「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

大原新右衛門

2007-08-31 21:02:36 | 歴史・民俗
 遠野阿曾沼旧臣第参弾、葛西氏旧臣といわれる大原氏に関してご紹介いたします。

 遠野における曹洞宗の触頭とされる常堅寺の開基に関る人物として大原弾正勝行の名が示されているが、ぶれんど仲間であり、当ブログでリンクいただいております「遠野なんだり、かんだり」 管理人の笛吹童子さんも度々ご紹介しておりますが、最近のエントリーで常堅寺に行かれたとかで、何か情報を入手した雰囲気があって、電話にてお願いしたところ、大原弾正勝行のお墓を確認したとのことで、その画像を送っていただいたところですが、どうしても直接見たくて、雨が本格的に降る前の早朝、訪ねて参りまして、私も画像を撮ってきました。




 遠野における曹洞宗触頭蓮峰山常堅寺・・・土淵町土淵蓮池
 河童狛犬や近くのカッパ淵も有名である。




 大原弾正勝行公の墓所は、墓地の西側、歴代住職が眠られている墓所の隣にあった。
 観光客の振りをしてカッパ淵に行く程度で、お寺さんそのものを訪ねるといったことや、ましてや地域の檀家さんの墓地を行くことは、皆無であり、ノーマークでもありました。
 20年も前に整備されていたこと、はじめて知りました。






 ●墓誌並由緒




 「葛西家臣、大原氏」

 大原城主(山吹城)大原氏は、奥州千葉一族の雄族で、代々大原(一関市大東町大原)にあって、東磐井東山の旗頭であったという。
 明応7年(1498)大原伯耆守は奥州探題大崎氏の内紛(薄衣状)では、気仙の世田米氏、遠野鱒沢氏と共に反大崎探題派として出陣している。

 墓誌にある享禄元年(1528)千葉信広は、大原飛騨守信広のことで、上記の大原伯耆守と同一人物と思われ、他に気仙郡矢作で気仙千葉氏と争い、大原氏においては高名な武将として知られている。

 また天正18年10月10日15歳、大原重光とは、大原飛騨守重光で大原千葉氏最後の当主といわれ、天正19年(1591)大崎、葛西一揆に関る深谷合戦で討死とも語られるも不明な点もある。
 然るに大原氏は葛西惣領家と共に奥州仕置にて没落したのは間違いないことであるが、墓誌にある大原弾正勝行は、飛騨守重光の弟ということになろうか?寛永3年44歳とあるように、天正18年まで逆算すれば・・・天正18年は勝行は8歳ということになります。


 ●大原新右衛門

 大原新右衛門は遠野においては、大原弾正勝行と解されている。
 
 慶長19年(1614)大坂冬の陣において、徳川方に属した太守南部利直の旗下として南部勢として出陣した遠野軍152人のうち、大原新右衛門13人と記されている。
 遠野軍全体の総指揮者は上野九右衛門といわれますが、実際の指揮は大原新右衛門が執ったのではと考察されている。
 大原新右衛門は葛西氏旧臣で東山七騎の1人と称され、当時としては高名人とされ、南部利直から8百石を給された大身であるも後に7百石減じられたとも伝えられ、減封になった経緯は伝えられていない。

 また、後に大原氏がどうなったかは伝えられておらず、今後、地元伝承等の発掘等も視野に入れなければと思いますし、盛岡南部藩士の家系等もさらに詳しく調べなければと思うところです。


 高名とされる大原新右衛門、弾正勝行と同一人物と解されますが、それほど文武に長けた大原新右衛門こと弾正勝行、天正末期の葛西氏の没落後に他の葛西旧臣達のように仮に遠野に来たとするならば、先に述べたように元服前の10歳前後の少年、出目としては誇り高き家とも考えられるも、遠野に至ってから高名になったものだろうか?
 後の展開も気になるも、出目もしかりその事績も謎を秘め興味ある人物であるのは確かなことでもあります。


