉄撮り、野暮用、野暮用ついでに石鳥谷(花巻)そして東和(花巻)と巡って参りました。

 遠野は風は強いものの朝から晴れておりましたが、花巻は曇り空で、途中から雨が・・・・桜は遠野同様まだ開花しておりませんでした。(間もなく開花でしょう・・・)

 

 さて、遠野つながりの歴史が深いというわけではありませんが、野暮用ついでに石鳥谷まで行きましたので、見やすいだろうという手頃な城館跡を探訪いたしました。

 

新堀城(にいぼりじょう)

 

花巻市石鳥谷町新堀

曹洞宗寺院、新仙寺裏手の山野

 

 目印の新仙寺の前の道を少し過ぎて行くと、かつての石鳥谷町で設置の説明板が目に飛び込んでくる。

 どうやら途中まで車で行けそうな雰囲気だったので、細い砂利道の林道を200mほど進むと、主郭(本丸)下の草地に辿り着いた。

 軽自動車或いは普通車でも小型車が望ましいですが、Uターンするに難儀しますよ。

 

主郭から東部分をみる

 

本丸(主郭) 

 中央奥に巨石がみえますが、「跡石」といって、かつての舘神(稲荷社)を祀っていたといわれる。

 

 空堀

 

 

 

 空堀は西側(新仙寺側)を除く方向に土塁、4~5段の帯郭的平場と共に残されている。

 

二の郭(二の丸)

 

主郭より5m程低い北側に比較的広い平場が形成されている。

北側、西側は空堀によって区切られている。

 

標高199m・比高89m

300m×250m 山城

 

 

 資料には比較的小規模とあるも、遠野の標準的な城館跡と規模的には、ほぼ同じと感じられた。

 しかし、残される個々の遺構は残存度も高く、大き目である。

 城主は、稗貫一族の新堀氏と語られている。

 稗貫領主であった稗貫広忠(花巻鳥谷崎城主)が奥州仕置き(天正18)で没落とすると新堀氏も共に没落ともいわれるが、新掘氏(新堀作兵衛義広)は後に南部氏に仕えたとある。

 新堀城は、稗貫郡、斯波(紫波)郡の境目に位置し、両郡を見渡せる絶好のロケーションであったと考察されますが、まさに軍事交通の要衝、要害といった位置付けであったものと推測されます。

 ただし、新掘氏に関しては、戦国時代は紫波高水寺城の斯波氏の影響下に置かれていた雰囲気が感じられ、奥南落穂集・稗貫家之次第には志和一味 仕信直公
とある。

 

 天正20年、新堀城は葛西氏旧臣で江刺岩谷堂城主であった江刺兵庫重恒が南部信直に仕え、2千石の城主として入った。

 後に子で二代目、彦四郎重隆(江刺兵庫重隆)、三代目江刺長作隆直と続き、長作隆直に時に和賀郡十二ヶ所村の土沢城(花巻市東和町)に1千5百石で移り、新堀城は廃城されたという。

 

 南部藩士、江刺氏は加判役(家老)を務めたり、藩の重職を担う歴代もいたが、やんごとなき事情で家録没収の憂き目となるも、100石で家名再興が成ったといわれている。

 

 ということで、遠野市内の城館跡も素晴らしく、また知られざる城館跡といった雰囲気抜群ながらも、遠野以外の城館跡も、さらにすばらく見応えのある城館跡が多い。

 遠野の城館跡をメインとしながらも、他との違い等も見極めることも大切であると痛感しているところであり、今後、遠野外の城館跡探訪も増えるものと思います。

 

 

 花巻方面に出発する前に、昨日撮れなかった釜石線臨時列車を狙う・・・。

こがね

 

 

本日の昼食は・・・・

また喰ってら・・・と言われそうですが・・・

 

 

 

 花巻方面ということで、やはり大門でしょう・・・・。

 冷麺ランチ・・・(盛岡冷麺普通盛り・ミニビビンパ・アイスかコーヒーかもうひとつ?忘れた・・・汗)   お手頃840円也

 

