お断り・・29日掲載予定の猿ヶ石川松崎縦断は、添付画像の関係で取りやめました。なお、画像に関しては、本編サイト掲示板「じぇんごたれ広場」に掲載いたしました。
さて、市村合併も秒読み段階、新生遠野市が誕生いたします。
皆さんそれぞれ期待と不安もおありと思いますが、特に宮守の皆様には不安や寂しさもひとしおということかもしれません。
私自身は職場関連においても、宮守は管内という位置付けでもありますし、なんら違和感もございません。
また、歴史という分野からみても遠野郷という共通の歴史、文化を共有していた地域との思いもございますので、こちらもあらためて何かを感じるというものではございません。
しかし、それでも固有の歴史等も歩まれた経緯もあり、双方の歴史文化も尊重しつつ、今後、ひとつとなって発展していきたい、これが希望でもあります。
画像は遠野市街地・・・鍋倉城址から
遠野南部氏居城、鍋倉城の探訪を行いました。阿曽沼氏が統治した遠野郷、その後、阿曽沼氏没落後は盛岡(三戸)南部家による統治、そして八戸から八戸氏(遠野南部家)が転封され、遠野(宮守の一部含む)を治めました。
明治維新後、遠野郷各地の村々はそれぞれの道を歩むことになりますが、遠野南部家、そして以前の阿曽沼氏時代以来、またひとつに結ばれる、歴史的意義も何かしら感じられることでもあります。
今後は遠野郷として地域づくり、発展を期待したいと思います。(無論、私も頑張ります。)
さて、市村合併も秒読み段階、新生遠野市が誕生いたします。
皆さんそれぞれ期待と不安もおありと思いますが、特に宮守の皆様には不安や寂しさもひとしおということかもしれません。
私自身は職場関連においても、宮守は管内という位置付けでもありますし、なんら違和感もございません。
また、歴史という分野からみても遠野郷という共通の歴史、文化を共有していた地域との思いもございますので、こちらもあらためて何かを感じるというものではございません。
しかし、それでも固有の歴史等も歩まれた経緯もあり、双方の歴史文化も尊重しつつ、今後、ひとつとなって発展していきたい、これが希望でもあります。
画像は遠野市街地・・・鍋倉城址から
遠野南部氏居城、鍋倉城の探訪を行いました。阿曽沼氏が統治した遠野郷、その後、阿曽沼氏没落後は盛岡(三戸)南部家による統治、そして八戸から八戸氏(遠野南部家)が転封され、遠野(宮守の一部含む)を治めました。
明治維新後、遠野郷各地の村々はそれぞれの道を歩むことになりますが、遠野南部家、そして以前の阿曽沼氏時代以来、またひとつに結ばれる、歴史的意義も何かしら感じられることでもあります。
今後は遠野郷として地域づくり、発展を期待したいと思います。(無論、私も頑張ります。)