「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

BENKIは友達

2007-06-30 10:53:25 | その他
 約2ヶ月にわたる厳しい訓練、29日に全国大会への数少ない切符をかけての県大会が行なわれました。
 残念ながら全国大会へ出場するチーム、選手は今回はありませんでしたが、降雨という過酷な条件ながらも、どのチームにも課せられた状況は同じ、そんな中で、全国へ今一歩という第二位、三位というすばらしい成績を残す個人、チームもおり、そのお祝いと慰労を兼ねた報告会が、某店で開催されました。





 三陸沿岸の新鮮な魚介類料理に定評あるお店



 ぶれんど仲間でも利用、誰かさんがこれを食べたいとリクエストした、牛蒡とアナゴの料理・・・名称を忘れてしまった・・・汗




 3時間程の宴席、30名近い人数が、お開きになった時には半分の数となっていた。
 中には、語らぬ友に抱きつき、顔を突っ込み、ゲーゲー語を駆使して、そのまま同僚に担がれて夢の中での帰宅となった者もいたようです・・・笑






 私も自然の摂理以外に一年に一度は悶絶の世界へいざなわれることがございますが、先輩方にだいぶ鍛えられましたので、お友達といったところまでは今回は至らず、そのまま二次会、三次会へ突入・・・・22時に帰宅すると、嫁さんにはラブコールを送りながらも、またしても26時のご帰還・・・大汗・・・本日も別件でのアルコール摂取予定・・・・今夜もお友達を作る予定は今のところはございません・・・笑


 お口直しに・・・・

 ネネ、この季節ベランダが定番位置
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まぶりっと

2007-06-28 18:54:21 | 遠野
 「おめさんだず、なぬを(何を)、まぶってらのすか」



 う・・・うまい


 ?



 それにしても、ご立派・・・・?
 しし頭君も思わず・・・・笑




 家の中も「まぶってらす」



 彼らが「まぶってら」ものは・・・





 
 今や遠野では、ほとんど見られなくなった伝統的家屋、「南部曲屋」

 昭和40年代頃までは、各地域の集落には、三つ、四つの萱葺屋根や曲屋はあったものですが、こうして観光施設でなければ、みること叶わず、ましてや集落的に見ることは、この遠野ふるさと村でなければ、遠野ではみることはできません。



 ということで、ぶれんど仲間と、企画中の案件についての下見に遠野ふるさと村を訪ねました。
 盛夏のような暑い日、木陰や曲屋の中のひんやり感、たまりませんでした。





 少年時代に還って、思わず口に・・・「うんめっ」の声が響き渡る。



 私個人としては、「まぶりっと」の言い方は、言ったこともないし、聞いた記憶もなかった。
 ただ、子供の頃、祖母や親に、「ねご、まぶってろよ」(猫をみていろよ)とか焚き火なんかを「まぶってろ」とよく言われたものです。

 まぶる・・・とは、監視するとか見守るとかの意味で使ってます。

                   どんどはれ
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夕映え?の福泉寺

2007-06-26 20:17:58 | 福泉寺・伝承等
 天気予報によると雨の一日となるはずだったが、午後から青空も広がり、夕方5時には、東の空が真っ青となったのでオリンパスブルーを求め、隣にある菩提寺福泉寺にて撮影をいたました。


 4月からはじまった塀の工事、ほぼ完了しております。




 青空をバックの五重塔を求めて・・・・


 ちょっと青が足りない・・・既に西に傾く陽を浴びている五重塔


 
 南東の空には月が・・・


 このまま、19時まで待って夕刻の五重塔も悪くないな・・・と考え、ひとり蚊の攻撃を受けながら、ひとりベンチに佇む・・・まさに 夕暮れ時は寂しそう「・・・ぼんやりベンチに座るのか」状態・・・笑







 現代の名匠、菊池恭ニ氏が手がけた福泉寺五重塔、数百年後、誰がこの五重塔の補修やらに携わるのでしょうね・・・いずれ、建てた名匠の名は数百年の後まで語り継がれるのでしょうね、いやっ、千年か・・・凄い・・・。