 追記・・・
 
 笛吹童子さんは既に新情報を掴んでいるかもしれない、今後ご教授を賜りながら精進して参りたいと思っております。

 それにしても8月も終わり、正に秋9月の始まりでもあり、公私共にイベント等が控え充実しているといえば聞こえはいいですが、少し忙しい9月となりそうです。
 
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遠野家ノ次第・栃内氏、高屋氏

2007-08-30 21:24:52 | 歴史・民俗
 遠野阿曾沼旧臣壱として、前回エントリーしましたが、続編たる弐に葛西旧臣であった阿曾沼旧臣を掲載予定でしたが、追々小出しにご紹介することに変更いたします。


 今回は、南部藩関連資料において、南部家以前の旧主に係る内容が記され、さらに数ある資料の中でも、最も古い記録ともいわれる「奥南落穂集」(花巻市史)遠野家ノ次第に散見される遠野阿曾沼氏旧臣についての記載いたします。

「栃内氏」

 遠野郷土史関連では、江刺支族、栃内村の栃内館主である栃内兵部善兵衛の名が語られております。
 善兵衛は盲目の兵法者ともいわれますが、地域の軍馬育成に尽力し、典厩と名乗ったとも呼ばれたともいわれます。
 綾織の西風館落城後に主家より西風館を賜り、西風館典厩ともいわれるようですが、その後の足取りは語られておりません。

 
 奥南落穂集には・・・

 江刺支族、栃内勾當慶都、天正18年江刺没落の時、遠野に来りて潜居、広郷憐れみ扶持す。
 栃内小左衛門広重 仕利直公百石
 栃内善兵衛 和賀一揆加勢
 他に栃内善右衛門

 
 参考諸家系図には・・・
 奥南落穂集とほぼ同内容が記されているが、勾當慶都江刺族120石
 善兵衛、盲人也、江刺某の次男也、遠野栃内村に住す。岩崎陣討死
 小左衛門茂広、慶長年中栃内村に百石(仕利直公)
 藤五郎広任、仕重直公、郡山に住す。


 これらを考察するに、栃内氏は、葛西氏没落により江刺氏も没落となり、遠野へ至り、阿曾沼広郷に仕えるも、阿曾沼広長の時の政変で、鱒沢方となったことにより、その恩賞として南部利直より旧領を安堵されたものと解釈される。
 小左衛門とされる広重(茂広)が嫡家を継ぎ広重或いは子の広任は後に遠野を離れるも南部藩士としてその系譜が伝えられたものと思われます。

 栃内氏は弘治年間の西風館落城に何かしら関ったと考察などもされているが、葛西氏没落後(天正末期)に遠野へ来たものと思われます。
 盲目の兵法者、遠野騒動での遠野方の盲目の軍師は、栃内善兵衛その人ではなかったのか、慶長5年の和賀稗貫一揆加勢で戦死の栃内善兵衛とは、善兵衛の次男、善右衛門か?、それとも兵部とは善右衛門で子が小左衛門と善兵衛なのか、少し不明な点もあるも、大方このような流れではなかったのかと推測しております。




 遠野との境、江刺郡要衝、人首城跡(奥州市江刺区米里)



 「高屋氏」

 高屋氏は、下野国の阿曾沼広綱が源頼朝から、遠野を賜り地頭代として重臣の宇夫方広房を派遣した際に、広綱の信任が厚かった高屋八郎を随伴させての遠野下向だったと語られ、以来高屋氏は遠野にあったのだろうという推測と共にその子孫の名は高屋四郎左衛門とも記され、逆にその事績は不明といった謎の部分も見られる内容でもあります。

 宇夫方氏系図には宇夫方儀綱(南北朝後期の人か)の女が高屋弥三郎の室とあるも、これもまた詳細は不明。


 奥南落穂集には・・・

 高屋左近則政、江刺臣天正18年来、文禄3年卒
 高屋四郎左衛門恒延、左近子、仕利直公50石
 高屋才六則之、左近弟、仕利直公
 他、恒方・恒方・則房・・・・。




 駒木前野からみた松崎方面。
 遠野へ下向した宇夫方広房と高屋八郎は最初に駒木に落ち着いたといわれる。
 新城建設の適地探しを主な仕事としていたとも語られ、時代は違えど、またその景色もかなり違うと思いますが、物見山や高清水といった山々は当時と変らずといったところかと思います。(19.8.30)



