「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

弓道を観る

2009-05-30 20:04:12 | 遠野
本日も盛岡へ・・・・先週から3度の盛岡行き・・・

 ということで、行先はこちら・・・。













 画像の通りの用向きとなりますが、第61回岩手県高等学校総合体育大会、通称「高総体」の弓道の団体予選を観て参りました。
 というより、息子(長男)が弓道部でして、選手として出場ということで、応援に行ってきた次第です。


 高校の3年間、弓道部に所属し、遠野高校弓道部の部長となっておりますが、親として公式大会を観たことがなかった・・・
 応援に行くぞと言えば・・・「来るな」と強く言われ、親が行くと調子でも崩すのかな?・・・と遠慮してましたが、高校生最後の花舞台、隠れて見つからないように今までも行けば良かったかな・・・と反省もありますが、今回だけはどんなことがあっても観に行こうと嫁さんと決めておりました。


 僅か3年で・・・実質は丸2年と少しとなりますが、まずまずの内容・・・・カメラ親父と成り果ててはおりますが、息子が登場の場面、そして正式の大会で初めてみた息子の雄姿・・・・溢れ出る涙でファインダーが見えず・・・・






 大会初日に団体戦の一回目が行われ、遠野高校男子は20射(5人×4射)で12中ということで、33チームの中で8番目の順位だったような・・・?・・・弓道の事は良くは知らないが、まずまずの位置に付けていると関係者が語っていた。
 息子は4射中3中で、まずまずかな?

 そして大会2日目の本日、予選の二回目、上位16チームが翌日に進出し、さらに準々決勝、勝ち残った4チームによる決勝となるようです。
 まずは予選を通過して翌日に残ることが肝心、できればさらに上をと願うのは親ばかりではなく関係者も同じであろう・・・何よりも本人含め選手たちの思いでもあろう・・・。









 ブログ用にと本来はカメラ重視で構えるのですが、イチデジ本領発揮もままならず、撮るよりも観るに専念してしまう、流れでる涙と共に・・・・。

 遠野高校男子は一回目を少し上回る20射中13中、息子は4射中3中で、合計25中となり、我々が帰る頃は11チームが終わって確か3番手に付けていたような?後から登場の残りチームの一回目の成績からすれば、8番目キープもありそうな、ペスト16は叶いそうな雰囲気でもあった。
 

 歴代の遠野高校弓道部は、案外岩手県内でも強豪の部類と記憶していたが、現地で購入した資料によると、男子は第35回(昭和58年度)・第38回(昭和62年)・第50回(平成10年)・第51回(平成11年)の4度岩手県制覇をしている。また、準優勝も3度となっている。

 女子団体は、第25回(昭和48年)・第31回(昭和54年)・第36回(昭和59年)・第48回(平成8年)と4度の優勝経験を有する。
 また準優勝は3度となっている。
 
 さらに個人戦の優勝は男子3名、女子4名を輩出。

 ちなみに遠野緑峰高校、当時は遠野農高で第27回大会(昭和50年)に準優勝している。(男子団体)

 遠野の弓道界、思った以上の実績がありますね・・・・






 ちょっと前、何気なく地元ラジオ放送を聴いていたら、岩手県弓道界のトップの方が出演され、岩手県の弓道について話されていた。
 その中で高校生レベルでの底上げだったか、強化という内容だったと記憶してますが、弓道の場合、ほとんどが高校生になってから始めるといったことで、スタートラインが皆一緒、私的に思えば他の武道、剣道や空手は小さい頃から始める環境があってスポーツ少年団、中学校と継続していればある程度の実力や実績は伴い、途中から始める人達との差がある程度開いている現実があると思います。
 
 息子は中学生の頃は剣道をしておりましたが、高校に入ってから弓道をはじめておりますし、県内の高校生ほとんどが同様かと思います。
 いずれ、大人になっても続けて行けそうな弓道、本人しだいですが、なんとか継続してもらいたいと思いますね・・・・。


 最終日は勤務の為、応援叶わず・・・最終日が面白そうな内容でもありますが、全く以て残念です・・・・
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食うも喰ったり・盛岡冷麺