 本日、お昼を挟んで、romi氏の御宅へ座敷親父さんと共にお邪魔して来た。
 只今企画の遠野ブログ画像展の出展要項を決定、さらに画像展の場所、日時もほぼ決定というところまで、こぎつけました。

 いずれ、後日、出展要項を公開いたしますので、よろしくお願いします。
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史跡・西風館跡

2007-06-25 15:30:38 | 遠野
 母方の叔父から母親を通じて私に伝言があり、西風館跡(綾織町新里)に関する新情報やらわたしに聞きたいこと、さらに話しがしたいので、暇を見つけて家へ来てもらいたいというので、先週土曜日の夕方、叔父宅へお邪魔してきました。

 はて、聞きたいこととは、新情報とは・・・とにかく気になって仕方がなかったので、母親から聞いたその日の夕方には、叔父宅へ車を走らせておりました。

 母親曰く、「道路がどうしたとか、測量がどうかしたとか」・・・とにかく肝心なことがあやふや、車中で何事かと考えながら向かったが、思い当たる節が脳裏に浮かぶ、それもかなり私としては危惧する内容、ひょっとして上郷の篠館跡のように釜石自動車道といいますか、高速道路のルートに選定され、西風館も将来消滅するのでは・・・・この思いが強くなってくる・・・兎にも角にも叔父に会ってみなければ何も分らないが、かなり心配になっておりました。


大根、茄子城と西風館跡の山野



 叔父宅に到着、早速叔父から何やら資料や書類を渡される。 
 ひとつは・・・・「遠野遺産登録申請書」・・・既に代表者が叔父の名で申請済写しの書面。
 どうやら西風館跡を遠野遺産に申請したようでもあり、少し驚きはしましたが、これはすばらしいことであり、よくぞ申請していただいたとの思いが強いものとなりました。

 
 西風館についてこちら 

 さて、肝心な道路や測量の件・・・・

 現在、花巻市東和まで延びている釜石道、さらに宮守鱒沢までのルートも決定され、花巻市境は盛んに工事中でもあります。

 遠野においても、綾織町地内のルートがほぼ選定され、叔父宅の民有地(農地、山林)がその対象となったとかで、西風館跡下の林道(五百羅漢や小友土室に通じる)の下、約50メートル付近がそのルートとか、上郷の篠館跡をみれば、その下方、特に上方の斜面は法面となり、かなり広範囲に道路区域となり、館は破壊され消滅している。

 しかし、西風館の場合、その範囲は、林道の下のみで、その上方は関連しないとのこと、千人掘と伝えられる館背後の空掘や北側斜面に張り付いている5段に渡る帯郭はそのまま残される雰囲気、これを聞いてかなり安堵いたしました。

 これに併せ、叔父が住む地域では、地域の史跡やら名蹟の確認調査が行なわれ、この春、当局から示された遠野遺産認定制度に登録申請をしたという経過です。

 しかし、西風館跡は、実は叔父宅の上方、林道下の山林や農地もその範囲で、私の探訪未踏の箇所には、空掘跡やら地域で伝えられている館に関する場所が残されており、この界隈の遺構、史跡は完全に消滅することになります。


 ここで私の出番ということになりますが、まずは西風館の歴史、時代背景、史跡としての価値、何百年も前から存在したといわれる墓石に関しての見解と情報があったら教えてくれという・・・・・・・。

 語られる歴史関連はそのとおりなのですが、墓石はこの目でみなければなんともいえないし、何よりも叔父が集めた資料、測量会社からこれを参考に勉強中なので、皆さんもどうぞ、と送付された資料が・・・・大汗・・・全て私のHP、ブログでの記事の写し・・・・測量会社も地権者の甥が調べていた歴史サイトとは考えてもいなかったと思います・・・笑


 ところで、新情報といいますか、消える可能性の高い、遺構や口伝の箇所とその他・・・・。

○ 千ヶ掘
  人足千人で掘られた空掘

○ 八幡社
  叔父宅が別当、西風館八幡ともいい、いつからあったのかは不明

○ 八人沢(はちざ)
  八人の武士、郎党が討ち取られた沢

○ 人兵エ揃(じんべいぞろえ)
  中世桝形の一種、雑兵等の人数を入れ、隊を作る場所

○ 源左衛門討死の場所(げんざぺす)
  源左衛門という武士が討ち死にした場所、伝・源左衛門の墓石有り


 ということで、入りやすいとされる「げんざぺす」といわれる墓石のある場所と、「じんぺえぞろえ」といわれる空掘風の遺構を取材して参りました。

げんざぺす


 源左衛門という武士が討ち死にした場所と伝えられ、その墓石と長らく伝承されているそうです。

 源左衛門とは何者か?・・・叔父も色々と調べたそうですが、遂に分らず、当サイトでの附馬牛の火渡玄浄の家臣、大野源左衛門の名を探すのがやっとだつたとかで、大野がここまで逃れてきて、討ち取られた処と無理やり結論付けておりました・・・・笑

 おそらく、弘治年間での西風館夜襲事件で、戦死した西風館の有力家臣の一人ではなかったのか、これが一般的な考えでもありますが、宝徳年間での葛西勢金成政実の家臣の誰かが、敗走中に討たれたとか?・・いずれ不明です。

 それと通説として語られる弘治3年(1557)、葛西勢とされる一団に夜襲を受け、一族壊滅、落城の憂き目となった西風館襲撃事件、これを裏付ける伝承が今も語られ、八人沢といわれる箇所が館跡内に存在するという。
 八人沢(はちざ)とは、八人の武士が討ちとられた、討ち死にした場所とされる。

 語られてきた歴史と符合する現地での口伝があること、貴重な歴史的財産でもあると思いますが、一方では、道路網整備という生活に密接に関連する事項や地域発展が期待できる内容でもありますから、私の立場ではなんともいえませんし、なんともなりません。

 いずれ、どの範囲まで破壊や消滅となるかは不明ながら、地域でもこれらを後世に伝える、残すといった動きが見られたこと、今後も期待できること、これだけでも嬉しい思いがいたしました。


じんべいぞろえ





 おまけ・・・・パネル作成


 企画中の遠野ブログ写真展、展示する写真はどのようにするのか?額や専用のパネルに貼ってお見せするのが一番良いのですが、額ひとつでも安いものでも1千円以上、パネルも1千円前後としますし、規格も統一しなければならないとも思いますし、いずれ少し悩むことも多々あるようです。

 そこで、八戸の藤九郎さんから若干ヒントとなるアドバイスをいただいておりましたが、これを基に実際に作成してみました。



 厚さ10ミリ、大きさ100センチ×100センチの発砲スチロール、カッターナイフ、両面テープ、黒色布ガムテープ、セロハンテープ、定規、黒色紙A3サイズ




 発砲スチロールをA4サイズ用紙より四方2センチずつ余分に切取る。
 さらに黒色の紙を裏側で折り込むように貼り付け、裏側で黒ガムテープで紙を止める。

 裏側


 プリントアウトした写真を表部分、四方の間隔を考慮して両面テープで貼り付ける。 



 両面テープとか、黒色紙、発砲スチロールは購入しましたが、5枚は作成できると思いますから、かなり安く上がると思います。

 改善点も結構ありそうですし、黒色紙は全体に巻きつけるのではなく、発砲スチロールの寸法に合わせて幅3センチ~5センチで切り、真ん中を残して貼り付けるのも良いかもしれません。

 これなら皆さんも作れるものと思います。
 なんたって「てぇんど」の悪い私も不恰好ながらも一応、作れましたから・・・汗
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藩境物語 弐

2007-06-23 16:23:15 | 歴史・民俗
 南部領と伊達領、かつて藩境をめぐっての大小のトラブルが発生、先にご紹介した小友赤坂山金山もそのひとつですが、このような藩境線の確定は、幕府の裁定を受けながら境に塚が築かれて一応の解決をみたのが、寛永19年(1642)とされている。

 しかし、現在の花巻市東和町「覚間沢」と奥州市江刺区「学間沢」のように、自然村落が人為的に寸断された場所も存在し、藩境をめぐる争いは、その後も続いておりました。

 覚間沢(かくまざわ)と学間沢(がくまさわ)


 旧南部領・現花巻市東和町覚間沢



 旧伊達領・現奥州市江刺区学間沢


 東和の覚間沢と江刺の学間沢は、「かくまさわ・がくまざわ」と同音の地名からも分るとおり、本来はひとつの自然村落が人為的に分断されたことが伺えるものと思います。

 南部藩、伊達藩という藩政時代に分断され、現代に至っても岩手県という枠組みの中ではありますが、小中学校の学区、水道、ゴミの収集、税等の違いが定着し、自然村落時代の面影は存在していない。

 さらに藩政時代は、今よりも両地域のコミュニケーションは薄く、近くて遠い存在だったかもしれません。


 寛文11年(1671)近くて遠い隣人関係に大きなトラブルが発生する。

 伊達領の農民が越境して、南部領内に畑を開墾する。
 これをみた南部領の農民は、新開地を荒し、翌年に伊達領に畑を開くも、双方の報復合戦に発展、収拾の付かない事態に発展する。

 延宝8年(1680)、両藩の役人の調査、調停が始まるも、現地での調整は難航、翌9年10月に伊達藩では、幕府の裁定を受け、ようやく解決したといわれる。



 峠上部、向こう側が現奥州市江刺区(伊達領)、手前が現花巻市東和町(南部領)


 

 おまけ・・・

 22日、八戸の藤九郎さんが、遠野の街中の雰囲気を撮りたいと来遠、当方は勤務でお相手できませんでしたが、日帰りの予定が急遽、宿泊されたとかで、翌日、勤務明けと共に合流、短い時間でしたが、遠野を少しご案内いたしました。

 遠野郷八幡宮は未訪問ということで、八幡様へ・・・・。

 八幡様のところのニコちゃんが、出迎えてくれましたが、帰り際、同じ場所でお見送りをしていただきましたが、何を思ったか、猛然と背後の木に登りはじめました。



 藤九郎さんと、面白い画像が撮れると喜んでみてますと、急に辺りが騒がしくなり、雀の二倍はあろうかと思う鳥が来襲、ニコちゃんの回りを激しく威嚇しながら飛び回っている。

 はて?・・・すると木の中程に鳥の巣らしきものがある。
 巣の主の雛鳥でもいるのだろう・・・これに対しての激しい威嚇と攻撃だったと判明。



 ニコちゃんは、激しい攻勢の前に撤退・・・・。
 しかし、余裕の表情でもあり、予てからこの場所を知っていて、日に何度かトライしていた雰囲気が・・・巣の中の雛というより、隙あらば親鳥狙いかもしれません。

 残念ながらバトルの様子は撮れてませんでした。
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6周年&5周年

2007-06-21 18:12:42 | その他
 何を思ったのか、元来内気で積極的ではない性格ながら、どこか心の根底に目立ちたい気持ちがあったのか、好きな分野でアピールしたいと思ったのか、ホームページなるものを立ち上げてみたいと考えたのが、今から6年前の春・・・・試行錯誤しながらも、なんとかページが出来上がり、生まれ育った遠野市松崎町のこと、それも興味があった郷土史分野を主に展開してまいりました。

 ウエブサイト「遠野・松崎じぇんご弐」
 2001年6月21日開設、満6周年を迎えました。

 弐というくらいですから「壱」が実はあって、翌2002年3月から5月までの2ヶ月、諸般の事情で表向きは廃し、実情は休止をしておりまして、再開するにあたり、「弐」として、気持ちも新たに発信してきた経緯がございます。


 また、分家サイトである「奥州虎猫舘」も6月24日で満5年となります。
 主に北奥羽の歴史を扱って参りましたが、最近は「遠野南部氏」関連に固執しすぎながらも、追加、更新が停滞しておりますが、徐々にペースを上げてまいりたいと思います。




 ホームページ立ち上げ当時、遠野では御伽屋さん、座敷親父さん、遠野市綾織町を紹介していた古舘さんのHPが草分け的で、市内発信のHPは、ほんの数える程度でありましたが、その後、HPが急激に増えたというわけではございませんが、今はブログ隆盛時代、その数もみるみるうちに増え続けており、時代の移り変わりを感じます。

 長女が中学2年生であった開設当初、間もなく長女は20歳となり、時の流れもまた感じずにはいられません。


 皆様一人ひとりと心をつなぐ橋・・・・



 ホームページというもので、多くの方々と知り合い、お付合いさせていただいておりますが、疎遠となる部分もあり、なかなか人との繋がりの難しさもございますが、歴史関連で知り合った東京都の稲用さん、八戸の藤九郎さんとは、HP開設当初から親しくお付合いさせていただいております。

 この方々はじめ、多くの方々が関っていただいた当ウエブサイト、地味ながらも今後も展開させて参りますので、よろしくお願いします。




 
 薬師の小さな雫もやがて大河となり、田瀬湖の水を満遍なく湛える力となる、ブログやウエブサイトもこうした力を秘めているものと思いますので、私も得意分野で今後も頑張りたいと思います。
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藩境物語・小友金山(伊達側から)

2007-06-20 21:26:57 | 歴史・民俗
 寛永5年(1628)、八戸から遠野へ入部間もない八戸弥六郎直義が直面した伊達家との対立、その対立構図での最大の事件、小友赤坂山金山紛争を伊達家仙台藩側からみた内容を記述いたします。







 寛永5年3月18日、遠野小友の荒谷にある赤坂山に気仙の小股内膳が来て小屋三つをかけ、金を掘るというので、20日、新谷帯刀が来て追い出した。

 ところが26日同山に再び小屋7つもかけたので、28日にこれを追い出した。

 5月16日、内膳は今度は小屋20ばかりをかけ、有住八日町の肝入、諸親宝蔵院という山伏が同道し、さらに鉄砲50丁、槍等をもって小屋かけをした。

 18日、帯刀が内膳に抗議を申し入れたが、帯刀は「この赤坂山は、前々から幾度と無く申しているとおり、遠野領内であることは明々白々であり、天下にも知られていることであるのに、何故に一度ならずも当領内に小屋をかけるのか・・」

 内膳は「この山に小屋かけをするのは、自分の存意ではない、仙台奉行衆山廻、片倉半助殿の御意であり、帯刀と自分の考えで山を出るものではない、片倉半助殿の指図によるものである」


 遠野方が大いに困惑し、さらに対応に当った新谷帯刀等は、一方では鉄砲50丁を居並べ、槍を携えた気仙側の態度に生きた心地がしなかったともいわれ、これを受けた遠野領主、八戸直義は、盛岡南部家、家老石井伊賀守、石亀七左衛門に書状を送り、仙台上層部が深く関与していると断じている。




 新谷番所跡・・・遠野市小友町

 新谷帯刀・・・本姓菊池
 遠野旧主、阿曾沼広長に仕えた平清水景光(新谷禅門)の次男の出雲といわれ、遠野騒動で一躍遠野盟主となり、後に知行地召し上げ、切腹となった平清水景頼(駿河)は兄とされる。

 平清水姓を捨て、荒谷を名乗っていたが、後に八戸直義の遠野入部に伴い遠野南部家に仕え、新谷番所役人となり、新谷氏は代々番所勤番を勤めた。
 

 違い鷹羽がほとんどの遠野菊池姓にあって、菊池惣領家、嫡流家との位置付けである並び鷹羽の家紋。








 遠野と住田との境、荷沢峠住田側


 小股内膳・・・
 旧葛西臣、小股紺野館の紺野隠岐の次男、紺野大学の長子、紺野内膳ともいわれる。
 南部領との境目の金山を採掘、まさに気仙地方の金山師的な大きな役目を帯びていたらしく、仙台城下にも度々出張し、藩の上役はおろか藩主、伊達政宗にも3度、お目通りを仰せ付かったといわれる。


 宝蔵院・・・
 有住八日町の肝入、本姓を松田と称し、上有住恵蘇の樋ノ口館の松田大隈(千葉氏)の系譜と語られる。
 松田大隈は仙台藩へ仕えたともいわれるが、伝承では、地域の開拓に力を注ぎ上有住に土着帰農したのが真相ともいわれる。


 ブログ「遠野なんだり・かんだり」でも以前、触れられておりましたが、小股内膳の長女は宝蔵院の妻、二女は新谷帯刀の妻で、内膳、宝蔵院、帯刀は義親子、義兄弟の間柄でもある。



 寛永5年10月2日、仙台からの境目検査吏、中条帯刀と大町飛騨が派遣され、赤坂山の境目を見たいとの申し出がされたが、この赤坂山境は、先年、遠野城代、毛馬内左衛門時代に相互に出入り禁止の緩衝地帯とされ、今後、気仙の者にも入らぬように申し付けるので、遠野の者にもそのように申し付けていただきたい・・・が仙台藩の公式回答であった。

 一方、遠野では、内膳が入ったところは緩衝地帯を越えた遠野領内であり、仙台からの御使者がご覧になりたければ、当家の家老に取り次ぎ、許可あればいつでもご覧いただけるが、許可無き場合は見せることはできないとしている。

 仙台側では、ただ強引に見せて欲しいの一点張り、遠野では伊達領、すなわち気仙側から見るのは構わないが、遠野領へ立ち入っての見聞は許可しないと回答している。

 仙台から見聞させろ、南部からはダメだの押し問答がしばらく続き、全面対立との構図であったが、寛永18年(1641)12月3日、仙台藩、川嶋豊前が記した文書が南部側へ送達、気仙赤坂山は、陸奥守領分の者候、峰切に境目申合相立申事・・・これが最終案と示され、双方協議の上、翌19年6月17日より塚を建立し始めるも、新谷番所の源五郎と小股内膳(おそらく内膳の子)が立会い、境目が確定する。

 長らく続いた赤坂山金山、境目争いであるが、結局は、幕府の裁量がものをいい、「公儀所有の金山」であり、豊臣秀吉以来の公有政策の基本を踏襲している内容でもあり、結果的には南部家において管理することで落着したのである。


 気仙との境目の金山は、阿曾沼時代から気仙側から掘り進められ、当時の領主、遠野孫三郎は、伊達家に一応の抗議はすれど、かつては葛西家に誼を通じ、伊達家とも親密な関係強化を望んでいたこと、さらに孫三郎(阿曾沼広長)の妻は気仙世田米の世田米修理広久の娘ということもあって、伊達家の成すがままでもあった。

 気仙から小友赤坂山にかけての大金山は、幕府の裁量が下りた頃には、気仙側によってほぼ掘り尽され、伊達の掘り儲け、南部の掘られ損の結果となったといえよう・・・・。



 おまけ・・・

 国道107号荷沢峠から住田方面に行き、途中から右折、種山高原へ出て、江刺人首へ・・・

 途中の旧江刺市立木細工中学校


 
 時折、映画やテレビのロケ現場にもなるとか・・・・。
 どこか懐かしい校舎、いつかは廃れ崩れてしまうものと思いますが、地域の方々の思い出が詰まり、そしてよそ者の我々にもどこか懐かしさを感じさせるいい雰囲気でもあります。


 人首から国道107号へ・・・・田瀬に寄り道して帰宅いたしました。





田瀬湖
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平田合戦

2007-06-18 20:14:06 | 歴史・民俗
 慶長5年(1600)遠野の政変で、遠野を追われた旧領主、阿曾沼広長の失地回復戦、その一回目の激戦地。(慶長6年)

 気仙郡上有住、平田砦跡(外根岸館)



 合戦の概要は下記の説明板のとおり・・・。




 遠野騒動とも言われ遠野にとっては重要な戦いが、この平田の戦いを含め、赤羽根峠の戦い、樺坂峠の戦いと3度繰り広げられ、結果的には、旧主、阿曾沼広長は敗退、遠野は完全に南部氏の勢力下となった。

