母方の叔父から母親を通じて私に伝言があり、西風館跡(綾織町新里)に関する新情報やらわたしに聞きたいこと、さらに話しがしたいので、暇を見つけて家へ来てもらいたいというので、先週土曜日の夕方、叔父宅へお邪魔してきました。
はて、聞きたいこととは、新情報とは・・・とにかく気になって仕方がなかったので、母親から聞いたその日の夕方には、叔父宅へ車を走らせておりました。
母親曰く、「道路がどうしたとか、測量がどうかしたとか」・・・とにかく肝心なことがあやふや、車中で何事かと考えながら向かったが、思い当たる節が脳裏に浮かぶ、それもかなり私としては危惧する内容、ひょっとして上郷の篠館跡のように釜石自動車道といいますか、高速道路のルートに選定され、西風館も将来消滅するのでは・・・・この思いが強くなってくる・・・兎にも角にも叔父に会ってみなければ何も分らないが、かなり心配になっておりました。
大根、茄子城と西風館跡の山野

叔父宅に到着、早速叔父から何やら資料や書類を渡される。
ひとつは・・・・「遠野遺産登録申請書」・・・既に代表者が叔父の名で申請済写しの書面。
どうやら西風館跡を遠野遺産に申請したようでもあり、少し驚きはしましたが、これはすばらしいことであり、よくぞ申請していただいたとの思いが強いものとなりました。
西風館についてこちら
さて、肝心な道路や測量の件・・・・
現在、花巻市東和まで延びている釜石道、さらに宮守鱒沢までのルートも決定され、花巻市境は盛んに工事中でもあります。
遠野においても、綾織町地内のルートがほぼ選定され、叔父宅の民有地(農地、山林)がその対象となったとかで、西風館跡下の林道(五百羅漢や小友土室に通じる)の下、約50メートル付近がそのルートとか、上郷の篠館跡をみれば、その下方、特に上方の斜面は法面となり、かなり広範囲に道路区域となり、館は破壊され消滅している。
しかし、西風館の場合、その範囲は、林道の下のみで、その上方は関連しないとのこと、千人掘と伝えられる館背後の空掘や北側斜面に張り付いている5段に渡る帯郭はそのまま残される雰囲気、これを聞いてかなり安堵いたしました。
これに併せ、叔父が住む地域では、地域の史跡やら名蹟の確認調査が行なわれ、この春、当局から示された遠野遺産認定制度に登録申請をしたという経過です。
しかし、西風館跡は、実は叔父宅の上方、林道下の山林や農地もその範囲で、私の探訪未踏の箇所には、空掘跡やら地域で伝えられている館に関する場所が残されており、この界隈の遺構、史跡は完全に消滅することになります。
ここで私の出番ということになりますが、まずは西風館の歴史、時代背景、史跡としての価値、何百年も前から存在したといわれる墓石に関しての見解と情報があったら教えてくれという・・・・・・・。
語られる歴史関連はそのとおりなのですが、墓石はこの目でみなければなんともいえないし、何よりも叔父が集めた資料、測量会社からこれを参考に勉強中なので、皆さんもどうぞ、と送付された資料が・・・・大汗・・・全て私のHP、ブログでの記事の写し・・・・測量会社も地権者の甥が調べていた歴史サイトとは考えてもいなかったと思います・・・笑
ところで、新情報といいますか、消える可能性の高い、遺構や口伝の箇所とその他・・・・。
○ 千ヶ掘
人足千人で掘られた空掘
○ 八幡社
叔父宅が別当、西風館八幡ともいい、いつからあったのかは不明
○ 八人沢(はちざ)
八人の武士、郎党が討ち取られた沢
○ 人兵エ揃(じんべいぞろえ)
中世桝形の一種、雑兵等の人数を入れ、隊を作る場所
○ 源左衛門討死の場所(げんざぺす)
源左衛門という武士が討ち死にした場所、伝・源左衛門の墓石有り
ということで、入りやすいとされる「げんざぺす」といわれる墓石のある場所と、「じんぺえぞろえ」といわれる空掘風の遺構を取材して参りました。
げんざぺす