 しかるに参考諸家系図では・・・

 高屋左近則政、天正18年、江刺重恒の子、彦三郎に従い深谷にて死す。
 則政の子、四郎左衛門恒延には玄蕃恒忠、恒氏、恒次の三子有。

 玄蕃恒忠は下川原氏、恒氏は遠野八戸氏家臣及川氏継承、恒次は仙台家臣


 しかし、則政は天正19年遠野に住す。
 四郎左衛門恒延は寛永2年に稗貫郡内に50石を給され、南部藩士の家系でもあるようです。
 さらにその兄弟か子では、遠野八戸家臣の中津山氏、及川氏を継承したのではと思われる名もあり、高屋氏の系譜はその後も遠野と縁があったようでもあります。

 
 高屋氏は天正年間に葛西領から遠野へ来た江刺旧臣であるのは、間違いないものと思われ、何故に宇夫方氏と共に下野から随伴してきたと語られているのだろう。

 遠野南部家臣、及川氏や中津山氏、さらに下川原氏といわれる家との関り等、その関連で高屋氏は宇夫方氏との関り深き家として扱われたのだろうか、阿曾沼興廃記や阿曾沼家乗という古書は、宇夫方氏末裔によりまとめられたこともあり、その関係なのだろうか?

 いずれ難解なことでもあり、その解明は不可能に近いかもしれませんが、何かしらの痕跡等を探し出せたらと思っております。




 遠野阿曾沼氏居城・・・横田城跡




 おまけ


 野暮用で急遽、北上へ出かけてきた。
 お昼時は過ぎていたが、無性に盛岡冷麺が食べたくなり、しかも朝食、昼食抜きだったのでビビンバセットを頼んでしまった。



 最近、「スッケ」冷麺ばかり食べていたが、久しぶりの盛岡冷麺、やはり美味い、しかも私的には好みの冷麺であり、大満足であった。
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阿曾沼旧臣・壱

2007-08-28 21:20:05 | 歴史・民俗
 慶長6年、阿曾沼広長(遠野孫三郎)の気仙落ちで阿曾沼氏は遠野盟主の座を追われ、遠野阿曾沼氏時代が終焉、南部太守、南部利直がより深く関りをもちながらも、遠野郷は、阿曾沼一族或いは旧臣の鱒沢氏、上野氏、平清水氏が大封を得て、彼らを主に統治がはじまる。

 さらに鱒沢氏、平清水氏、上野氏が相次いで没落となり、南部利直は毛馬内三左衛門直次を遠野城代と成し、南部家による本格統治がはじまることになります。

 この阿曾沼氏没落により、寛永4年の八戸根城の八戸弥六郎直義が遠野へ移封されるまで、さらに八戸直義の遠野入部前後、阿曾沼遺臣の多くが没落し、遠野を離散していったかのような雰囲気がございますが、資料等を調べてみますと主要な旧臣、遺臣達は、南部利直に采地を賜り、名を残した者、遠野領主八戸家に新規に召抱えられた者と、多くの遺臣達が没落したとは言いがたい内容でもあるようです。



 本宿館跡(西館)・・・土淵町

 本宿氏は、老之丞家久の時に気仙郡より遠野へ移住。
 遠野孫次郎(阿曾沼広郷)に仕え、本宿村を給る。
 慶長6年、南部利直より8百石を賜り、閉伊郡惣司。
 家久の子、因幡家重の時に150石、家重の子、家治の時に八戸氏遠野入部に際し、岩手郡大釜に80石を給され、遠野を後にしたとされる。

