「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

中世遠野の位置付け

2009-01-30 12:01:00 | 歴史関連コラム?
 前回のエントリーにて「遠野保」について簡略ながら触れましたが、遠野保についての追記から・・・・。


 大げさな内容ではありませんが、「遠野保事」が実は「遠野係事」との説に関して・・・・。

 平成6年、遠野博物館講座にて私論を語った大川氏、その中で「係」の草体を「保」と誤読したが為の大きな間違いとの指摘であったようですが、遠野南部家文書での内容で陸奥国司北畠顕家から検断職であった南部師行に送達された教書で地名等が記されている幾つかの文書をつらつらと眺めてみますと・・・・おおよその内容からすると、その中に出てくる地名には・・・・「閉伊郡内大澤村・・・」「糠部郡七戸・・・」「糠部郡三戸内・・・」「外濱内摩部郷・・・」等・・・あり、地名を表す際は郡とか郷、村という記述が大半であり、遠野の場合は、郡でも郷でもない。
 遠野係事(遠野のあらそい事)の場合だと、遠野という地名は理解できるが、何処の遠野なのか、南部師行は遠野というだけで、あそこの遠野ということに併せて争い事の顛末も極めて深く知っていることを前提にしての内容だったのか?

 やはりここは、郡でもなく郷でもない、保である遠野、すなわち遠野保として理解しても問題はないように思えます。


 さて前置きが長くなりましたが、遠野保の成立は前エントリーやお寄せいただいたコメント等で判断すると、奥州平泉の藤原時代といった雰囲気ですが、それでは保となる前は・・・・大概は近在の郡の中にあるといったところでしょうが、果たして遠野は何郡だったのか?




 遠野保、或いは遠野郷は西は田瀬(花巻市東和町)から東は釜石市、北は大槌町を越えて山田町の豊間根まで含んでいたと語られますが、ここでは、現遠野市のみを対象としますが・・・・

 北は早池峰山を起点に北東から南東(釜石)に広く隣接する閉伊郡、北西は稗貫郡となっている。
 ほぼ山岳地帯での隣接であり、往来には高度にある峠越が必要不可欠である。

 次に南は気仙郡、南西に江刺郡、そして西部分が和賀郡と隣接している。

 特に和賀郡の場合は現花巻市東和町は旧和賀郡ではあるが、北部地域は稗貫郡にも重なる地域であったとも思われ、猿ヶ石川沿いが和賀郡であったものと思われる。


 隣接する各郡から遠野へ至るとすれば、ほとんどが山岳越えとなる。
 唯一、和賀郡から猿ヶ石川の渓谷を進めばさほどの山越とはならない雰囲気であるも、これは現代人たる私の感覚であって、実際はどういうものであったかは想像はできない。

 いずれ、北上高地の中にあって、周囲を高い山々に囲まれた大きな盆地に至った外部の人間達は、別世界に感じたのかもしれませんね・・・・。


 ということで、まずは障りだけ、実はこれらに関する資料やら書籍の準備がなっておらず、これ以上は単なる私の思いこみやら妄想となりますので、然るべき時に第二弾として考えてみたいと思ってます。




 猫には関係ないニャ~




 新幹線に乗る機会があったもので・・・某ブログにもありましたが・・・笑

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「遠野保」再び

2009-01-28 19:19:04 | 歴史関連コラム?
 ブログ更新、毎日更新は無理ながらも、3日を置くということは極めて少なく、ネタを探せなくても、それでも何かしらエントリーして参りましたが、今回は5日程の間が空いてしまいました。
 これよりまた平常に戻りたいと思いますのでよろしくお願いします。


 ということで、それほど内容的には変わり映えしませんが、かなり冷え切った遠野地方の朝、陽が高くなると青空が広がり、まずは近場の景色から・・・。


薬師岳、早池峰山





 見える範囲の大地に積雪は、ほとんどない・・・。


六角牛山



天ヶ森




 さて本題・・・遠野保について

 以前にも「遠野保」についてエントリーした経緯がありますが、やはり遠野は遠野保であった・・・という結論に近づいた形として結んでいたと記憶しております。


 そもそも遠野保とは・・・となりますが、歴史的公文書という位置付けでは、遠野という地名が登場するものとしての最古の文書は以前も記してますが・・・「遠野南部文書」陸奥国司北畠顕家から南部師行(又二郎)に宛てた、建武2年8月3日の国宣が存在している。