源左衛門という武士が討ち死にした場所と伝えられ、その墓石と長らく伝承されているそうです。
源左衛門とは何者か?・・・叔父も色々と調べたそうですが、遂に分らず、当サイトでの附馬牛の火渡玄浄の家臣、大野源左衛門の名を探すのがやっとだつたとかで、大野がここまで逃れてきて、討ち取られた処と無理やり結論付けておりました・・・・笑
おそらく、弘治年間での西風館夜襲事件で、戦死した西風館の有力家臣の一人ではなかったのか、これが一般的な考えでもありますが、宝徳年間での葛西勢金成政実の家臣の誰かが、敗走中に討たれたとか?・・いずれ不明です。
それと通説として語られる弘治3年(1557)、葛西勢とされる一団に夜襲を受け、一族壊滅、落城の憂き目となった西風館襲撃事件、これを裏付ける伝承が今も語られ、八人沢といわれる箇所が館跡内に存在するという。
八人沢(はちざ)とは、八人の武士が討ちとられた、討ち死にした場所とされる。
語られてきた歴史と符合する現地での口伝があること、貴重な歴史的財産でもあると思いますが、一方では、道路網整備という生活に密接に関連する事項や地域発展が期待できる内容でもありますから、私の立場ではなんともいえませんし、なんともなりません。
いずれ、どの範囲まで破壊や消滅となるかは不明ながら、地域でもこれらを後世に伝える、残すといった動きが見られたこと、今後も期待できること、これだけでも嬉しい思いがいたしました。
じんべいぞろえ

おまけ・・・・パネル作成
企画中の遠野ブログ写真展、展示する写真はどのようにするのか?額や専用のパネルに貼ってお見せするのが一番良いのですが、額ひとつでも安いものでも1千円以上、パネルも1千円前後としますし、規格も統一しなければならないとも思いますし、いずれ少し悩むことも多々あるようです。
そこで、八戸の藤九郎さんから若干ヒントとなるアドバイスをいただいておりましたが、これを基に実際に作成してみました。

厚さ10ミリ、大きさ100センチ×100センチの発砲スチロール、カッターナイフ、両面テープ、黒色布ガムテープ、セロハンテープ、定規、黒色紙A3サイズ

発砲スチロールをA4サイズ用紙より四方2センチずつ余分に切取る。
さらに黒色の紙を裏側で折り込むように貼り付け、裏側で黒ガムテープで紙を止める。

裏側
プリントアウトした写真を表部分、四方の間隔を考慮して両面テープで貼り付ける。

両面テープとか、黒色紙、発砲スチロールは購入しましたが、5枚は作成できると思いますから、かなり安く上がると思います。
改善点も結構ありそうですし、黒色紙は全体に巻きつけるのではなく、発砲スチロールの寸法に合わせて幅3センチ~5センチで切り、真ん中を残して貼り付けるのも良いかもしれません。
これなら皆さんも作れるものと思います。
なんたって「てぇんど」の悪い私も不恰好ながらも一応、作れましたから・・・汗
はて、聞きたいこととは、新情報とは・・・とにかく気になって仕方がなかったので、母親から聞いたその日の夕方には、叔父宅へ車を走らせておりました。
母親曰く、「道路がどうしたとか、測量がどうかしたとか」・・・とにかく肝心なことがあやふや、車中で何事かと考えながら向かったが、思い当たる節が脳裏に浮かぶ、それもかなり私としては危惧する内容、ひょっとして上郷の篠館跡のように釜石自動車道といいますか、高速道路のルートに選定され、西風館も将来消滅するのでは・・・・この思いが強くなってくる・・・兎にも角にも叔父に会ってみなければ何も分らないが、かなり心配になっておりました。
大根、茄子城と西風館跡の山野

