盛岡藩家老 楢山佐渡
楢山 佐渡 (ならやま さど)
盛岡藩(南部藩) 家老、楢山帯刀の長男として天保2年(1831)誕生。
名は隆吉、通称五左衛門と称し、のちに佐渡と改めている。
楢山家は南部家高知衆(上級家臣)譜代の家柄で、叔母は後の藩主、南部利剛の母親で利剛とは従兄弟同士である。
代々家老加判役を勤める楢山家ではあるが佐渡は若干23歳で家老職に就任している。
佐渡は疲弊した藩財政と相次ぐ一揆での対応に働き、藩主南部利剛(としひさ)候の厚い信頼を得ていたとされる。
また、盛岡藩随一の大身で実力者でもあり、藩大老であった南部弥六郎(遠野南部家 南部済賢)とは、義兄弟(佐渡の姉が弥六郎の室)でもある。
慶応4年(1868)2月、明治維新の動乱は東北諸藩にも多大な影響をもたらし、佐渡は旧幕府と薩長等の新政府との狭間に揺れる藩の行く末を決するべく、京都へ赴くも、権勢を得て横暴極まる薩長を中心とする新政府側の態度を目にすると、薩長等から討伐対象とされた会津(福島県)、庄内(山形県)の各藩へ穏便な処置を望んだ奥羽越列藩同盟に参加を決定する。
同年、奥羽越列藩同盟を脱退した隣国、秋田久保田藩攻めを決定、佐渡は盛岡藩軍を率いる総大将として鹿角口へ出陣、各地で秋田勢を破り、破竹の進撃で大館城をも落としたが、秋田へ援軍として来援した九州佐賀藩等の明治新政府軍に進撃は止められ、逆に藩境まで、押し戻されて苦戦を強いられる。
既に会津藩は敗れ、仙台藩をはじめとする東北諸藩の大半も降伏、残るは盛岡藩と庄内藩のみで、遂に9月に降伏、佐渡は戦犯として東京へ送られるも後に藩の一切の責任を一身に負い、明治2年(1869)6月23日(7月30日)故郷盛岡で刎首となった。(切腹の形をとり処刑) 享年39歳
処刑の場所は盛岡北山の報恩寺
「花は咲く 柳はもゆる 春の世に うつらぬものは 武士(もののふ)の道」
楢山佐渡は「最後の武士」といわれる一人として歴史に名が刻まれている。
郷土、岩手の偉人ということもありますが、数年前まで歴史関係のウェブサイトを公開しており、その中で幕末維新期での東北という内容で、幼稚ながらも展開していたこともあって、盛岡藩兵が進軍した秋田県鹿角市とその周辺での史跡探訪、さらに盛岡市北山で楢山佐渡の墓所をお参りしたことがありました。
写真は5年以上前のモノです・・・おそらく・・・汗
楢山佐渡に関しては、ネット検索等で、概略等はわかりますので、そちらをご参照ください。
秋も深まり・・・
9/28日の画像より
本日は雨降り、9月最終日は雨の金曜日となりましたが、いよいよ10月到来、紅葉を絡めての撮鉄やら地元での雲海撮り、深まる秋を切り撮ってみたいと思います。
某日のお昼は・・・
南部つながりで「南〇らーめん」・・・笑
味噌ラーメンは此処のが美味しいですね・・・