「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

新生遠野

2005-09-29 21:25:50 | 遠野
 お断り・・29日掲載予定の猿ヶ石川松崎縦断は、添付画像の関係で取りやめました。なお、画像に関しては、本編サイト掲示板「じぇんごたれ広場」に掲載いたしました。

 さて、市村合併も秒読み段階、新生遠野市が誕生いたします。
 皆さんそれぞれ期待と不安もおありと思いますが、特に宮守の皆様には不安や寂しさもひとしおということかもしれません。
 私自身は職場関連においても、宮守は管内という位置付けでもありますし、なんら違和感もございません。
 また、歴史という分野からみても遠野郷という共通の歴史、文化を共有していた地域との思いもございますので、こちらもあらためて何かを感じるというものではございません。
 しかし、それでも固有の歴史等も歩まれた経緯もあり、双方の歴史文化も尊重しつつ、今後、ひとつとなって発展していきたい、これが希望でもあります。

 画像は遠野市街地・・・鍋倉城址から

 遠野南部氏居城、鍋倉城の探訪を行いました。阿曽沼氏が統治した遠野郷、その後、阿曽沼氏没落後は盛岡(三戸)南部家による統治、そして八戸から八戸氏(遠野南部家)が転封され、遠野(宮守の一部含む)を治めました。
 明治維新後、遠野郷各地の村々はそれぞれの道を歩むことになりますが、遠野南部家、そして以前の阿曽沼氏時代以来、またひとつに結ばれる、歴史的意義も何かしら感じられることでもあります。
 今後は遠野郷として地域づくり、発展を期待したいと思います。(無論、私も頑張ります。)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿ヶ石川紀行

2005-09-28 17:59:17 | 遠野
 9月26日、職場関連の飲会が夕方から「まぢ・(街)」であって、不幸にも「まっちゃさ・(街に)」に連れて行っていただく術がなく・・(妻は会議やらで遅く、バスは適当な時間のものがない)・・・よって、何を思ったのか、松崎町を縦断している自転車道を歩いていぐべ、カメラも首から提げて、途中の景色でもブログ用にでも撮りながらいぐべと考え付き、午後2時45分、自宅を出発いたしました。
 普通に県道や農免道を使えば、街までおおよそ6キロ強、歩きでは1時間半といったところ、しかし、車が走る道路を使いますと、「おしょすくて・(恥ずかしくて)」・・通る車の運転手さんは顔見知りがいたり、私を知っている方々も多いと思われ何を後でいわれるか、たまったものではない。「宮洞の息子、あるいでらっけ」「車壊したんだべが」「今流行のウォーキングだべが」「歩いて健康管理するんだば、百姓して汗流せばいがべがな・・」等、馬鹿に見られる傾向があるんです。

 ということで、猿ヶ石川沿いの自転車道をひた歩きましたが、爽やかな秋空、空気も清々しく、記憶の猿ヶ石川と今現在の猿ヶ石川を比べたり、懐かしく景色がそれほど変わらなく感じられたり、なかなか自分にとっては有意義でもありました。
 駒木と松崎の境「まったづ橋・(真立橋)」から県道自転車道、遠野・東和線に入り、時間にして約1時間45分かけて大工町と早瀬町の境、早瀬川と猿ヶ石川の合流点、落ち合いに到着いたしました。

 
 画像は早瀬川・猿ヶ石川合流点、落合での画像
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とら猫三代3

2005-09-26 09:39:17 | 
三代目とら猫・ネネ(雄・ニューハーフ?)