叔父宅に到着、早速叔父から何やら資料や書類を渡される。
ひとつは・・・・「遠野遺産登録申請書」・・・既に代表者が叔父の名で申請済写しの書面。
どうやら西風館跡を遠野遺産に申請したようでもあり、少し驚きはしましたが、これはすばらしいことであり、よくぞ申請していただいたとの思いが強いものとなりました。
西風館についてこちら
さて、肝心な道路や測量の件・・・・
現在、花巻市東和まで延びている釜石道、さらに宮守鱒沢までのルートも決定され、花巻市境は盛んに工事中でもあります。
遠野においても、綾織町地内のルートがほぼ選定され、叔父宅の民有地(農地、山林)がその対象となったとかで、西風館跡下の林道(五百羅漢や小友土室に通じる)の下、約50メートル付近がそのルートとか、上郷の篠館跡をみれば、その下方、特に上方の斜面は法面となり、かなり広範囲に道路区域となり、館は破壊され消滅している。
しかし、西風館の場合、その範囲は、林道の下のみで、その上方は関連しないとのこと、千人掘と伝えられる館背後の空掘や北側斜面に張り付いている5段に渡る帯郭はそのまま残される雰囲気、これを聞いてかなり安堵いたしました。
これに併せ、叔父が住む地域では、地域の史跡やら名蹟の確認調査が行なわれ、この春、当局から示された遠野遺産認定制度に登録申請をしたという経過です。
しかし、西風館跡は、実は叔父宅の上方、林道下の山林や農地もその範囲で、私の探訪未踏の箇所には、空掘跡やら地域で伝えられている館に関する場所が残されており、この界隈の遺構、史跡は完全に消滅することになります。
ここで私の出番ということになりますが、まずは西風館の歴史、時代背景、史跡としての価値、何百年も前から存在したといわれる墓石に関しての見解と情報があったら教えてくれという・・・・・・・。
語られる歴史関連はそのとおりなのですが、墓石はこの目でみなければなんともいえないし、何よりも叔父が集めた資料、測量会社からこれを参考に勉強中なので、皆さんもどうぞ、と送付された資料が・・・・大汗・・・全て私のHP、ブログでの記事の写し・・・・測量会社も地権者の甥が調べていた歴史サイトとは考えてもいなかったと思います・・・笑
ところで、新情報といいますか、消える可能性の高い、遺構や口伝の箇所とその他・・・・。
○ 千ヶ掘
人足千人で掘られた空掘
○ 八幡社
叔父宅が別当、西風館八幡ともいい、いつからあったのかは不明
○ 八人沢(はちざ)
八人の武士、郎党が討ち取られた沢
○ 人兵エ揃(じんべいぞろえ)
中世桝形の一種、雑兵等の人数を入れ、隊を作る場所
○ 源左衛門討死の場所(げんざぺす)
源左衛門という武士が討ち死にした場所、伝・源左衛門の墓石有り
ということで、入りやすいとされる「げんざぺす」といわれる墓石のある場所と、「じんぺえぞろえ」といわれる空掘風の遺構を取材して参りました。
げんざぺす

源左衛門という武士が討ち死にした場所と伝えられ、その墓石と長らく伝承されているそうです。
源左衛門とは何者か?・・・叔父も色々と調べたそうですが、遂に分らず、当サイトでの附馬牛の火渡玄浄の家臣、大野源左衛門の名を探すのがやっとだつたとかで、大野がここまで逃れてきて、討ち取られた処と無理やり結論付けておりました・・・・笑
おそらく、弘治年間での西風館夜襲事件で、戦死した西風館の有力家臣の一人ではなかったのか、これが一般的な考えでもありますが、宝徳年間での葛西勢金成政実の家臣の誰かが、敗走中に討たれたとか?・・いずれ不明です。
それと通説として語られる弘治3年(1557)、葛西勢とされる一団に夜襲を受け、一族壊滅、落城の憂き目となった西風館襲撃事件、これを裏付ける伝承が今も語られ、八人沢といわれる箇所が館跡内に存在するという。
八人沢(はちざ)とは、八人の武士が討ちとられた、討ち死にした場所とされる。
語られてきた歴史と符合する現地での口伝があること、貴重な歴史的財産でもあると思いますが、一方では、道路網整備という生活に密接に関連する事項や地域発展が期待できる内容でもありますから、私の立場ではなんともいえませんし、なんともなりません。
いずれ、どの範囲まで破壊や消滅となるかは不明ながら、地域でもこれらを後世に伝える、残すといった動きが見られたこと、今後も期待できること、これだけでも嬉しい思いがいたしました。
じんべいぞろえ

おまけ・・・・パネル作成
企画中の遠野ブログ写真展、展示する写真はどのようにするのか?額や専用のパネルに貼ってお見せするのが一番良いのですが、額ひとつでも安いものでも1千円以上、パネルも1千円前後としますし、規格も統一しなければならないとも思いますし、いずれ少し悩むことも多々あるようです。
そこで、八戸の藤九郎さんから若干ヒントとなるアドバイスをいただいておりましたが、これを基に実際に作成してみました。