 阿曽沼朝兼からの訴えにより陸奥国司北畠顕家から北奥羽を管轄する建武新政下の奉行、南部又二郎師行にその対処について指令する内容であるが、この中に「遠野保」という文字があることから、少なくても建武新政以前から岩手県遠野市は遠野保であったとする紛れのない史実としている。

 しかし、以前にも笛吹童子氏がご紹介した内容、遠野保ではなく「遠野係」という説が存在し、「係」の草体を「保」と誤解し、それを「遠野保事」(遠野保のこと)と誤読したことによるものとしている。
 本来は「遠野係事」(遠野のあらそい事)ということらしいが、このことを指摘する学者先生が居たようです。


 さて、中世遠野の歴史を語る上で一応に鎌倉時代以降は下野国(栃木県)の阿曽沼氏が遠野の地頭だったとする説が通説であり、ほぼ史実といいますか、少なくても何かしら阿曽沼氏が遠野に関わりがあっただろうと思われます。
 しかし、それ以前の平安期は・・・平泉藤原氏の勢力下の時代は平泉に関わりある封主が居たものと想像はつくが、具体的に誰が・・・となれば全くの不明といった内容でもあると思います。

 遠野は「郡」でもなく「郷」「荘」でもない、「保」とされるのがなんとも興味深い。

 保とは特別な土地であり、本来は公領であるが社寺や朝廷、国衙の用にあてるために朝廷や国衙の承認を得て設定された土地という意味がある。
 平安中期以降に荘園制の変形版といった内容で成立といった考察がなされ、荘園が廃れた鎌倉期に成立した内容ではないのは確かで、遠野が遠野保ならば平泉の藤原時代以前かその中期には成立していたものだろうと推測される。

 しかし、本来は公領としての保、遠野保ならば何かしら封主一族の名やら或いは平泉に関わるものなら、平泉に関連した何かしらの伝承等も残されていても不思議ではないが、こちらも全く不明である。

 遠野は保だった、或いは前段に記しているように国宣の文中での誤読として「係」であったとしても、やはり私の住む遠野は昔から遠野と呼ばれる土地であったものと理解したい。

 建武新政下で北奥羽を管轄する検断職、南部師行は津軽地方から西は比内郡、そして南は閉伊郡まで管轄していたことは史料によっても明らかであり、遠野がその管轄の南限であっても不思議ではなく、国宣での処置に南部師行の名が出てもこちらもなんの不思議でもない。
 南奥州、いわきに遠野という地名があり、こちらの遠野保という説もあったようですが、南部師行との関連性からみれば、陸奥国遠野は現岩手県遠野のことであろう・・・・。

 おっと・・・汗・・・保、遠野保に関してまたもやウヤムヤになりそうですが、さらなる研究の加速に期待したいと思います。



 阿曽沼氏が遠野へ下向、遠野で最初に関わりをもった地域といわれる駒木地域



 その中心地、下駒木下村(堀の内)





※ 当ブログの内容として郷土史関連にて城館跡もエントリーしておりましたが、ウエブサイトリニューアルに併せて城館関連は全てブログに移転の方向です。
 よって、城館専門の新ブログを開設し、そちらで主に城館跡関連を展開して参りたいと思っております。
 一応、新ブログは仮ながらも開設しております。
 
 名称「遠野城館録」としております。
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数日前の画像

2009-01-22 19:53:02 | その他
 寒中の雨が本日(22日)も・・・少し気温が高い日々が続くとのことであるが、来週からは寒気も強まって冬型との予報・・・。