2009-05-28 19:18:52 | その他
 まずは花っこでも・・・・。




 さて、盛岡冷麺好きを一応公言しておりますが、過去エントリーに「盛岡冷麺狂想曲」と題して、盛岡冷麺の食べ歩きレポートといいますか、小生が食べた盛岡冷麺の画像紹介をしたことがあり、また、遠野市外に出かけた折に食べた冷麺の数々も時々紹介ということもありましたが、そこで今まで食べました盛岡冷麺一挙公開・・・笑・・・いわゆる中間報告的に画像を主にご紹介したいと思います。


☆食道園・・・盛岡市大通

 言わずと知れた元祖盛岡冷麺・・・美味い



☆焼肉盛楼閣・・・盛岡市駅前(東口)

 人気店です。・・・これも美味い



☆焼肉ヤマト・・・盛岡市内はじめ岩手県内等支店多数

 小生が今まで食べた冷麺の回数ではダントツの数・・・これまた美味い



☆やまなかや・・・盛岡市内はじめ岩手県内等支店多数

 クセがなく食べやすい盛岡冷麺・・・これもまた美味い



☆髭・・・盛岡市つなぎ

 通もうなる美味い盛岡冷麺・・・かなり美味い



☆大門・・・花巻市・盛岡市

 バランス抜群の美味しい冷麺・・・これは美味いですよ



☆もりしげ・・・盛岡市東仙北

 トロミある濃厚スープにモチモチ麺、他とは一味違います。通も唸るとか。



☆三千里・・・岩手郡雫石町、他に盛岡市内に支店

 手作り感が伝わる美味しい冷麺・・・確かに美味い

雫石ドライブイン


盛岡大通支店




☆盛岡さくら亭・・・盛岡市菜園

 上品な味わい、究極の盛岡冷麺ともいわれる。




☆肉の米内・・・盛岡市紺屋町

 しっかりとしたスープ、流石精肉店の味、これも確かに美味い。




番外編

○遠野食道園・・・新穀町

 ボリュームは何処にも負けません。飲むとたまに食べたくなります。



○とらねこ手作りインスタント

 トッピングは自由、不味くはない・・・思い込みならこれが一番美味いといえる・・・笑。




 ということで、これは中間報告的な内容で、まだまだ盛岡冷麺の有名処の画像アップ等していないお店も存在しておりますので、続編も今後ご期待というところです。
 

 思ったより食べてないな、と思う方々も多いと思いますが、複数回食べたお店が多数であることを御承知願います。
 自分的には、食いも喰ったりという思いなんですがね・・・
 
 今や盛岡のみならず岩手を代表するグルメといった盛岡冷麺、是非に岩手にお越しの際は、盛岡冷麺をお試しください。
 



 おまけ・・・・

 
 かっこいい猛禽類・・・・鳶




 
 かっこいい猫科、虎のようにといきたいところですが・・・・汗







 寝るの一番・・・



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ふりかけ最高 (・ω・)bグッ

2009-05-27 19:00:01 | 思いで
 夕方に自宅周りの草刈作業を行う、大した面積ではないが久し振りということで、たいへん疲れた・・・・。
 一番風呂に入って汗を流し、普段はしない晩酌ながら本日は350缶を1本いただくも、どうも食欲がイマイチ・・・。

 こんな時は、これに限る・・・・




 ふりかけである。
 特に「のりたま」は少年の頃から食べ親しんだ変わらぬ味、熱いご飯にタップリと・・・・食欲のない朝、おかずがちょっと・・・という時はこれに限る・・・。


 丸美屋の「のりたま」
 1960年(昭和35年)発売・・・なんか誰かさんと同じ年輪を重ねているような・・・汗
 「のりたま」は商標登録されているれっきとした名称、他社は同じような商品でも「のりたま」の使用はできないという。
 「のりたまご」とか「たまご」という類似名で対抗しているようですが、やはり「のりたま」の名は不滅でもあるようです。
 親父になった今でも美味しいと思ってますから・・・・笑


 さらに画像では「味道楽」・・・こちらも丸美屋のふりかけ・・・これもなかなか美味い、できればもうひとつ「すきやき」というふりかけがあるが、これも揃えておきたいところです・・・笑
 