 他に三戸(盛岡)南部家に仕えた旧臣達は・・・・

 駒木氏・細越氏・内城氏・菊池氏・宮森氏・上野氏・山口氏(火渡)・栃内氏・平原氏・畑中氏・高屋氏・新谷氏・下川原氏・・・等

 遠野南部氏(八戸氏)に仕えた旧臣・・・

 末崎氏・欠上氏・男澤氏・菊池氏・板沢氏・宇夫方氏・・・等



 八幡館・・・松崎町駒木(海上)館主・駒木豊前

 駒木氏もまた南部利直に封地500石を安堵され、後に子の隼人広三の時に350石にて、遠野を去る。
 一族の中には遠野八戸家に仕えた家も確認できる。


 ということで、各家の詳細は、後日に弐として掲載予定です。









 天正年中、阿曾沼広郷により光興寺の横田城(護摩堂館)が鍋倉山に移され、その際に城下町も移されたといわれます。
 広郷は主家への権力集中を目指したともいわれ、有力家臣の多くを城下町に移住させ、画像の石倉丁はその屋敷跡が多く存在した場所ともいわれます。

 私は、信長公記にある遠野孫次郎が白鷹を安土へ贈った際に、信長の統治体制を聞き及び、このことにて主城を移したのではないのか、鍋倉城の築城は、織田信長との接触を図った天正7年以降だったものと考えております。


 弐では葛西旧臣にして遠野家士(阿曾沼氏家臣)だった諸氏について、掲載予定です。
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間もなく遠野ブログ画像展

2007-08-27 19:59:27 | 遠野
 遠野ぶれんどによる企画、「原風景にみる現風景・遠野ブログ画像展」が来月8日から24日までの約2週間、遠野ふるさと村、肝煎の家土蔵特設会場にて開催されます。

 これにともなって7月の企画立ち上げ時から約1ヶ月半、各ブロガーさん達に画像出展の呼びかけ及び募集を行なってましたが、今月25日に応募を締め切りました。
 ただし、遠方からの応募やら、プリンターの調子が悪い、忙しくて応募したいのになかなか関っている暇がない・・・等、遅れるという事由を伝えている方々に関しては、数日の猶予も認めているようでもあります。

 私が代表のお宅にお邪魔した25日の午前、私を含む10名程のブロガーさんから既に画像が届けられておりましたが、その日の午後に数点、さらに本日も若干届けられたものと思います。 
 最終的には、20ブロガー40点はなんとしても確保したいところでもあります。




 遠野ふるさと村(遠野市附馬牛町)肝煎りの家




 画像展が開催予定の肝煎の家隣接の土蔵


 土蔵の内部



 今週中に一度、集まった画像をパネルに入れる作業、会場設営の段取り、各自の役割等を決めなければならないものと思われます。
 遠野在の遠野ぶれんど仲間に召集がかかるものと思いますので、ご協力をお願いします。

 さらに来週には、会場設営の作業も開始されると思いますが、平日の日中ということで、限られた方々による準備作業になるものと思われますが、こちらもご協力、よろしくお願いします。


 いずれにしましても、間もなく開催、多くの皆様にご覧になっていただきたいですし、遠野を発信するブログの数々、こちらも応援含めまして、よろしくお願いします。



 おまけ・・・

 家のネネ、一歳の頃。



 この画像も画像展出展の候補でもありましたが、あまり自分という個人に固執しすぎると判断して、候補から外しました。

 そして最近のネネ



 寝るのが仕事です・・・・笑
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オアシス(水光園)

2007-08-25 16:50:06 | 湯っこ・鉄道・旅・・・
 明番の日、帰宅するとまずは画像展に出展する画像を持って某社へ・・・・。

 社長さん自ら草刈機械で環境整備作業中・・・笑・・・すぐ終るので事務所で休んでいてくれ・・・ということで、皆さんから寄せられた画像の数々を鑑賞する。

 今の段階ではノーコメント・・・笑

 作業を終えた社長さんと、少し歓談、すると職場から呼び出しの携帯がはいって、やむなく職場へ・・・・非番ながらもお昼過ぎまで拘束されてしまった。




 残暑といえば、残暑なのかもしれません、少し汗ばむ気候、しかし、吹く風が心地良く、初秋といった雰囲気も十分感じ取れる一日、確か附馬牛町の菅原神社のお祭り時期、今日は宵宮か?、また日本有数な花火大会、秋田県大曲の花火大会が本日、知り合いも家族で出掛けたようで、遠野からも割りと沢山の方々が行かれたかもしれません。