 3月から歓送迎会とか飲会が続き、さらに長男、二女の進学に遠出、車検に車の購入・・・何かと出費が嵩んで苦しかった・・・・。

 しかも、2月の事故関係は、とりあえず自己負担した内容もあって、なかなかこちらも還ってくる兆しがみえない・・・早く事務処理してくれ~・・・・。

 経済的に苦しい時は、何処にシワ寄せが来るかといえば・・・親父のお小遣いであーる・・・涙

 禁煙効果が少しあるので、その分で史跡めぐりでの昼食(ラーメン等)は賄うことはできましたが、それでも財布には野口先生一人だけが多かった・・・・汗

 ようやく、ここにきて一息つくことができた・・・・

 

 でっ・・・山野俳諧での汗をサッパリと流すのは・・・・

 

 

 

 今年、正月明けにリニューアルということてしたが、その後、行っておりませんでした。

 何処が変わったかというと・・・・サウナの模様替え、露天風呂の縮小・・・冷水機の設置?

 でも、4月中は特別料金、入浴料500円なそうです。

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桜は・・・?

2010-04-20 19:18:24 | 遠野

 釜石線を特別列車が走るという初日ながら、本日は撮影叶わず・・・

 不幸があって斎場へ・・・時間が14時ということで、ほぼ重なってしまった・・・。

 

 さて、陽射しはないものの、気温が上がって、桜も開花に向けて一気に進んだものと思いますが、岩手ではようやく沿岸や県南が開花したとかで、昨年より10日前後遅いらしい・・・。

 遠野での桜の名所、福泉寺の昨年の開花は19日でしたが、この分だと25日過ぎとなりそうな・・・?

 

福泉寺 参道   

4月20日現在

 

 

 

 少年時代、5月の連休過ぎても桜は満開で10日頃まで咲いていた年が随分あったとおぽろげながら記憶している。

 また、ちょっと前までの、消防演習は4月29日開催の恒例行事であったが、桜が3分咲きくらいで、これが終わって5月の連休に入ると満開となって花見をしたことを思い出します。

 どうやら今年は、5月の連休に満開を迎えそうな雰囲気、さくら祭りと銘打っているイベントもそれらしくなりそうですし、観光面も桜と重なって良い感じになりそうな?・・・・。

 いずれ後1週間・・・・・・・?

 

 

 近所の日当りの良い場所では水仙もちらほら咲いておりますが、我家の水仙は今週中には咲くかと思います。

 なんだか知らないけど、花々も色々と咲いてきております。

 

 

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大原 山吹城跡

2010-04-18 18:13:36 | 歴史・民俗

 遠野の歴史に関連する遠野市外の城館跡含む史跡探訪も視野に入れて、ここ数年少しずつ訪ねておりますが、今回は奥州千葉一族、葛西家中最大の重臣であった大原氏の居城、一ノ関市大東町(旧東磐井郡)大原の山吹城跡を探訪いたしました。

 

大原 山吹城跡の山野

 

主郭(本丸)方面

 

 正面からの攻城ではなく、何故か搦手側から・・・しかも本丸、二の丸それぞれに車で行きつける道が付いている。

 本来は徒歩でと考えていたが、此処で止ろうと何度も思うも結局は二の丸まで車で行ってしまった・・・汗

 

 案外城跡としての整備が整っているといった雰囲気で大原の町側の山野は全て木々が伐採され、木片のチップが敷き詰められた遊歩道が整備されている。

 

本丸跡

樹齢450年と云われる大銀杏

 

二の丸

 

町側の斜面

 

 葛西家中最大といわしめる重臣の大原氏に相応しい構えであり、ひとつひとつの段状の平場(郭)の大きさに感嘆する。

 

空堀跡(北東側)

 

 

 

 

 東西500m・南北300m  比高70m

 

 遠野と大原の関わりといえば「大原新右衛門こと大原弾正勝行」となりますが、過去ログはこちらから・・・、さらに続きはこちら

 

 大東町史にも大原一族とされる大原新右衛門の事が若干記されているが、遠野で伝えられる内容以上のことは記されていない。

 また、これも大原新右衛門つながりであるが遠野における曹洞宗触頭とされる常堅寺との関わり・・・・しかも葛西氏最大の重臣と関連ある内容が残されている現実から当時の遠野は葛西領であった?・・・少なくても土淵辺りは葛西氏の領域であった?と考察もできそうですが、しかしもう少し資料的な何かがほしいところ、さらに周囲の状況含め葛西氏というより千葉一族との関わり等もよく調べる必要があると思われるが、いつもながら逃腰ながらも、今後の課題ということで・・・・汗

 阿曽沼氏と葛西氏との関わり、千葉一族との関係は?こちらも徐々にと・・・。 

 それと八戸直義(遠野南部氏)が寛永4年に遠野に入部した前後に大原新右衛門の足跡が消えているが、その後は・・・・?