厚さ10ミリ、大きさ100センチ×100センチの発砲スチロール、カッターナイフ、両面テープ、黒色布ガムテープ、セロハンテープ、定規、黒色紙A3サイズ

発砲スチロールをA4サイズ用紙より四方2センチずつ余分に切取る。
さらに黒色の紙を裏側で折り込むように貼り付け、裏側で黒ガムテープで紙を止める。

裏側
プリントアウトした写真を表部分、四方の間隔を考慮して両面テープで貼り付ける。

両面テープとか、黒色紙、発砲スチロールは購入しましたが、5枚は作成できると思いますから、かなり安く上がると思います。
改善点も結構ありそうですし、黒色紙は全体に巻きつけるのではなく、発砲スチロールの寸法に合わせて幅3センチ~5センチで切り、真ん中を残して貼り付けるのも良いかもしれません。
これなら皆さんも作れるものと思います。
なんたって「てぇんど」の悪い私も不恰好ながらも一応、作れましたから・・・汗
道路も大切でしょうし歴史も残したいし。。
少々・多少・・異なる内容ですがディズニーのアニメ映画『CARS』を思い出してしまいました。(ご存知ですか?) 野山を切り開いて真っ直ぐの「道」をつくってしまい便利になったけど・・・ブツブツブツ
あ、元気なニコちゃん画像とても嬉しかったです♪
ワクワクしてしまいましたぁ。。笑
元になる何らかの話があったのか、それとも信仰に関する何らかの場所だったのか・・・十三塚伝承のように興味深い内容です。
パネルの試作、早速実験されたんですね。
さすがです。
ご無沙汰でした。
ある意味、こういった史跡関連の問題は、避けては通れないことでもあり、仕方のないことでもあると思います。
ただ、こういった道路建設を受けて、地域で、自分達の住む地域の歴史やら史跡について、考える場が出来たこと、感心がなかった人達も、少しは考える場となっていること、これだけでも少しだけですが良かったことかもしれません。
誰も関心を寄せなければ、世に知れることなく、伝承の地やら隠れた史跡はまさに闇の中、こういった動きが各地で見られ始めたこと、これに尽きます。
アニメは知りませんです・・・汗
今回は、八人沢と呼ばれる沢の探訪はしておりませんが、塚とか墓石とか、そういったものはあるとは聞いておりません。
いずれ晩秋の頃に今一度、私的に大きな探訪をする予定でもあります。
やはりこのような伝承がなされ、通説でも落城した戦いが繰り広げられたという曰くつきの場所、あまり気持ちの良いものではありませんよね、それでもやらなければならないと思う自分は、歴史馬鹿かもしれません・・・汗
例のパネル・・・・一応作ってみました。
軽すぎて安っぽさも感じられますが、上手く作ればそれなりに雰囲気は十分である雰囲気でもあります。
今一度、今度は吟味して丁寧に作ってみたいと思います。
人が住んでいる以上、利便性を考えて人の手が入ってしまう場所が出るのは致し方なしなんでしょうか・・・・
その後、恩恵を受けるのは他ならぬ土地の人と言うこともありましょうし。
遠野の舘跡はすんごい数ありますからね~
何か工事の話があれば、うかうかしていられませんね;
東禅寺エントリの下書きをしながら調べものをしていたら、嘗ての建物の跡は、開墾のために失われたヶ所もあるという話が出てきました。
今はすっかり山深い所になったのに、拓かれた歴史もあるんですね。
利便性は都会も田舎も同じで、私も高速道路ができれば利用もしますし、便利だと思うのが本音ですね。
館跡は市内にかなり残されておりますが、まさに知られざる存在、私の知らない場所でも道路になったり農地に開発されたところは結構あると思います。
これも致し方なしですが、昔繁栄した場所、東禅寺もそうですが、館跡をみても山城とはいえ現代感覚からかけ離れた山中に存在したりと、昔と今のギャップも感じられます。
こういったことを考えたり感じるのも郷土史の醍醐味でもあります・・・笑
話は変わりますが、おまけの写真パネル、こんな感じなら、たま千代さんでも直ぐ作れると思います。
写真展への応募、ご検討願います。
愛宕下から鱒沢にかけての猿ケ石川南岸は、今のうちにデータを残しておいてくだされ。
遠野の方々がよりよい暮らしを営まれるのなら、何も言いますまい。
>曰くつきの場所
に入るのは私も心配です(ナニガ?) 影ながらお手伝いできればと思っています。
パネルねぇ… 「てぇんど」が悪い? っておいらは「てぇんど」無し と母から言われておりますので…(苦笑)
鱒沢から愛宕橋、10数年後には、物見山山麓のその景色やらが一変するものと思います。
できればトンネルで一気に上郷までが良いのではと素人考えがありましたが、そうは問屋は卸さない状況でもあり、仰せのように何かしらの記録は必要不可欠かと思います。