 子供の頃、おかずがなくてもふりかけで美味しく食べた記憶、親父になっても忘れられぬ味で今も大好きである。


 しかし何かおかずが欲しいということで、ワラビの煮付け・・・。
 これも最近ほぼ毎日食べている・・・






 そういえば昔、ふりかけにエイトマンのおまけシールが付いておりました。
 家を建て替える前まで10数枚あったような・・・はて・・・?・・・何処に仕舞ったのだろう・・・・

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網張へ

2009-05-25 19:50:54 | 思いで
 本日も藩都、不来方の藩立養療所へ・・・・。

 用向きが終わると、何を思ったか車を雫石方面へと走らせていたが、若き頃の思い出多き、雫石町の網張にでもドライブと久しぶりに洒落こみました(お洒落な内容ではないのですが・・・汗)


かつての小岩井有料道路料金所があったところ(第一の料金所)



 小岩井農場を過ぎ、しばらく走ると第二の料金所がありましたが・・・その場所




 小岩井農場から網張温泉スキー場までの間に料金所は確か3箇所あったと記憶してますが、第3の料金所は昔の岩手高原スキー場(ペンション村入口)付近にあったと思う、しかし料金を支払うのは最初の2箇所だけだったような・・・・。


 ということで、網張スキー場は当時、岩手山麓国民休暇村と呼ばれた宿泊施設でしたが、現在は休暇村岩手網張温泉というらしい。
 この施設に幼馴染で同級生が就職しており、この同級生を訪ねて時折、網張に遊びに行っておりました。
 また、やはり小生と遠戚で松崎町駒木出身で一つ上の女性も勤務していて行きやすい環境ではあったのです。
 他に遠野出身の方々が数名居りました。

 実は当初はスキーではなく、冬以外の季節に遊びに行っていたのですが、間もなくスキーにハマって毎冬通うことになります。

 小岩井有料道路利用は往復の料金がかかるのですが、小岩井農場と雫石スキー場との間に一般道路があって、こちらを利用すればお金がかからずも、スキー場があるという環境で大雪地帯、当時FR車の愛車では行き着けずという事態もあって、行きは有料道路、帰りは一般道としておりました。

 その後、いつ頃からですかね、1980年代後半?には有料道路が廃止になりました。



御神坂駐車場


 同級生を訪ねて網張へ行く際、少し時間的に早いという場面もあって、その際は途中の御神坂駐車場で昼寝をしたり、カーラジオを聴いて時間調整をしておりました。・・・冬は駐車場が雪で埋まって入れず・・・。

 また、今の職業での初任教育で長期研修中に矢巾町の南昌山と岩手山登山がカリキュラムに組まれており、岩手山は滝沢村の馬返しから登り、下山は此処御神坂口へと下りて来て、何度か昼寝をしていた場所と判ると何故か妙に恥ずかしくなったりして・・・笑

 その思い出のひとつも、今から3年程前(平成18年夏)に岩手山からもの凄い土石流が発生、駐車場はもちろん、道路を寸断、さらに下方へも甚大な被害に見舞われた。




 さて、高原道路といいますか、爽やかな風や新緑の景色に触れながら進むと・・・・



 岩手高原スキー場

 以前はもう少し先に岩手高原スキー場があったのですが、以前のスキー場は今はコースに木々が生い茂り、僅かに廃れて錆びたリフト等の残骸が草の中に埋もれている状態でもありました。(画像なし)

 岩手山は半分雲に隠れてましたが、徐々にその姿を現しはじめておりました。



休暇村、網張温泉館(別館)



 当初の建物で小生が通っていた頃は別館と呼ばれていた。
 古い建物ながらも趣があって特に温泉は昔ながらの雰囲気で最高であった。
 白濁色で強い硫黄の匂いが、なんとも効きそうな温泉という思いにさせたのが此処の湯っこでもありました。

 増改築等がなされたみたいで外観上は当時の雰囲気とは違っておりました。



 こちらは本館



 こちらも何やら遊歩道みたいなものが作られておりました。
 なんでも山中の露天風呂等に行く道とか・・・。



休暇村網張温泉本館


 

網張スキー場




 岩手山登山用のリフトの稼働点検中か?こちらからのコースが一番手強い岩手山ルートだったはず・・・?