 笛吹童子氏指摘で松崎観音関連にて記されている大原勝三郎は?横澤氏は・・・?

 

 今回、横澤氏に関しては、当時、遠野で八戸直義に仕えた横澤久蔵と盛岡南部家に仕えた遠野出の横澤家が存在したことを見つけた。

 横澤氏は多田氏系となっているが、かつては葛西氏家臣で室根辺りに勢力を持っていたという内容も見聞きするも、おそらく奥州仕置後に他の葛西旧臣達同様、遠野へ移って来た一族がいたものだろう・・・・いずれこちらも徐々に・・・・。

 

 

 

 

 ちょっと前の東磐井郡に行くということは、ほとんど無かった。

 あったすれば東山町の猊鼻渓に一度、菅公夫人(菅原道真夫人)の墓所を訪ねたことくらいで大東町に関してはピンと来なかった。

 しかし、よく思い起してみると、小生が20代の若い頃、よく地元テレビのCMやら新聞広告で気になるお店があったことを思い出す・・・・・。

 小生も含め同級生や同年代の友人達の憧れ・・・・いつか行ってみようと話していたこともあったし、実際に行って買って来たという知人もいたような・・・。

 

 今回、大東町へ行ったことにより、かなり遅くなりましたが、その存在を実際に確かめることができました。

 

ピッ○イ○大○

 カッコ良くセンスあるタイヤやアルミホイールが安く売られている、CMなんかをみていると遠くてもいつか行って見てみたい、できれば買いたい・・・そんな事を友人達と話をしていたことを思い出す・・・。

 その後、カー用品販売の大型店舗が北上や盛岡、そして花巻に出来たこと、地元でも安価で買えるということもあって、いつしかこちらのお店の事は気にしなくなったけど、まだまだ地元で頑張っている雰囲気、懐かしく思いました。

 

 

おまけ

一年以上?・・・ご無沙汰していたラーメン

 

南部ラーメン

 小生が思う味噌ラーメンといえば、この南部ラーメン・・・。

 濃厚でもなく薄いでもなく・・・小生の味覚には丁度良い味噌ラーメン、たまに食べたくなるのですが、今回は1年以上ご無沙汰となってしまった。

 

 

 さらに・・・おまけ

 

ネネ

 

 傷口からの菌で化膿、左前足が腫れて歩行もままならなかったが、ある日、膿が破裂すると一気に快復に向かい、もとの元気な姿に戻りました。

 元気だと寝姿も安心といいますか、可愛く感じてしまう・・・汗

 

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遠閉伊は遠野か?

2010-04-16 18:31:17 | 歴史・民俗

 遠閉伊村に関しては「日本後紀」(承和7年・840)に記され、坂上田村麻呂が遣わせられ遠閉伊村を討つも頭目の多くは山谷に逃れたので文室綿麻呂を後に遣わしてとされる。

 後任となった文室綿麻呂は弘仁2年(811)、陸奥、出羽両国合せての大兵2万6千人余を以て爾薩体、幣伊(閉伊)の2村を襲ったが、閉伊村に関しては蝦夷の類はあまりにも多くて、国軍だけでは手に負えない状況に成りえるので、さらに俘囚軍(朝廷配下の蝦夷)を動員して討ったとされる。(夷を以て夷を制す)

 朝廷軍による最後の蝦夷平定戦は、閉伊村攻撃を以て一応終了といった内容が僅かに記されているが、その詳細は全く不明といってよい。

 爾薩体は、現在の岩手県二戸市とされ、昭和30年まで村としての仁左平といわれるが、広く旧二戸郡を指すのではないのかと考えられている。

 また閉伊村に関しては、現在の上下閉伊郡の内といった考え方であるも、識者の間では久慈市或いは九戸村辺りではないのか?とも論ぜられている。

 いずれ爾薩体と閉伊村はさほど離れた場所ではないという見解なのかもしれない。

 