 9月は、ことのほか我家の猫達に関わる因縁の月といいますか、生死に関わる出来事がある月でもあります。
 初代とら猫ニャキ・・・
 同じ地区内に住む知人宅から貰い受けたのが2001年12月、ニャキのあっぱねご(親猫)は外来種系が混じっており、少し毛並みがフワッとした子猫であったニャキをいただいてきた。以来少し沈んでいた我家の雰囲気を和ませるアイドル的存在で、同時期に生まれた隣のお宅に飼われていた雄猫と度々抗争を繰り返し、一進一退の縄張り争いに明け暮れていた。
 2003年9月27日、夕刻、遠野発信のサイトの管理人さん達と遠野を訪れていた来訪者の歓迎会を市街地のとあるお店で開催していたが、途中でニャキ交通事故死の知らせを受け、早々と宴席を早退して家路に急いだ記憶がございます。
 変わり果てた愛猫、いい親父ですが涙いたしました。一週間後、テレビ東京から遠野の猫(ポチたま)というコーナーにてニャキを取材したいとの連絡をいただいた。時既に遅し、事情を話して取材をお断りしましたが、同年10月17日、隣のボス猫との抗争をストーリー化して取材が行われ、ニャキの墓前もテレビに映し出された。
 ニャキは享年2歳、菩提寺福泉寺本堂近くの我家の歴代の犬、猫達が眠る場所に葬られ永遠の眠りについております。

 二代目とら猫・ゾロ
 ニャキの死から一ヶ月、家の中が少しぽっかりと穴が開いたような雰囲気、末娘の落胆は激しく、心なしか元気もないっ、そこでニャキの実家に折りよく子猫が生まれているとの情報を入手、茶系の虎猫、チンチラ系、そしてニャキと似た毛並みの虎猫、迷わずグレー系の虎猫の雄を貰い受けた。ニャキとは同じ親から生まれたいわば兄弟猫でもあり、少し強よそうな名前、ゾロと名づけた。
 なかなかわんぱくで食欲も旺盛、さらに外への感心が強く、一歳になる頃には身体も大きく、凛々しい若猫という感じでもありましたが、隣のボス猫には歯が立たず、いつも追い掛け回される始末、2004年9月8日、居間に粗相をしたということで、嫁さんにこっぴどく叱られて外へ出されると、すぐにボス猫に追い掛け回され、それっきり帰ることはなかった。

 3代目とら猫・ネネ
 2004年10月末、猫はもう飼わないと家族で話し合ったが、嫁さんの知人宅に虎猫系の子猫が居るとの情報、雌猫であるということで、雌ならば家からそうは簡単に出ないだろうという思いにて貰い受けてきた。雌ということでネネと名づけて可愛がった。歴代の猫達よりは大人しい感じで顔立ちは可愛い、雌もいいもんだと思いきや、成長と共に雄猫と判明、しかも徐々にわんばくぶりを発揮、障子は穴だらけ、柱も傷だらけ、嫁さんも自分が貰ってきた手前、ひどく叱り付けることもないっ、誕生日が分からないので9月23日を誕生日に決めて、この間高いカル缶を買ってきて誕生日を祝った。
 ニャキは虎模様が薄くなりだし、白っぽい毛並みに変化、ゾロは逆にグレーから黒が強くなりだして虎模様も見えなくなりだした。ネネは成長と共に虎模様がはっきりとしてきた。まさに虎猫である。
 ということで猫馬鹿一家と思われるかもしれないが、今や猫も家族の一員、大事に育てて長生きしてもらいたい、いやっさせたい。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とら猫三代2

2005-09-26 08:54:21 | 
二代目とら猫・ゾロ(雄)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とら猫三代

2005-09-26 08:53:02 | 
初代とら猫・・ニャキ(雄)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縁の地

2005-09-25 21:46:30 | 歴史・民俗
 台風の影響か、雨脚も強くなったり、さらに肌寒い一日・・世間では連休でもあり、この週末は田んぼで稲刈りの光景がみられると思っていたが、自然には逆らえないこでもあり、まずは充電といつたところですかね・・。