 さらに長男の通う遠野高校では鍋城祭、その前夜祭といいますか、メインイベントなのかもしれませんが、遠野高OBでシンガーソングライター船越由佳さんのコンサートが行なわれるとか、そして明日はジンギスカンを2時間余り食べ続ける、じんぎすかんマラソンが行なわれます・・・・笑・・・訂正。
 
 マラソン大会・・・じんぎすかんマラソンという名称です。・・・謝


 ということで、午前中の拘束で、予定が立たなくなったといいますか、疲れのピークを感じたので、自分自身のオアシス、さらに市民のオアシスでもある「たかむろ水光園」のお風呂にて、汗を流し、リフレッシュして参りました。



 お風呂に向かう、長い廊下で 何故だか急に君は立ち止まり
  振り向き様に 俺にタオル見せて 楽しいそうに誘った・・・笑

 誰か、続きをどうぞ・・・・・。






 準天然トロン温泉、低温トロンサウナ完備・・・・人工温泉ながらもなかなか良いお湯加減、土曜日の午後であったが、一時期、私独りの時間有り、その隙に画像を撮りました・・・汗


 その源は・・・・



 遠野市小友町でしか採れない貴重な天然石なそうです。

 全国の健康ランド、銭湯でも導入されているところもあるそうで、湯っこ通には、少しは知られる存在でもあるようです。

 貴方のオアシスのひとつに加えてみては、いかがですか?
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なんでも鑑定団

2007-08-23 19:18:46 | 書籍
 久しぶりに夕焼けハンター6号の出動体制を整えていると、母親が「小屋のもの、とのげでけろ、いもへられねじぇ」と小言をいただく・・・・涙

「とのげろ」と「へられね」・・・・わかりますか?・・・笑


 ということで、夕焼けは我家の庭先から一枚・・・。




 間もなく暗くなりだす頃、今日の仕事にはならないと思うも、一応、小屋に積まれてあるダンボール2、3個を物置に移動・・・。

 今月に庭のアスファルト舗装工事をしたが、その際に物置小屋を釣り上げて一時的に移動、物置の中味を半分程小屋に移動してからの作業で舗装工事が終っても物置にあった物を戻していなかった為に小言を喰らったということですが、僅かなダンボールを移動させた際に、本が入った埃だらけのダンボールを発見。



 数を数えたわけでもないが、概ね50冊位は入っているものか、おもむろに一冊手に取ると・・・・・古ぼけた漫画というか絵本・・・・。

 「講談社絵本」と書かれてある。



 表紙が破れかかったもの、はげているものも中には存在しているようだが、古ぼけているだけで、原型はしっかりとしている。

 桃太郎、金太郎、浦島太郎、花咲爺さん・・・といった童話モノから、歴史上偉人、武将といったところが主であるが、一部、軍事関連の内容もみられる。



 のらくろはご存知といったところ、山中鹿之助なんていうのは、なかなか渋いといいますか、戦国通にはたまらない武将でもあります。
 さらにヒットラー・・?・・・まさに第二次世界大戦勃発に係るドイツとの三国同盟の影響か?・・・・昭和の初めの匂いがいたします。



 実は、この絵本の存在は今から18年前に家を建替えるときに目にしておりました。
 亡き親父が幼少の頃、愛読した絵本とのこと、中の一冊には昭和8年刊行の文字が・・・・いずれ戦前、戦中に作られた絵本であろう・・・。




 全部を紹介するつもりが日没の為、断念、またの機会にリクエストがございましたら、画像に収めてご紹介しても構いません・・・笑


 テレビで「なんでもお宝鑑定団」なるものがございますが、我家には無縁と思ってましたが、値は張らずとも、いいものが残されていること、少しだけ嬉しく思いました。


 おっと・・・一応、秘密の場所に再移動させております・・・・笑





 おまけ

 さあ~・・・画像展の募集、間もなく〆切りです。
 画像2枚と貴ブログの簡単な紹介文、ハンドルネーム、画像のタイトルを明記した用紙も同封して、アズプランさんに送付なり直接届けてください。

 かくいう私も出展2枚を遂に決定、25日にお届けする段階となっております。

 今一度、確認してまだの方はよろしくお願いします。
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白鷹と信長公記

2007-08-22 20:15:39 | 歴史・民俗
 数年前の遠野学会を聴講した際に発表があったひとつでありましたが、その中で、どうしても疑問に思い、少し調べたりした経緯があるも、どうにもならず盛岡南部氏の近世文書を取り扱うサイトへその疑問をぶつけたことがありました。




 発表された内容に、いちゃもんをつけるものではございませんし、その見解を否定するものではなかったのですが、どうしても自分でも知りたい内容が存在し、識者の意見を仰いだという形になってしまいました。

 その後、サイト内でも何度か取り上げられたり、盛岡タイムズにも関連記事が掲載され、ご見解を仰いだ先生もその後も気にされていたようでもあり、それらの記事を拝見することにより、結構勉強になった思いでもありました。
 


 さて、その内容とは・・・上の画像にあるように、「小友の白い鷹」に関連し、遠野孫次郎が時の権力者、織田信長に白鷹を献上したとされること、「信長公記」に記され、史実と思われる内容、これにて登場する「南部宮内少輔」とは何者であったのか、誰であったのか、そのことへの大きな疑問でのことでもありました。

 

 信長公記での関連記事(現代語訳)


「※7月25日、今度は奥州の遠野孫次郎という者から白鷹が進上されてきた。鷹居の石田主計が北国の船路を風雨を凌いではるばる進上してきたもので、雪のような白毛に包まれた鷹であった。その容姿はすぐれて見事で、見る者はみな耳目を驚かせ、信長公の秘蔵もひとかたならぬものがあった。
 またこれと同じくして出羽千福の前田薩摩という者も鷹を据えて上国し、信長公へ参礼したのち鷹を進上していった。

 7月26日、信長公は石田主計・前田薩摩の両名を召し寄せ、堀秀政邸で饗応を行った。相伴者には津軽の南部宮内少輔もいた。饗応後、信長公は客達に安土の天主を見物させたが、かれらは一様に「かように素晴らしきさま、古今に承ったこともない。まことに生前の思い出、かたじけなし」と嘆息したものであった。
 さらに信長公は、遠野孫次郎方へ当座の返礼として
一、御服十着 織田家の紋入り上等品で色は十色、裏着もまた十色。
一、白熊二付
一、虎革二枚
以上三種の品を贈り、使者の石田主計にも御服五着と路銀の黄金を与えた。また前田薩摩にも同様に御服五着に黄金を添えて与えられた。両人はかたじけない恩恵にあずかりつつ奥州へと下っていった。」
                      ・・・天正7年

 これに先立ち、津軽の南部氏とみられる者から鷹が進上されている。

「※8月5日には奥州津軽の南部氏より南部宮内少輔が鷹五匹を進上してきた。これに対し、信長公は8月10日南部の使者を万見仙千代邸に迎え、かれらを饗応して返礼をおこなった。」 
                      ・・・天正6年

 上記によれば、南部宮内少輔は天正6年8月に織田信長に鷹を進上、一年後に遠野からの来た石田主計や出羽の前田薩摩をもてなす宴席に出席し、一年にわたり織田家中の客人若しくは、客分として仕えていたことになります。 


 信長公記

 豊臣時代、豊臣秀吉の命により、かつて織田信長に仕えた太田牛一の日記を元に作られ、一部を除き非常に正確な内容であるため、信長の足跡を辿るには無くてはならない史料とされている。太田牛一が織田信長に仕えた1568年(永禄11年)から信長が死去する1582年(天正10年)について綴られている。十六巻十六冊


 遠野孫次郎とは、遠野領主、阿曾沼広郷といわれており、遠野の南隣で境を接する葛西領、葛西晴信の文書にも遠野孫次郎は登場することから、遠野孫次郎とは遠野阿曾沼氏、阿曾沼広郷であるのは、ほぼ間違いないものと思われます。

 奥州の片田舎にあっても、中央の動向に着目し、天下人へ近づきつつあった織田信長に接触を図るといった行為にて、遠野孫次郎は中央の権力者との結びつきを持った人物として引用されます。
 しかし、後の豊臣時代においては、その中央の動向に疎かった為に、小田原参陣が叶わず所領没収は免れるも三戸南部氏の扶庸とされた史実があります。
 別な理由も考えられますが、ここでは割愛いたします。


 南部宮内少輔とは・・・・

 随分と南部氏関連の資料やら主に書籍にて調べたりもしましたが、ついにその名を見出すことはできませんでした。
 遠野学会で講演されたT先生の見解は、南部信直であろうと結んでおりましたが、近世文書から南部氏について解説されるK先生の調べによりますと、南部晴政説と信直説が考えられるとのご見解、また南部宮内少輔政直と記述されておりますが、信長公記には南部宮内少輔とあるも政直とは記述されていない点が指摘されております。

 また、別説では秋田安東家の南部氏との見解も示されておりますが、これだっという資料やらが皆無でこれもまた難解な内容でもあります。

 近世になってから編纂された南部家資料には信長との接触なども記載はされているものもあるようですが、これもまた信憑性を欠くものとの見解も多分に含まれ、難しいものとなっております。
 

 尻切れトンボとなりますが、かなり長くなる内容、いずれ本サイト「遠野松崎じぇんご2」で、特集として取り上げたいと考えております。


 本来は、遠野孫次郎が白鷹を献上したとの内容にて、鷹鳥屋の地名やらで古の時代に鷹を飼育していたことなどを主として取り上げればよかったかもしれませんが、この方面はまたの機会ということで・・・・・。






 遠野市小友町鷹鳥屋館跡

 白鷹を進上して安土まで出向いた石田主計(宗順)の居舘とされる鷹鳥屋館。

 石田氏は、修験の者ともいわれ、諸国の事情に精通していたのではと考えられますが、鷹鳥屋館の館主は沖館氏とも語られ、未だに私的には混迷している状況です。
 小友地域(鷹坪・高坪)で捕獲された白鷹は鷹鳥屋で飼育され、安土へ・・・・遠野から進上された鷹は信長を満足させるものであったのは確かなことだと思います。
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間もなく

2007-08-20 20:49:58 | 遠野
 「遠野ぶれんど」による企画、遠野ブログ画像展の〆切が近づいて参りました。

 今月25日必着の〆切日、岩手県外から応募されるブロガーさんにおいては、そろそろ出展画像のプリントアウトやら、送付のための梱包に取り掛かる時期かと思います。
 
 まっ、宅急便ですと前日送付でもなんとか到着はすると思いますが、そろそろ本格的に出展に向けた準備作業お願いします。


 さて、そういう私も地元ということで、のんびり構えておりましたが、まだ出展の二点、絞りきれておりません・・・大汗

 いくつか候補を挙げてみますと・・・・・



「題名・なかよし」

 これはほぼ決定しております。



「題名・ナベクランブルー」



「題名・春、曲屋に舞う。駒木しし」



「題名・縁側」




「題名・兵どもが夢の跡・火渡館跡」



 当ブログは、一応、郷土史、民俗がメインとの位置付けながら、エントリーは全体の2割程度、しかも館跡めぐりシーズン前後に集中する傾向でもあり、郷土史やら民俗的な画像も多くは望めません。

 さらに猫や温泉もカテゴリー化しておりますが、猫画像は一点は決定、残りの一点で選定が難航しております。

 いざとなっても難しいものですね。

 地元の強み、当日持参でも通じますから、もう少しだけ頭を悩まそうかと考えております。

 皆様はお決まりでしょうか?