 さて・・・遠野において田村麻呂伝説といいますか、関わりある場所として小生は一番にこの場所を思い起こしました。

 

羽黒岩

 

遠野市綾織町新里(寒風)

 

矢立の松伝説と関わりある大岩

 

 

 

 羽黒岩がある山野は羽黒窟といわれ蝦夷の族長、岩武丸の拠点であったという。

 

矢立の松

 和賀郡より攻めてきた坂上田村麻呂将軍は砥森山(宮守)の頂上から弓を射ったがその矢先は寒風の羽黒岩の松に突き刺さったと伝承されている。

 また、田村麻呂将軍と蝦夷族長、岩武丸との戦いを物語る内容として、矢立の松には当時の戦いでの鏃約80本が木の幹から出てきたといわれ、その鏃は同町内の光明寺に保管されているとか・・・。

 

 羽黒堂・・・出羽神社

 

 遠閉伊村・・・・いずれ坂上田村麻呂或いは文室綿麻呂による遠閉伊村攻撃、仮に坂上田村麻呂による平定戦があったとして、朝廷軍は北上川沿いを北上、そしてその支流たる猿ヶ石川沿いにさらに奥地へ侵攻といったことも大いに考えられるのではないのか?

 和賀、稗貫、志和といった郡が置かれて間もなくのこと、征夷軍は猿ヶ石川渓谷を奥地を進み、その先がすなわち遠野地方、遠閉伊だろうと「伊能 嘉矩」は述べているという。

 

遠野(とおの)という地名の語源は?

 大方の説としてはアイヌ語説が有力というか一般化しているような・・・?

 すなわち「トウヌップ」・・・湖沼のある野原・・・と意味付けがされているが、もうひとつ「遠閉伊」とおのへい、とおいへい・・・という内容も一応あるということも付け加えたい。

 こちらは閉伊という地域にあって、さらに遠い閉伊・・・閉伊の奥地という意味もありそうですが、遠い閉伊の野・・・から遠野となったという説も語られてはいる。

 遠野はその昔、蝦夷と呼ばれる人々が住む地域であったと思われ、当然ながら当時の人々による地名が語られていたものと推測されますが、それは和語地名ではなくアイヌ語にちなむものといったことが考えられる。

 蝦夷とアイヌはどう違うのか?そういった議論にもなりそうですがね・・・。

 当時の人々が語っていた地名やその意味を解釈してそのまま和語地名として使ったのではないのか?

 そうなると遠野は「トゥヌップ」からかな?

 いずれ阿曽沼時代初頭(鎌倉期)までは、河川の氾濫等で川の流れは色々と変わり、その名残の湖沼も多く点在していたのではないのか?とも考察されているし、地質等調査でもその痕跡は結構出ているともいわれている。

 う~・・・ん・・・もう少し検討してからまた挑戦したいと思います・・・汗

 

 

 

 おまけ

 

決してストーカーではありません。

 

 ちょっと内陸方面に行ったついでに、自分の地理的感を試してみようと以前某ブログでみた風景の画像の記憶を頼りに探してみました・・・汗

 

 たまたま間違って入った道の先に・・・・大汗・・・おそらく此処だっ・・・笑

 

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鳥海の柵

2010-04-15 19:05:01 | 歴史・民俗

 久しぶりに天気が回復したような気がするも、風が強くそして冷たい・・・4月も半ばを過ぎ、岩手県でも桜の開花話題があってもよさそうですが、まだ正式に咲いたという知らせは入っていない・・・・。

 気温が低めながらも、洗車する姿が多く見られた日でもありました。

 

スーパー遠野プロガーも洗車中・・・笑・・・お疲れさまです。

 

 

「鳥海柵」

 鳥海柵跡(とのみのさく)

 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字鳥の海

 

 

 