上部のスキーコース


 向って左端のコースがスラロームパーン・・最大斜度37度、スキーに夢中だった頃は、不整地でなかなか厄介なコースでした。

 隣2つは白樺スロープ、最大斜度28度、適宜な斜度があって、よく滑ったコースでもありました。

 今は怖くて滑れないものと思われます。



休暇村本館とスキーハウス


 手前のスキーハウスは木造の山小屋風でした。


網張からは秋田駒?が間近にみえる。



 折角来たのだから温泉を堪能したいところですが、やはりサウナ付という小生自身のスタイルがあって、止めにしました。
 また同級生は未だに此処の施設の職員として頑張っていたはず、しかし数年前もそうでしたが、彼の休みは月曜日だったと記憶しており、また仕事中にお邪魔しても迷惑だろうと判断して帰途に着きました。

 途中に網張温泉ありね山荘という施設がありましたが、こちらもパス・・・しかし帰宅してから調べますとサウナもあるとか…失敗しました・・・汗・・・次回の候補としたいと思います。




 
 本日のランチ・・・。

 スキー場通い往復の道路沿いながら一度も入店したことがありませんでしたが、意を決して本日入店。




 盛岡市内の支店には一度入ったことがありましたが、支店の味が小生好みでなかなかでしたので期待大といったところ・・・。







 やはり美味い・・・
 小生好みのスープ、そして辛味のキムチ・・・これもクセになりそうな盛岡冷麺・・・美味い。 




 小岩井界隈といえば・・・・

 誰が呼んだか、名付けたか?・・・・笑

 
 ひとよんで・・・○づくり村・・・大汗




 白い恋人達も炎の如く・・・・



 最後の締めがこれでは・・・・

 秀峰岩手山も許してくださるはず・・・ようやくその全貌が見えました。




 雫石町長山辺りから・・・。
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津軽工藤氏と根城南部氏

2009-05-24 14:26:19 | 歴史関連コラム?
 小生の母方の姓、工藤・・・その昔、八戸から根城南部氏すなわち八戸氏、後に遠野南部氏と共に遠野へ来たといわれ、遠野南部家の下級家臣でもあった。
 大叔父や叔父によると本家筋の工藤氏があって、家老加判を代々勤める重臣の家柄とのことで、寛永11年諸士の俸禄によれば、工藤与四郎(勘々由)2百石であると推測される。
 また、後に本家は失火で屋敷を全焼させたということで、一時上士から平士に格下げの処分をされたと伝えられ、所伝でも大身の工藤氏の屋敷全焼の事が語られているので、おそらく間違いないものであろう・・・。

 ただどの時点で分家となったものか、或いは八戸時代から既に分家であったものかは本格的な調べに至らず不明となっているも下の画像、母方祖父が先祖3百年として建てた墓碑があり、やはり遠野へ来てからか?




 ということで、遠野での工藤一族に関しては、今後徐々に調べを進め、然るべき時に本格的に調べたいと思っておりますが、まずは机上での調べということで、年代はかなり遡りますが、北奥羽における工藤氏とその主筋となる八戸根城南部氏(遠野南部氏)との関係等について考察してみたいと思います。

 まずは根城南部氏と最も関係が深いとされる津軽工藤氏関連から・・・




 これは、津軽黒石(青森県黒石市)に所領を持つ工藤右衛門尉貞行が万が一を考え、生前に嫡女であった加伊寿御前に所領や職を譲るとした内容である。
 工藤貞行は津軽黒石の政所職であり、津軽田舎郡、山辺郡の他に常陸や鎌倉にも知行地を持ち、さらに伊具郡(宮城県)内の村等の代官職を持つ武家であった。




 工藤貞行は、鎌倉幕府、北条氏の御内人であったが鎌倉北条氏が後醍醐天皇による倒幕により滅亡、これにより北奥羽各地の北条方残党が建武親政に抵抗すると工藤貞行は、陸奥守北畠顕家に従い合戦奉行として津軽の北条方鎮圧に功があって、津軽山辺郡二想志郷の内は合戦での勲功として拝領、他に田舎郡の内に所領をあるが、女子の加伊寿御前に記述の2ヶ所を譲るとした内容で、男子が出生した際に、改めて配分するとの内容である。


