前回のエントリーにて「遠野保」について簡略ながら触れましたが、遠野保についての追記から・・・・。
大げさな内容ではありませんが、「遠野保事」が実は「遠野係事」との説に関して・・・・。
平成6年、遠野博物館講座にて私論を語った大川氏、その中で「係」の草体を「保」と誤読したが為の大きな間違いとの指摘であったようですが、遠野南部家文書での内容で陸奥国司北畠顕家から検断職であった南部師行に送達された教書で地名等が記されている幾つかの文書をつらつらと眺めてみますと・・・・おおよその内容からすると、その中に出てくる地名には・・・・「閉伊郡内大澤村・・・」「糠部郡七戸・・・」「糠部郡三戸内・・・」「外濱内摩部郷・・・」等・・・あり、地名を表す際は郡とか郷、村という記述が大半であり、遠野の場合は、郡でも郷でもない。
遠野係事(遠野のあらそい事)の場合だと、遠野という地名は理解できるが、何処の遠野なのか、南部師行は遠野というだけで、あそこの遠野ということに併せて争い事の顛末も極めて深く知っていることを前提にしての内容だったのか?
やはりここは、郡でもなく郷でもない、保である遠野、すなわち遠野保として理解しても問題はないように思えます。
さて前置きが長くなりましたが、遠野保の成立は前エントリーやお寄せいただいたコメント等で判断すると、奥州平泉の藤原時代といった雰囲気ですが、それでは保となる前は・・・・大概は近在の郡の中にあるといったところでしょうが、果たして遠野は何郡だったのか?
遠野保、或いは遠野郷は西は田瀬(花巻市東和町)から東は釜石市、北は大槌町を越えて山田町の豊間根まで含んでいたと語られますが、ここでは、現遠野市のみを対象としますが・・・・
北は早池峰山を起点に北東から南東(釜石)に広く隣接する閉伊郡、北西は稗貫郡となっている。
ほぼ山岳地帯での隣接であり、往来には高度にある峠越が必要不可欠である。
次に南は気仙郡、南西に江刺郡、そして西部分が和賀郡と隣接している。
特に和賀郡の場合は現花巻市東和町は旧和賀郡ではあるが、北部地域は稗貫郡にも重なる地域であったとも思われ、猿ヶ石川沿いが和賀郡であったものと思われる。
隣接する各郡から遠野へ至るとすれば、ほとんどが山岳越えとなる。
唯一、和賀郡から猿ヶ石川の渓谷を進めばさほどの山越とはならない雰囲気であるも、これは現代人たる私の感覚であって、実際はどういうものであったかは想像はできない。
いずれ、北上高地の中にあって、周囲を高い山々に囲まれた大きな盆地に至った外部の人間達は、別世界に感じたのかもしれませんね・・・・。
ということで、まずは障りだけ、実はこれらに関する資料やら書籍の準備がなっておらず、これ以上は単なる私の思いこみやら妄想となりますので、然るべき時に第二弾として考えてみたいと思ってます。
猫には関係ないニャ~
新幹線に乗る機会があったもので・・・某ブログにもありましたが・・・笑
大げさな内容ではありませんが、「遠野保事」が実は「遠野係事」との説に関して・・・・。
平成6年、遠野博物館講座にて私論を語った大川氏、その中で「係」の草体を「保」と誤読したが為の大きな間違いとの指摘であったようですが、遠野南部家文書での内容で陸奥国司北畠顕家から検断職であった南部師行に送達された教書で地名等が記されている幾つかの文書をつらつらと眺めてみますと・・・・おおよその内容からすると、その中に出てくる地名には・・・・「閉伊郡内大澤村・・・」「糠部郡七戸・・・」「糠部郡三戸内・・・」「外濱内摩部郷・・・」等・・・あり、地名を表す際は郡とか郷、村という記述が大半であり、遠野の場合は、郡でも郷でもない。
遠野係事(遠野のあらそい事)の場合だと、遠野という地名は理解できるが、何処の遠野なのか、南部師行は遠野というだけで、あそこの遠野ということに併せて争い事の顛末も極めて深く知っていることを前提にしての内容だったのか?
やはりここは、郡でもなく郷でもない、保である遠野、すなわち遠野保として理解しても問題はないように思えます。
さて前置きが長くなりましたが、遠野保の成立は前エントリーやお寄せいただいたコメント等で判断すると、奥州平泉の藤原時代といった雰囲気ですが、それでは保となる前は・・・・大概は近在の郡の中にあるといったところでしょうが、果たして遠野は何郡だったのか?
遠野保、或いは遠野郷は西は田瀬(花巻市東和町)から東は釜石市、北は大槌町を越えて山田町の豊間根まで含んでいたと語られますが、ここでは、現遠野市のみを対象としますが・・・・
北は早池峰山を起点に北東から南東(釜石)に広く隣接する閉伊郡、北西は稗貫郡となっている。
ほぼ山岳地帯での隣接であり、往来には高度にある峠越が必要不可欠である。
次に南は気仙郡、南西に江刺郡、そして西部分が和賀郡と隣接している。
特に和賀郡の場合は現花巻市東和町は旧和賀郡ではあるが、北部地域は稗貫郡にも重なる地域であったとも思われ、猿ヶ石川沿いが和賀郡であったものと思われる。
隣接する各郡から遠野へ至るとすれば、ほとんどが山岳越えとなる。
唯一、和賀郡から猿ヶ石川の渓谷を進めばさほどの山越とはならない雰囲気であるも、これは現代人たる私の感覚であって、実際はどういうものであったかは想像はできない。
いずれ、北上高地の中にあって、周囲を高い山々に囲まれた大きな盆地に至った外部の人間達は、別世界に感じたのかもしれませんね・・・・。
ということで、まずは障りだけ、実はこれらに関する資料やら書籍の準備がなっておらず、これ以上は単なる私の思いこみやら妄想となりますので、然るべき時に第二弾として考えてみたいと思ってます。
猫には関係ないニャ~
新幹線に乗る機会があったもので・・・某ブログにもありましたが・・・笑