 さて、遠野との縁・・・日本各地のみならず海外とも交流を続けられている遠野、そのひとつは1982年、サレルノ国際映画祭グランプリに輝いた映画遠野物語の縁によりイタリアのサレルノ市と交流事業が継続されている。この交流が対外的な交流事業の走りかとは思いますが、その後、菊池姓が縁で熊本県菊池市、宮崎県西米良村との交流も盛んである。特に菊池市は個人的にも訪ねた経緯もありますし、行政主体ながらも民間にも波及した形でもあり、今後の発展も楽しみでもある。
 さらに東京都三鷹市、武蔵野市・・・等・・とにかく交流事業は、盛んといってもよいかもしれません。

 逆に八戸市を除けば歴史的つながりがある地域との交流は、今の所、形として見えるものは少ない、その例としては栃木県佐野市、佐野市は中世遠野領主、阿曽沼氏発祥の地、本貫地でもあるが、八戸市や菊池市との交流に比べれば皆無に等しいと思われます。また、各集落等、個人にあってもそれなりに縁の地が存在もするがこれらいずれも遠野市全体の交流対象とするには難しいと思われますし、対応もたいへんであろう・・・。
 ただここで言いたいのは、何かしら日本各地に赴く際に、もし時間がありましたら、遠野と縁ある史跡なり、場所を訪ねてみてはいかがでしょうか。岩手、或いは遠野と何も関係ないと思っていたところに遠野の文字がある、岩手の文字がある、これはなんとも言いようの無い安心感、懐かしさを感じられることでもあります。
 私が訪ねた全国各地の縁の地、史跡等は、現地の方々に守られ、花が手向けられ、清掃も行き届いているところがかなりありました。この心、歴史的つながりも併せてすばらしいと感じられることでもあります。

画像は大阪府堺市石津の南部師行公供養等・・・
大阪方面の拙サイト掲載記事はこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津つづき

2005-09-23 11:14:56 | その他
画像は現在の会津若松市・鶴ヶ城(復元)
東北三大名城・・・盛岡城・会津鶴ヶ城・白河城とされております。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津士魂

2005-09-23 11:10:45 | その他
「兵食弾薬尽き、かつ寒波加わり、人民一層塗炭の苦しみを憂い、降参した。戦いは時の運である。今日の場合進退を官軍に任せ、多くの人民を救いしは大勇の至すところである。識者は必ず感嘆するであろう。嗚呼人傑おおきかな」
 西軍大垣藩が敵会津藩を称えた言葉

 旧暦9月22日(新暦に直すと10月8日?)は、戊辰戦争での最大の山場、会津藩が降伏開城した日であります。
 幕末、戊辰戦争を通じ会津藩では3千の命が失われ、まさに藩の存亡をかけた戦いを強いられる結果となりました。
 幕末という時の流れが大きく揺らいだ時代、当時の日本という枠組みの中央に関わっていた会津藩はまさに幕末維新という時代のウネリの真っ只中にいたため、否応なしにその渦に巻き込まれ、最後は朝敵の矢面にたって悲惨な道を辿ることになります。
 「ならぬことは、ならぬ・・」会津藩の頑な性格を現した言葉であるが、薩長といった新政府側の維新、これが、ならぬものはならぬ・・と言わしめたのだろうか・・・詳しくは拙サイト「奥州虎猫舘・一山百文」にて戊辰戦争に触れられればと思います。
 画像は、約一ヶ月にも及ぶ篭城戦、会津鶴ヶ城は西軍による一日千発以上の砲弾を浴び、優雅な美しい城はボロボロ状態、それでも頑として城を守りつづけた名城でもあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月見の宴

2005-09-20 19:00:23 | その他
 日中の暑さも和らぎ、体感的にも秋をしっかりと感じ取れる季節となりましたが、遠野まつりの余韻がまだ残る雰囲気はあるものの、間もなく本格的に稲刈りがはじまり、秋本番を迎えます。
 