 一週間前の画像ですが・・・・またまた福泉寺・・・。












 家事用務といいますか、家族共々留守となり、4~5日程ブログの更新をお休みいたします。


 
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これも致し方なし

2009-01-20 19:51:46 | その他
 寒中の雨で雪もかなり融けたのですが、今朝は白銀の世界・・・かなり重い雪が10センチ弱降った。

 雪かきに精を出した後、カメラ片手に市内へ繰り出す・・・・。


土淵町界隈


 結構積雪があったと思うも、気温が高め・・・雪も早いスピードで融け始めているようだったが、昨夜は風も強く、吹き飛ばされた雪もあったかもしれない。








 こちらは相変わらず健在のようです・・・笑
 まさに雨にも負けず、風にも負けず・・・・おっと寒風にも負けずですかね。




 ということで、本題・・・。

 昨年晩秋の頃に循環器検診を受診、その検査結果として昨年よりは少し改善された部分もありましたが、それでもC判定とされた内容もあって、この程、まずは再検査含み市内の某医院にて受診して参りました。

 問診で受診は終わりましたが、ここ数年、同じ項目での境界値超が目立っている現実、普段の生活等で改善の見込みはあるものの、毎年、同じような内容でもあるので、ここは薬に頼るしかないとの診断となる・・・汗





 幼き頃、宮本医院に入院経験はあるが、以降大病を患ったことはなく、風邪をひいても薬を服用という場面は極めて少ない。
 自分にとっては薬の服用は、ただ事ではない内容との位置付けでもありますが、中高年の域に完全に入っている年齢でもあり、これもやむなしと考えております。
 食生活の改善含み少し健康面でも気配りをしていけたらと思ってます・・・笑



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縁は異なもの・・・

2009-01-19 17:16:45 | 遠野
 寒中の雨降りとなった一日、17日のエントリーの結びに、これからが冬本番と書いたばかりですが、それでもこれで済むはずもなく、遠野の冬はまだまだこれからが本番でしょう・・・。





 さて、本日のタイトル・・・・

 「縁の異なもの・・・・」
 男と女のめぐりあい、結びつきというものは、予測のつかないほんとうに不思議なもの、おもしろいものだということ。

 ここまでは大袈裟な内容ではありませんが・・・








 遠野ひまわり基金法律事務所

 弁護士過疎地域であった遠野、その解消を目指して2001年8月29日に開設された公設事務所。


 小生の職務としては法律に基づいて仕事をこなすという内容が根本にあるのですが、それでも法律の専門家である弁護士の先生と関わるということは皆無であり、また、一般的な社会生活を営むうえでも馴染んでいるものでもないのは確かなことでもあります。
 しかし、何かしら悩み事やら抱えている人々が多いのも確かで、法的に助言をいただいたり、代って色々とやっていただくという内容では、やはり無くてはならない存在でもあり、そういう専門の先生が一人でも遠野に居るという頼もしさ、安心さは絶対あるものとこちらも確信しております。

 そんな中、地元ケーブルテレビの放送に今月に3代目となられる所長さんが赴任というニュースが流れていたことを思い出す。
 といっても、ほとんど聞き流すといったことで、気にもしていないが本音でしたが、久し振りに歴史関連で知り合いインターネットで繋がりのある京都府宇治市に住まいする御仁から拙ウエブサイトの掲示板にコメントが寄せられた。

 ネットいう繋がりでその関係は薄いものかもしれませんが、その方からのお知らせは、まさに「縁は異なもの・・・」的でありました。


 今回赴任された弁護士の先生は、その方の甥御さんとのこと・・・・無論、小生はその甥御さんのことは存じ上げませんし、全くのアカの他人ではありますが、それでも、ネツトでの知人の方の近親者が縁あって遠野へ・・・見ず知らずとはいえ、法律事務所がなんとなく身近な存在に感じられる、そんな錯覚やら思いはしているということ、これも不思議な心持でもあります。


前任者の先生にはたいへんご苦労さまでした。また、赴任されました三代目所長様のご健闘をご祈念しております。

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シーズン終了

2009-01-17 21:31:10 | 遠野
 お正月も過ぎ、1月も中旬を過ぎると連日、氷点下10度近くまで冷え込み、まとまった積雪もあって、すっかり冬らしい光景の遠野となっております。