 長らく、遠野郷土史界では、平田合戦は、釜石の平田坂での戦いと語られ、通説化していた経緯がありましたが、近年の研究等で、住田町史、陸前高田市史をはじめとする気仙地方の自治体史で、平田の戦いは、ここ気仙郡住田町での戦いであることが、明らかになっている。

 未だに従来の通説を語る遠野の古老もおられますし、ウエブサイト等でも遠野の歴史を紹介する際に引用等しておりますが、住田町内で伝承されていることから、ほぼ平田の戦いは、気仙郡内の平田砦近辺で行なわれた戦いであろう。

 釜石平田説を語る上で、広長率いる気仙勢は支援する伊達勢と合流、さらに広長に協力的な大槌城主、大槌孫八郎広信の軍勢と釜石で合流、千人峠を越えて遠野へ攻め入る予定だったといわれる。

 が、当時、釜石は遠野盟主となった鱒沢左馬助広勝がいち早く狐崎城を把握し、城主の荒谷肥後が守備しており、まずは此処を抜かなければならない、結局、狐崎城は、後に伊達勢の攻撃で落城するが、気仙勢の釜石への侵攻は、伊達政宗の意向が左右しているともいわれますが、失地を早く回復したい阿曾沼広長にとって、遠回りともとれる釜石からの遠野侵攻は、少々無理があるのではないのか、大方語られるように、遠野勢は気仙勢の機先を制すべく、気仙郡世田米へ出陣、平田砦に駆けつけた気仙勢の大将格、浜田喜六の手兵と激戦を繰り広げ、その異変を察知した世田米の気仙勢本隊が駆けつけて、さらに激戦となったものと私は推測しております。


 こちらも更なる検証と調べが必要でもありますが、いずれ平田の戦いは、気仙郡住田町上有住根岸の平田(ひらた)での戦いである。





 おまけ・・・・

 気仙川に架かる木橋






 さらにおまけ・・・

 私も夕焼け画像を求めて少し彷徨いましたが、一応練習ということで・・・・





 夕闇迫る天ヶ森
 
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結団式

2007-06-17 15:08:23 | ファイヤー
 平成17年10月に新遠野市が誕生、消防団に関しては、遠野、宮守の2団制を布いていたが、統合へ向けての準備期間である1年半が経過、平成19年4月1日に遠野、宮守の消防団が統合され、新生遠野市消防団として歩み始めておりますが、その節目に遠野市の安心、安全を担うという崇高な職務に対して、気持ちも新たにさらに踏み出すことを願い、ここに結団式が開催されました。


結団式でのオープニングは、遠野北小学校「薬研太鼓」


 まさに新消防団の船出に相応しい、勇ましい太鼓演奏、私事ながらも、昨年まで末娘も北小で薬研太鼓をしておりましたし、長男も小学生時代にしておりましたので、久しぶりにその演奏を見聞きし、感動で胸が一杯でもありました。


会場は、消防団員、ご来賓の方々で遠野市民センター大ホールは、ほぼ満席でもありました。


 第1部は市民センター大ホールでの式典
 第2部は市街地での分列行進、そして早瀬川緑地公園にての遠野保育園児のアトラクション、遠野市消防団ラッパ隊ドリル演奏、消防団各分団部による一斉放水で結団式は終了となりました。



 宮城県名取市消防団、亘理町消防団の方々、20名弱の視察がありましたが、新生ラッパ隊がそのお目当てかと思います。

 亘理といえば、遠野ぶれんどでもご高名なブロガー「たま千代さん」が思い浮かびますが、亘理から遠野へ・・・たま千代さん以外の亘理の方々がお越になられたということも、これまた嬉しいことでもあります。


 席の奥の方が宮城県からお越しの方々・・・・見え難いですが・・・。


 そのお目当ては・・・・



 消防団ラッパ隊では、日本一といわれる旧宮守消防団ラッパ隊と伝統ある遠野消防団ラッパ隊も統合され、さらなるパワーアップされましたが、その真骨頂であるドリル演奏を披露、会場内外から惜しみない盛大な拍手が寄せられておりました。




 そして、例年は春の消防演習で最後を飾る放水訓練、今年は結団式があるということで消防演習は実施されておりませんでしたが、この場で放水訓練をご披露、初夏の陽射しの中、水のカーテンが出来上がり、こちらも盛大な拍手が贈られておりました。



直上放水


噴霧放水(水幕)


斜め放水

 今回は、向う岸にも放水隊を配置、両岸から放水合戦らしき雰囲気も若干感じられる、すばらしい出来でもありました。

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地域史

2007-06-15 20:37:02 | 遠野
 旧遠野市と旧宮守村が合併して、一年半以上が経過、この4月には消防団も統合され、6月17日に新制遠野市消防団としての結団式が開催されますが、市村合併に関しては、大方統合、合併されて遠野市も新たな歴史を本格的に歩み始めており、後は私個人的には、その地域の全般的な歴史を綴る新遠野市史の刊行を待つのみといったところでもあります。

 
 近年、市内各町では、その地域の歴史、民俗等を紹介する小冊子が刊行され、その地域の町内の全戸へ配布といったことがなされている。




 まさに自分達の住む地域、生まれ育った地域の歴史、伝統、文化等に関して網羅する内容が織り交ぜられ、実に興味深い。
 
 またこれらによって史跡、名勝等の標柱や説明板も整備されつつある地域もあって、地域史を学ぶ、今一度再確認するには、うってつけでもあろう・・・。

 青笹地区で刊行の「ものがたり青笹」は、各集落の家々の屋号が記載され、主だった家々の簡単な由来等も紹介され、どの系統かも一目瞭然、地元でしかわからない内容でこちらも興味深い。




 上記画像は、私の地元、松崎町のもの・・・町内全戸配布された「松崎歴史がたり」と松崎町駒木地区を扱った「駒木」・・・特に「駒木」は、地方史ミニミニ版で歴史、民俗のみならず教育、文化、産業等全般にわたるもので、調査され発刊にこぎつけた著者に敬意を表したい逸作でもあります。


 これら市内各町の地方史的なものは、以前の市町村合併、昭和29年に遠野市が一町七ヶ村の合併で誕生する前の上閉伊郡時代の各村史(誌)によることも大きい、どれも手書きでガリ版刷、後にタイプ等で打ち直してそれらしい小冊子にまとめられているものもありますが、古いというのはその通りながらも、刊行当時に口伝やら地域の伝承として伝えられていたことも記載され、これまた興味深いものがございます。

 特に「定本附馬牛村誌」・・・・



 附馬牛地区のひとつひとつの集落の起源やら古い御宅の記述、特に私が興味深いのは、中世遠野領主である阿曾沼氏の家臣で、各館主の名は語られるも、その館主達の家臣、配下の人々について若干触れられている点、これは見逃せない内容でもあり、まさに地元でしたか、わからない内容かもしれません。

 例えば・・・・火渡館主、火渡玄浄広家
 小倉集落には小倉玄成、荒谷には高木氏、さらに大野氏や桑原氏・・・さらに興味深いのは、その御子孫が現地に健在であったこと、あること・・・これらが伝えられていることが、嬉しい・・・・。



附馬牛町・・・右端の山野は火渡館跡

 

綾織、土淵、附馬牛・・・昭和29年以前の地域史が未だに主であるが、これらの地域も早期に現代版の刊行を期待したい、特に土淵町は、ぶれんど仲間の笛吹童子さんがお持ちの小学校関連の記念誌的に作られた書籍があって、神社等の由緒や位置等も記載されたものがありますが、これらを網羅したものが期待できるかもしれません。


 いずれ、市立図書館には、これらの資料がございますので、自分の住む町以外の地域史、興味のある方々は、どうぞご覧になってもよいかもしれません。
 無論、他にも関連資料はございますので、併せてご覧いただければと思います。
コメント (6)
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