 前九年の役に関連する主要柵(城館)のひとつで安倍一族である安倍宗任(安倍頼良の三男と云われる)の居館と伝えられている。

 東北自動車道ルートであったため、大がかりな発掘調査が行われ、平安時代の柱脚跡や柵跡、鍛冶場跡、竪穴式住居跡及び土器類が出土、さらに空堀が発掘され鳥海柵跡と断定かと期待されたが、決定的な場面とは至らなかった。

 しかし、岩手県内に鳥海柵の比定地が5箇所ほどあるといわれるが、継続された発掘調査の結果、ほぼ金ヶ崎町の鳥海柵跡と伝えられる場所で間違いないだろうと決着したとのことである。

 胆沢城跡(鎮守府)にも近く、とにかく見晴らしが良い、位置関係やら雰囲気からしても此処で間違いないと小生も信じてやまない・・・。

 

空堀跡

 

 

 

 

 主要部分は田んぼ・・・西側は東北自動車道で寸断され、解説板が立つ場所近くは高速道を走る車がビュンビュン・・・駐車スペースは約2台程度か・・・高速道路脇の細い砂利道を進むと柵跡の主要部分となりますが駐車スペースで車のUターンもままならない・・・笑

 しかし、郭を区切る空堀跡は見事で見応えがあった。

 

 ところで遠野でも鳥海と伝えられる場所が残されている。

 安倍宗任と関係する具体的な謂れがあるのかは不明であるが、上郷町細越(佐野)の鳥海の存在・・・遠野では「とんのみ」と呼ばれてますが、安倍時代に関わる何かしらの関連は無いとは言えきれないだろう・・・・。

 とのみ・・・と言っているが遠野同様、金ヶ崎でも「とんのみ」と呼称していたりして・・・・?・・・南部と伊達の訛の違いはありそうですがね・・・笑

 

 安倍宗任は鳥海三郎ともいわれる。

 前九年合戦での安倍一族棟梁は宗任の兄である安倍貞任であるのは承知のことですが、とある講演会での資料の内容では、貞任は安倍家嫡子でなく宗任が嫡子であるかのような内容を思い出す。

 何故に宗任は厨川柵で安倍一族が壊滅した際に源 頼義に許され処刑されなかったのか?配流という処置であったが、これは宗任は安倍頼良の正室の子で、清原一族と関係する女が母親だった可能性を指摘した内容だった記憶が・・・・資料を探し出すことが出来なかったのでこれ以上は記することはできませんが、安倍時代関係を調べる際に頭の片隅にでも入れて置きたいと思ってます。

 

 

安倍宗任の逸話

 説明板にも記されていますが、宗任が敗軍の将として京都へ連行され、都人達は奥州の無教養な荒くれ、野蛮人として安倍宗任を見ていた。

 貴族の一人が田舎者は梅の花を見たことないだろう・・・ということで、からかう意味で梅の枝を折って宗任に「これはなんという名の花か」と訪ねる。

 

 鳥海柵跡に咲く梅

 宗任は・・・・「我国の梅の花とはみたけれども、大宮人は何と云ふらん」・・・と和歌で返したので、訪ねた都人は顔色を失い、奥州の田舎人とはいえ、その教養の高さに感嘆したとのことです。

 

 

 

 おまけ

 

 

 ブログでの温泉仲間さんのエントリーをみて、金ヶ崎町に行ったということで、「金ヶ崎温泉 駒子の湯」を目指す・・・・。

 けっこう遠い、山間に入ると遠野では貞任高原や荒川高原みたいな景色が広がり、酪農をされる家々が点在する中を道は続いている。

 ほんとに温泉に着くのか?不安であったが、老人介護施設?に隣接する温泉を発見、安心して駐車場に車を滑り込ませると・・・・ガピーン・・・大汗

 なんと定休日のようだっ・・・涙

 

 この界隈というよりもさらに奥とか近くにも別な温泉施設があるといった看板はみておりますが、ここは一度、里の方へ戻り、「みちのく城址温泉」に入ることに・・・・。

 天然温泉ということ、大好きなサウナもあって、一応満足いたしました。

 此処は「みどりの郷」と銘うってますが、かつての「サン○ア」ですよね。

 夏には遠野から遥々、子供達が小さい頃、プールに何度か遊びに来たことがありました。

 流れるプールとか、かつての遺物が残されている光景が少し寂しく感じられました。

 

コメント (8)
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