 小生の郷土史関連でのライフワークである城館跡探訪、春の時期と晩秋から初冬にかけての時期の年2度程、期間にすれば3ヶ月~4か月となりますが、後半戦の城館探訪は積雪時期となった為、終了となりました。



鍋倉城南郭部分 帯郭跡

 2008.12月撮影



 後半戦は遠野菊池氏関連の調べの一環として奥州市江刺区の菊池氏縁の館跡2ヶ所の探訪、さらに遠野市内では新規含めて6ヶ所に留まりましたが、残り少ないとはいえ、なかなか良い手応えの館跡探訪となったと思ってます。

 春のシーズンまでは少し間がありますが、何箇所か三陸沿岸方面の城館探訪も視野に入れ、遠野の城館との比較なんかもしてみたい、そんな思いでもあります。



 本格的な雪の季節到来











 来月には立春を迎えますが暦のうえだけ・・・むしろ冬はこれからが本番となります。
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どんと祭・遠野郷八幡宮

2009-01-15 19:32:14 | 遠野
 吹雪乱舞の一日、そんな中、この時期恒例の行事「どんと祭」に出かけて参りました。


遠野郷八幡宮






 ここ数年、八幡様への初詣をしていないこともあり、まずは本殿へ参拝。



どんと祭で燃やされる正月飾りや神棚飾り、お札等・・・・物凄い数だ!



 時折の吹雪の中、三々五々、皆さまが訪れておりますが、大半は正月飾り等を届けたらお帰りになる方が多いのですが、それでも、どんと祭を待つ方々もいて、今や遅しと皆さんと待つ・・・。




 いよいよ神事が始まり・・・・。




 八幡神楽の権現様が動き始めると、宮司様によって火入れが行われ・・・








 どんと祭の火でお餅を焼いて食べると、この一年無病息災、風邪をひかないとのことで、配られたお餅を竹串に刺して早速、皆さん焼き始める。


 ということで、小生も・・・・。


 焼くというより、炙るといった方が合ってますが・・・。



 あっという間に、黒煤が・・・汗・・・それにしても熱い・・・この程度の火は仕事柄、なんとも思いませんが、やはり熱いものは熱い・・・大汗






・どんと焼・どんと祭
 お正月に使った門松やしめ縄、お守り、破魔矢、祈願成就した「だるま」などを持ち寄って焼き、その火にあたったり、餅を焼いて食べて無病息災を願うものです。
 お正月にお迎えした神様をお送りする日本の伝統的行事。
 

 
 小生の分だけお餅をいただいて、無病息災を祈願しましたが、皆さん、竹串に数個串刺しにしたり、2本手にしていたり・・・宮司さんに後で声をかけられましたが、家族の分も焼いて持ち帰ることもできるとか・・・・まっ、我家の代表で小生が・・・ということで・・・・笑







 寒い中、ご苦労さまでした。

 


 

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ミヤホランブルーと雪景色

2009-01-14 17:28:06 | 遠野
 松崎町駒木の福泉寺界隈は、その昔、宮洞と呼ばれた地也・・・。

 また、よく晴れた日には、東の空に澄んだ濃い青がでる処也・・・。








 まとまった雪といったことではありませんが、綿雪が5センチ程、薄らと大地を覆った14日の朝。
 陽が高くなるにつれ青空も広がり、穏やかな一日でもありました。


 
 福泉寺雪景色











 毘沙門堂




 五重塔







 宮洞と呼ばれた地に開山した福泉寺、大正元年開山の新しいお寺さんではありますが、見処満載・・・といいつつも、冬期間の今は閉山中です。
 しかし、大観音堂以外はご参拝も可能で、拝観料は発生いたしません。

 うさぎやキツネ、リス・・・野山の動物達の足跡も雪上にくっきり、観光シーズンの顔とはまた違った趣がございます。
 機会がございましたら、雪景色の福泉寺もお訪ねください。





 今回は福泉寺の南側部分の画像取材としております。




 久しぶり・・・本日の曲・クリストファークロス「風立ちぬ」

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おこぼれぶれんど

2009-01-12 09:27:10 | 遠野
 10日、大荒れとなった遠野地方、風雪が吹き荒れるも翌日はきれいな青空が広がる。
 遠野の西部分、小峠を越えた宮守はまとまった雪が降ったとか、しかし遠野の松崎町はご覧の通りの風景となっておりました。

1/11日撮影







 さて、関東在の遠野ぶれんどメンバーの来遠に併せて、新年会を兼ねた集まりが10日にありましたが、小生は勤務のため、参加すること叶わず・・・・参加されたメンバー各位の翌日のブログを徘徊して、その雰囲気だけでもと思いながらも、来遠中の知人は11日も遠野泊ということで、ここは会って一献傾けたいが心情でもある。

 ただ、11日は昼から地域の新年会がふたつ、ひとつは行政区の役員さん方の新年会、もうひとつは集落の新年会・・・・はて、ぶれんど仲間との第二弾新年会を催すことができるのかどうか不透明でもあり、なかなか考えが固まらない状況でもありました。

 役員新年会はたかむろ水光園ということで、お風呂にも入れるということで、ここは母親に任せて、小生は集落の新年会参加へと踏み切る・・・・。


 夕方近く、飲む方を自嘲して帰宅すると、やまのかみさんと連絡を取り合い、ぶれんど第二弾開催に踏み切り、最少人員ながらもジンギスカンでのぶれんどを開催するに至りました。




 結局は4名ということになりましたが、基本的に前日のぶれんどに諸般の事情で参加できなかった面々、連絡がすぐとれた御仁といった構成でもありました。








 一気に弾けてこんな姿となったわけではありません・・・汗

 やはり昼から地域の新年会に参加され、6時間も飲み続けながらも、前日不参加のうっぷんを晴らしたいという思いで顔を出していただきました・・・笑

 それにしても夕方4時過ぎから10分置きに「どこでやる」「まだこんねのが」「どこさいだ」・・・・の矢の催促・・・小生、彼を迎えに行くことにしておりましたが、嫁さんがまだ仕事から帰って来てなくて、それでも「今、谷地だ」30分後には「八幡通過」の返事で納得していた彼の言葉が面白かった・・・笑





 さてさて勢いをそのままに二次会に突入・・・おそらくひとつ唸れば元気回復となるはずと思っていたが、おそるべき回復力・・・笑





 逆にメインゲストの御仁が・・・・笑



 親不孝名物、妖怪睡魔君降臨・・・笑
 決して無理をさせたわけではありませんよ・・・この時間でまだ21時です。


 
 しかるに早々と三次会へ移動して・・・・



 久しぶりにカツ丼をいただく・・・汗


 21時30分、お開きとなり家路に着きました。
 御苦労さまでした。




 余談ですが・・・

 11日は成人式が挙行され、夜の繁華街は新成人で混み合っているものと思っていた。
 しかし、通りには若者の姿はほとんどみえず・・・。
 帰宅する際に20人程のグループが二次会へと向かう姿や、若干、カラオケでの歌声が通りに漏れていた記憶があるが、昔の雰囲気とは随分と違うと感じた。

 タクシーの運転手さん曰く・・・
 最近は、一次会の会場へ親御さんが自家用車で迎えに来て、その多くは帰宅するといった話でもある。
 また、大人の仲間入りをしたとはいえ、親不孝通りに新成人達が流れるというパターンはほとんどないのでは・・・いずれ深夜0時過ぎにひとつのピークとなるかもしれないとのことですが、ほとんど期待できないとの言葉も・・・・これも不景気のせいなのですかね・・・・?
 いずれ、遠野の飲屋さんが混み合っていた成人式の夜といった当時の印象とはだいぶかけ離れていた晩でした。



 
 本日のネネ


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派手好き?

2009-01-09 20:26:19 | その他
 いい歳してますが、衣類や持物が若干派手気味といったイメージがある小生、似合う似合わないは別としても、ついつい歳に合わないだろう色を買ってしまいます。

 決してアッチの趣味はございません・・・笑




 れっきとしたメンズ用です・・・・。

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