○工藤右衛門尉貞行・・・生年没年不詳
 津軽田舎郡黒石郷を中心に活躍、元亨2年(1322)安藤一族の乱があり、鎌倉からの鎮撫軍が派遣され、正中2年(1325)には鎌倉御家人の工藤左衛門尉祐貞が派遣、現地の工藤貞行も鎌倉方として活躍したといわれる。
 後に鎌倉幕府が滅亡、北奥羽の工藤一族の多くは北条方として抵抗する中、宮方の南部師行(一応遠野南部氏先祖・伝、八戸根城南部氏第4代)と共に北条残党の鎮圧に戦功をあげ、北畠顕家配下として名を刻む。
 その没年は不明とされるが、延元3年(1338)足利尊氏討伐の北畠顕家に従い、西上の軍の人となるも北畠顕家、南部師行と共に泉州(大阪府)で足利軍に敗れ戦死ともいわれる。

 子に男子はなく、女子5人と伝えられ、嫡女は加伊寿御前、その妹に福寿御前の名がみられる。

 貞行は伊豆の工藤祐経(曽我兄弟の仇討事件)の子孫ともいわれ、祐経の子、祐時(犬房丸)が陸奥に下向との伝説もあり(八戸)、その末裔と考察される書籍も存在するも真意は不明、鎌倉時代、青森県八戸やその周辺地域にも工藤一族の足跡が確認でき、鎌倉幕府滅亡後の北条方後人の中にも多数の工藤氏が含まれている。

 そんな中、何故に津軽の工藤貞行は所領を安堵され、建武親政下で宮方として活躍したのだろう・・・北奥羽検断職として下向した南部師行、政長兄弟との縁、これによる何かあったものだろうか?




 目谷郷、野尻郷は工藤右衛門尉祐貞法師の所領であったが、鎌倉幕府滅亡によりこれを祐貞から没収、北条方残党鎮撫の勲功として工藤中務右衛門尉貞行に与えるという内容である。







 尼しれんより娘加伊寿御前への譲状
 工藤貞行の妻、後家である「しれん」から南部殿(南部信政・政長の子)に嫁いだ娘、加伊寿御前に黒石の所領を永代に譲り渡すという内容である。
 工藤貞行は、いずれの所領も後家が一生の間、領有し一期の後は女子供と計って譲り、特に黒石は所領の中心地なので、これらを持ち続ける才覚ある者に譲るべしとしていた。
 南部信政(根城南部家第6代)の妻となっていた娘加伊寿御前の器量を認めて永代に譲り子々孫々まで与えるとしている。
 ただし、石名坂(黒石の一部)は志があって加伊寿の妹、福寿御前に譲るとしている。
 加伊寿御前には女ながらも惣領として他の妹も見守っていくように、またこの書状は「しれん」の自筆で、他の者が譲状があると言っても用いてはならないとしている。

 譲状の興国4年は武家方の曽我一族が攻勢に転じ宮方(南朝)の南部氏が守る糠部郡内に攻め入り、曽我勢が敗退した翌年といわれ、南朝方であった黒石工藤氏は後家である尼しれんが家をよくまとめ所領を守った女丈夫とも伝えられております。
 
※一期(一期分・いちごぶん)
 婦女子に譲る土地等をその婦女子の一生の間だけという期限付きで、後は惣領に帰属するとしたもの。





 興国4年に貞行の後家しれんが、娘加伊寿御前に黒石の所領の一期後は譲り渡すと譲状を与えたが、加伊寿御前と夫南部殿の間に生まれた孫、力寿丸に改めて所領を譲り渡すとした内容である。
 この譲りに関しては他の子供達は違論を唱えてはならないとし、ただし、女子については少しずつ一生涯のうち譲るというもので、このことは譲証文に記してあるので守るようにとしている。
 さらに自筆であり、自筆以外は用いてはならないとある。


※力寿丸は、後の南部信光(八戸根城南部代7代)





※ 一五とありますが十五の間違い


 祖父工藤貞行の遺領を祖母である「しれん」から一期の後に所領が南部信光に譲られたが、南朝方鎮守府将軍である北畠顕信(顕家の弟)から所領として安堵された内容である。







 北奥羽南朝方として、北奥羽の地を北朝方から守り通していた南部惣領、南部政長(八戸根城南部家第5代)が孫である南部信光には八戸を、その弟の政光には七戸を譲るとする内容で七戸に関しては半分を加伊寿御前に一期として与えるとしている。
 八戸、七戸いずれも政長が勲功によって拝領した土地であるとしている。



○加伊寿御前
 幼名を数子といい長じて加伊寿といわれ、黒石工藤氏、工藤右衛門尉貞行の嫡女。
 陸奥国糠部郡に居た南部政長の子、信政に嫁ぎ南部信光、政光を生んだ母である。
 一説には夫とされるのは信政ではなくその父親である政長であるという考察もあるが、いずれ南部殿と称される南部惣領家に嫁いだのは史実とみられる。



 まとめ

 根城南部氏に関わる伝承に南部の押し掛け婿というものがあるそうだ。
 南部弥六郎義長という若者が八戸の工藤氏の館を占拠して工藤氏の未亡人を脅して無理やり娘の婿となったものとか、実は以前からこの内容を書籍等で引用したりして紹介していた経緯がありますが、ホントのところ、直接何かを詳しい方々から聴いたわけではない。
 また天正年間に甲州から逃れた南部一族があり、やはり八戸工藤氏の館を占拠し、そのまま三戸南部、南部晴政の承認を得て八戸氏となったというもの・・・等がありますが、ここは遠野南部家文書にあるとおりとすれば、津軽工藤氏、工藤貞行からの系譜につながる関係とみてもよさそうである。

 御家しれんから南部信光へ、母加伊寿御前から信光へ、加伊寿御前の妹達の一期分も後に惣領へ・・・すなわち南部信光、政光兄弟へ津軽工藤氏の所領はそのまま引き継がれたとみるべきで、津軽工藤氏は根城南部氏の中に取り込まれていったものと解釈でき、これがもとで八戸南部氏が大きな基盤を得ることができ、さらに津軽工藤氏に連なる一族の協力によって勢力拡大が出来たものと思われる。

 津軽、糠部郡(岩手県北から青森東南部)さらには秋田仙北郡の一部は八戸根城南部氏の所領があったところであり、その中でも津軽に関しては工藤氏との縁によるものが大であるのは史料によっても明らかであるも、後の室町中期以降、どのような過程を経て三戸南部氏(後の盛岡南部氏)へ勢力移行がなされたのか未だに疑問が残るのも事実でもあります。

 いずれ、まずは工藤氏と八戸氏という内容で徐々に調べを進め、八戸や津軽地方での郷土資料閲覧等で再確認をし、さらには盛岡南部の工藤氏、やがて北奥羽全体の工藤氏の足跡を少しでも解ければと思うところです。
 肝心な遠野での工藤氏は小生の勇気と実行力があれば、ある程度は解明できるのですが・・・・このことはその時期がきましたらいずれまたということで・・・・。

                  参考引用図書 八戸根城南部家文書




 午後2時過ぎから休憩をいれながら、午後6時・・・アップ作業が随分とかかってしまいました・・・・


関連ブログ・・・こちら 

Force Dragon の 【 男 の 流 儀 】様
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久々の!ドンキー

2009-05-22 18:29:37 | その他
 先週に続いて本日も不来方城下の藩立病院へ・・・。

 ということで、昼食は今回も盛岡冷麺となりかけたが、国道4号線を走っていると大手外食チェーン店の「び○○○ド○○ー」の看板が・・・・。
 懐かしい・・・子供達が小さい頃はよく利用しておりましたが、久々に食べてみようかな・・・ということで車を滑り込ませる。

 また、若い頃は盛岡市大通りにチェーン展開する以前、すなわち前身のお店があって、盛岡、すなわち岩手県がこの大手外食チェーン店の原点ということですが一度だけ入店してことがありました。
 店内に牛の頭蓋骨と角が飾ってあった記憶が・・・・。
 
 

 
 ということで・・・
 久々に食べた「ハンバーグディッシュ300グラム」・・・若いお父さんをしていた頃は300グラムなんて足りないくらいでしたが、やはり親父年代となりますと少しきつかった・・・でも美味いんですよね、これが・・・笑・・・小生は好きです。





 メインのランチでは少し足りないかもとサラダをチョイス、しかし、サラダは一人では食べれなかった・・・汗





 以前、社会をお騒がせした某新興宗教団体が名称を変えた際に、このチェーン展開している店舗を運営する会社名と混同するような名称となった記憶があるが、これによりかなりの迷惑を被ったとか?無論、両者は全く無関係である。






 他のサイトやブログの記事をそのままコピーし、コメント欄に貼り付ける行為が続いております。
 また同一人物と思われますが、意味不明の短いコメントを投稿という行為もあり、しばらく記事へのコメント投稿は管理者の承認制といたします。
 コメントの書き込み、投稿はできますが、反映されるまでにしばらく時間がかかる場面もございますので、ご了承願います。

 いずれ、このような行為が他の遠野ブログにも現れているようですが、なんと寂しいことか・・・

 
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田んぽ

2009-05-20 16:05:23 | 遠野
 本日も朝から晴れ渡り、田植えも佳境といったところですが、ご近所の水田をチラッと見渡すと「キャーキャー・・」と賑やかな光景が・・・




 女子の中学生か高校生らしき一団が・・・・この辺の生徒達とは違う様子・・・。
 早速、現場に立ち寄り画像取材・・・汗




 どうやら中学生の修学旅行らしく、そのうちのひとつ農業体験らしい・・・。

 
 田植機械の体験乗車と軽トラックからの苗運びが主な仕事内容のようだっ。



 内容はともかく、まずはご苦労さまでした・・・



 さて、本題を当初「遠野工藤氏と八戸(遠野南部)氏・壱」としておりましたが、本題の打ち込み作業中、水鏡な夕景撮影に小1時間ほど出かけておりまして、帰宅後に本題の続きとなるはずも、時折やらかすのですが、ミスをしてしまい続きがオジャン・・・

 よって歴史関連はまたの機会にご紹介したいと思います・・・。


 でっ、今夕撮影した画像は・・・・












 拡大画像はこちら

遠野発信・MAYAKUSYAず!


荒神様の田圃、まだ田植えしてませんでした・・・。
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晩春歌

2009-05-19 16:56:25 | 遠野
 強風が吹き荒れた昨日であったが、明番となった本日は早朝より青空が広がり無風な状態、これは水鏡な風景撮影にはもってこいの日和だと喜んでおりましたが、家路に着く頃には風が出てきて、しかも案外強い風が吹いている・・・。

 そこでここ数年タイミングを逃しばなしの菩提寺福泉寺のツツジでも散歩がてら撮りに行こうということで早速出かけてみる。
 しかし・・・今年もどうやらツツジの盛期を完全に逃してしまったようだ・・・汗
 ツツジに関しては下部に続きを記載・・・。






 
 ふと、目にした天ヶ森・・・・これは・・・行くしかあるまい・・・ということで・・・・










 今時期おなじみのトオヌップな風景・・・高清水より


松崎、土淵方面



 まだ水が引かれていない田圃やら休耕田も目立ちますが・・・



 土淵町の五日市は基盤整備中



八幡方面



遠野駅周辺



薬研渕



田植中・・・光興寺




 続き・・・・

 福泉寺は春の桜、そしてツツジの名所でもありますが、タイミングを見計らっている間にツツジは盛期を過ぎ、いやっ、既に終わりかけといった具合でした・・・汗
 見頃は先週の中頃だったようでして、当方、今時期限定の水鏡な風景ばかりに気をとられ、さらに至近の場所柄故にいつでも行けるという安易な思いがあって、そんなことしているうちにタイミングを外してしまったといういつもの調子になってしまいました・・・







 福泉寺のツツジの一番の見所箇所がこの状態・・・涙・・・遅かった・・。













 遠足の保育園児達に会う・・・「誰かきた~」「カメラマンだっ」「新聞記者だっ」との声が聞こえる・・・笑
 プロガーですと言いたかったが、なんのことはわからないだろうし、説明も必要なので「ご苦労さん、がんばれよ」と声をかける。

 昔お世話になった先生も何人か引率されていて、久し振りのご挨拶・・・末の子供がお世話いただいてから早9年の歳月が、長女がお世話になった先生もおりましたから、もう15年以上ということになりますかね・・・。
 
 ということで、何処の保育園の皆様だったのか聞きそびれました・・・笑






 いずれ、来年はタイミングよく福泉寺のツツジを撮りたいと思います・・・。




 おまけ・・・

 資料を入手









 遠野市内全ての遺跡の一覧及び地図が示されている。
 遺跡等491箇所、無論小生の範疇である城館跡も記載されており、何よりも地図に示されているのがありがたい・・・。
 これだけの数、作られた方々に敬意を表したいと思いますが、城館跡に関しては一部、把握されていないのか空白の部分があったり、記載されていない城館跡もあるようです。
 それでもこういった資料が世に出るという事はありがたいですし、改めまして作成された関係者に御礼申し上げます。


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じゃっこ喰いの宴・瀬ざっこ

2009-05-17 18:55:09 | 遠野
 春の遠野、桜の季節が終盤を迎え、田圃での本格的な農作業がはじまりますと、遠野のひとつの風物詩、「瀬ざっこ」の季節となります。
 
 産卵の為に浅瀬によるクギ(うぐい)漁のことで、浅瀬に石で瀬をかけ、産卵で集まった瀬クギ(せっくぎ)を投網でとる漁で、川原には投網が掛けられ、瀬の場所近くには漁をする方達の休憩用(簡易宿泊)のテントが目につきます。




 漁期は5月1日~6月末までとのことで、市内では観光施設をはじめとして、川原で新鮮な瀬ざっこの炭火焼きを楽しむことができます。(観光用の瀬ざっこまつりは5月31日まで)
 
 川原の光景と共に春から初夏にかけての遠野の風物誌ともなっております。



 さて、16日夕方、末娘の運動会を終え慌ただしく買出し等に出かけ、なんとか予定されている時間に現地到着・・・・。




 松崎町の某所川原・・・

 御覧のようなテントが設置され、川漁に備える休憩施設兼仲間達と酒宴を行うことができるスペースが確保されている。
 無論、2~3名用の就寝スペース付きである。


内部・・・


 モンゴルのゲルにも似た造り、見た目よりしっかりと建てられており内部空間も思っていたより広い・・・。


 この日は、嫁さんの知人が権利を持つ瀬での「じゃっこ喰い」。
 10日程前から予定されており、我家族、嫁さんの実家及び義妹家族、小生の長男とその友人、そして瀬の持主ご夫妻に漁に関わる嫁さんの親類・・・総勢14名となりましたが、内部はそれでも少し余裕がありました。



 準備された瀬ざっこ



 シーズン初めの漁果はあまり芳しくなく、しかも水田の代掻き作業で河川に泥水が流れ込み、各河川は濁った状態とかで、漁は振るわないそうである。
 それでもなんとか市内の観光施設に納める分を確保し、規格外のものを主に今回の宴用に確保できたとのことで、川漁の苦労が伺われます。


 ということながらも小生は魚はダメということ、また魚ばかりだと皆さん飽きるのではと考え、ジンギスカンを準備する。


 ジンギスカンバケツ



 何処に仕舞っておいたか行方知れずの我家のジンギスカン鍋はなんとか発見するも、例のジンギスカンバケツは我家には無いということで、慌ててホームセンターにて購入。


 遠野ジンギスカンスタイル・・・笑



 笑・・・我家のジンギスカン鍋は一回り小さかったようで、バケツの中に落ち込みそうな雰囲気・・・汗・・・箸を渡して事なきを得る・・・。

 
 隙間から小さな炎がこぼれる・・・幻想的に写してみました・・・笑




 
 さて、メインのざっこの方は・・・・。







 いい感じに焼け、皆さん美味そうに食べていたようです。
 我長男、小生と同じであまり魚介類は食べませんが、淡水魚の炭火焼きは食べるんです。
 今回は3尾食べたとか・・・・。




 関係された皆様、お世話になりました。
 愉しい宴、ありがとうございました。

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ラスト運動会

2009-05-16 22:21:08 | その他
 末娘の義務教育最後の運動会、そして十数年に及ぶ父兄としての最後の運動会、ようやく解放されたという思いと少し寂しい思いが交差する・・・。




















 お楽しみの昼食



 運動会最後の昼食、子供が出る競技や出し物も印象深いも、やはり親子で食べる昼食、これが楽しみでありじっくり噛みしめて味わう、長女、長男、そして二女・・・・いつ何を食べたかは記憶はないが、いつもこんな感じだったのだろう・・・・。


 やはり寂しいですね・・・父兄会イコール地域活動といったことも小生自身には少しありましたし、同級生や地域の後輩達とのふれあいの場といったこともありましたからね・・・・。



 おまけ



 役員の皆様・・・笑




 ご苦労さまでした。
 後はよろしく頼みます・・・笑
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