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満3年

2007-08-19 13:25:39 | その他
 先日(17日(土))、遠野ぶれんど仲間である宮城県在のタマ千代さんをお迎えしての、ミニぶれんどを開催いたしました。

 先週には、12名程のぶれんどに集っていただき、ノモーゼぶれんどを開催いたしましたが、今回は、お盆も過ぎ、仕事に就いている方々もあったりと、参加者数6名程度かと考えていましたが、なんと9名の参加となり、遠野話題やらブログ等のお話しで盛り上がることができました。




 海鮮料理には定評のある某店にて開催、魚介類はダメな小生ながらも、只今克服中というところで、会場選び等、お気遣いなきようお願いします。

 まずは貝類は、ほぼ克服しております。

 ということで、タマ千代さん、そして皆様、今回も楽しい一夜、ありがとうございました。



 さて、当ブログ「じぇんごたれ徒然草」・・・8月18日で開設満3周年となりました。

 当初は、画像添付の方法がわからず、小さな画像がひとつだけとか、サイズを少し大きくしますと枠からはみ出たりと、見苦しいところが目立っておりました。
 この状態は、開設してから1年以上続いていたものと思いますが、過去ログをご覧いただければと思います・・・・汗

 
 今年6月には、HP「遠野松崎じぇんご2」が開設6年、分家サイトの「奥州虎猫舘」が5年となり、ブログも早3年、職場の後輩である「うめぼし君」(ブログ二進も三進も)からブログは簡単でとっつきやすいと勧められたのも、始めるひとつのきっかけでもありました。


 タマ千代さんからのお土産、ワインで乾杯・・・笑・・・・心の中では、一人ぶれんどの席で、乾杯という気持ちでもありました。



 3年という節目、今やブログ仲間も増え、そのお付き合いもオン、オフの垣根を越え、充実した内容へと変貌を遂げています。

 昨年11月には、遠野関連ブロガーの皆さんとの集い、「遠野ぶれんど」を発足、18名の方々と交流ができました。
 今年は、遠野関連のブログ画像展を企画、間もなく9月8日から開催される運びでもあります。

 いずれ、ブログを通じて、こうして交流の場が広がったこと、扱う分野の違いは若干ございますが、遠野をキーワードに集う仲間がいること、これを励みに今後もブログで遠野を発信、そして私の分野でもある郷土史部門も続けていけたらと思っております。

 今後共どうぞよろしくお願いします。



 おまけ・・・

 19日、土淵まつり・・・。

 昨年は、嫁さんの実家の皆さんも会場に出向かれたということで、私も初めて観ることができましたが、今年は独りで障りだけ観て来たという程度となっております。
 昨年同様、賑やかに開催されておるようです。


 
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ひとまず一服

2007-08-17 15:55:38 | 遠野
 間もなく、遠野ブログ画像展、画像応募の〆切が近づいてまいりました。
 〆切日・・・8月25日(土)必着のこと。
 サイズ・・・A4サイズまたは六つ切り版
 その他・・・貴ブログの簡単な紹介文、出展画像の簡略説明を同封のこと。
 詳しくは・・・・こちら





 8月11日から15日まで、遠野地方は連日35度を超える猛暑に見舞われておりましたが、本日(17日)は、小雨が降り、暑さも和らぎ過ごしやすい一日となっております。

 お盆を故郷で過ごされた方々、観光に訪れた方々も既に遠野を離れ、静寂を取り戻した遠野といった雰囲気ですが、それでも、まだまだ県外ナンバーの車が目立ち伝承園含むその周辺は、入れ替わり立代りと車の出入りが激しく、まだまだ観光客は途絶えない印象でもあります。

 

 
 しかし、ピークは完全に過ぎ去っているものと思います。
 ここらで気候の変化も含めまして、一段落ということで、ひとまず一服、後は残暑が何日かあって、来月の遠野郷八幡宮のお祭り、遠野まつりへと一気にテンションが高まっていくものと思います。



 おまけ・・・・

 過ぎ行く夏を惜しむかのように、しつこく花火の画像関連を・・・汗













 姪っこ達とromi氏ファミリー・・・。




 たま千代さん、来遠

 17日、19時より「魚っこ屋」にて会食懇親会ぶれんど開催。
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