 さて、本日の話題は18日(日)、遠野まつり最終日、会場を八幡宮境内に移して盛大に行われたと聞き及びますが、私もちょっと八幡様にでも行こうと思うも、この日、我家での年中行事のひとつが夕方から行われることになっていて、その買物やら下準備もあって祭り見物どころではなかったのが現状でもありました。
 そう18日は中秋の名月、十五夜で毎年十五夜では福泉寺、隣の食堂(今淵氏)そして我家の三軒でひとつの宗教行事、いやっ伝承行事の一環として執り行う月見会が恒例でもあります。
 場所は福泉寺庫裏、月がみえる場所に小さな祭壇を設け、すすきに団子を供え、各自手を合わせるも、この日、雲行きが怪しく月が出ていない・・気分は少し萎えてはいるが、持ち寄った料理、飲物で大いに語り合う・・・今回、月見の宴での話題は遠野まつりについて、そして地元駒木しし踊り、さらにグリーンツーリズム等、けっこうむずかしい話も出たが最後は、食堂のご主人夫婦の新婚時代の話で大いに盛り上がってお開きとなった。

画像は、月見会が終了、家路に付く際にみえたお月さん・・・

福泉寺関連では、10月の秋の大祭(17日)、11月後半のごし(忘年会)と続きます。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠野祭り17日編

2005-09-17 21:26:30 | 遠野
 遠野郷しし踊り・・・元祖駒木踊りの随行人兼交通整理担当として遠野祭り、市街地パレードに関わった。
 私が地元駒木しし踊りに関わったのは小学生時代の六年間と昨年での随行役、そして今年の八幡宮祭礼とこの17日の遠野まつりでのパレードが本格的なものである。
 例年は防火みこしに関わっていたが、今年は地元の郷土芸能に付きっきり・・・例年だと神輿団体は早めのパレード開始、しし踊りは最後の方でもあって、なかなか関わりがないといいますか、観る事も滅多にない・・・しかし、遠野の祭りは、しし踊りがなければ話にならない、また南部ばやしもなければ絵にならない・・・改めて感じた次第でもあります。
 特に今回は駒木以外のしし踊り団体との違い、これをじっくり観察することができた・・・はっきりいって駒木しし踊りは下手である・・また一般人を引き付ける雰囲気は持ち合わせていない・・と感じた。
 が・・・しかし・・・何度か昔の駒木を知っているという方々に声をかけられ、お花まで頂戴した・・駒木は元祖である、あのゆったりとした動きで踊るのは並大抵ではない、元祖由縁の踊りであろう・・・と解説までいただいた方もあった。
 とかく他団体は軽快なテンポ、躍動感あふれる踊り・・これは人々を魅了するものだろう・・伝えられた後にそれぞれアレンジを加えて独自に発展した史実もあろう・・・・これらを否定するつもりは毛頭無い、しかし、元祖、掛川の文字をあたかも自分達に伝えられたもののように表示していることには、駒木しし踊りに精通していない身ながら、少し憤慨もした・・・それぞれの団体にはそれなりの歴史もあり、言い伝えもあろう・・これらを無視するものでもないし否定するものでもない、しかし、人々が楽しんでくれればいい、魅了すればいい、誉められればいい・・自分達の踊りに誇りを持っている・・これでもいいだろう・・・自分的には俄然何かの血が騒いだ一日でもあった。
 昨年あたり、駒木しし踊りの歴史を本格的に調べて、サイトへ掲載すること、これがひとつの懸案でもあったが、今年後半は、この駒木しし踊りを中心に遠野郷のしし踊りを詳しく調べてみたい・・当然ながら遠州掛川・・静岡県にも現地取材を敢行、遠野郷しし踊りの歴史、謂れをかなり詳しく掲載したい・・そんな思いが込み上げてきた・・・。

画像は・・
日中に行われた郷土芸能パレードでの駒木しし踊り、総勢70名を越す大所帯で、踊りはイマイチでも壮観である。
さらに夜の部・・演目、柱かがり「はっしゃかがり」
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする