「おっちゃん、こんにちは。」
蛍さんの父が、病室でしょんぼりと肩を落として椅子に座っていると、明るい声がして甥が入って来ました。
蛍さんの従兄で、次兄の長男に当たる青年でした。昨日の一件があるので、彼は内心嫌な感じがしました。
が、この甥は常日頃家の近所に住んでいるという事もあり、生まれた時から彼が可愛がっている甥でした。
「ああ、おう、お前来たのか。」
蛍さんの父は何事も無かったようにそれだけ言うと、一寸微笑んで向こうが何か話し出すのを待ちました。
暫くは、お互いに笑顔を浮かべたまま無言の儘でいました。
「おっちゃんも、ちょっとおかしいな。」
そう甥は言うと、母も昨日家に帰って来てから様子がおかしいのだと、話し始めました。
母は暗い顔をして溜息を吐き吐き玄関に入って来たと思ったら、そのまま部屋で蹲ったまま青い顔をしていて、家の誰が何を言っても上の空で、
到頭実家に帰る事になった、とだけ言って涙を流したりしていると言うのでした。
「そうだろうなぁ。」
と蛍さんの父は頷きます。
それでこそ人というものだ、返って平気な顔をして澄ましているのだとしたら、それこそ人というものだ。
そう思うと彼は黙っていました。彼は流石にこの甥に、昨日起こった出来事について話す気分になれませんでした。
「母さんとおっちゃんの間で何かあったのか?」
遂にそう蛍さんの従兄は切り出しました。
おっちゃんも様子がおかしいじゃないか、そう甥に問い詰められて、蛍さんの父は如何言ったものかと思案します。
『いや、これだけは言ってはいけない。』甥の為にも言わない方が良い、と彼は思うのでした。
「大したことじゃないよ。」
蛍さんの父がそう言った切り、部屋の中には静寂の時が流れます。
ずーっとだまり込んだ儘、無言の儘の叔父に、ついに彼は言いました。
「いいよ、そんなに何も言えないのなら、こっちだって無理には聞かないから。」
言えない事があったとだけ思っておくから。父も母にそうすると言っていたから僕もそうする。
そう言うと、彼は母と叔父の間で何があったのかを詮索するのを止めにした気配でした。
ここで甥は、ふっと息を吹き出すと思い出し笑いをしました。
「おっちゃん、蛍ちゃんに怪我をさせた子って、今診察室にいるあの子だろう。」
「いい気味だったな、流石に神様はちゃんとこの世を見ているものだ。悪い奴には天罰が下るもんなんだな、これこそ天誅というものだ。」
そう言って目を細めて笑うのでした。その笑顔は二番目の兄の笑顔に似ていました。蛍さんの父はやはり彼に身内としての親しみを覚えるのでした。
甥はくくくと口に手を当てて忍び笑いをしていましたが、遂に堪え切れなくなって吹き出すと、はははははと、実はねと叔父に打ち明け話を始めるのでした。
「僕、病院に入る前にあの子と道で遭ってね、あいつすごい勢いでこの病院から飛び出してきたんだ。
僕、誰だか知らないけれど危ないと思って避けたんだよ。その時顔を見たらあの子だったんだ。」
包帯を巻いていたけれど僕にはよく分かったよ。毎年見る顔だからね、何時もホーちゃんと揉めるし。
思わずホーちゃんの敵と思って、それは思ったんだけど…と、ここで彼は言葉を切りました。蛍さんの父は嫌な予感がしました。
「おい、まさか、お前あの子に何かしたんじゃ無いだろうな。」
蛍さんの父が怖い顔で甥を詰問すると、彼はちょっと寂しそうな笑い顔を浮かべ首を振りました。
何かあったのか?そう繰り返して叔父が聞くものですから、彼は言い渋っていた出来事をぽつりぽつりと話し始めました。
「あの子とすれ違う時に、あの子の勢いに思わず僕は体を避けたんだけど、その時避けた僕の片足に、…」
片足に?如何したんだ?何があったんだ?、気色ばんだ蛍さんの父はその先の甥の言葉を促します。
「僕はそんなつもりはなかったんだよ。でも、あの子丁度上げた僕の足に引っかかってしまって…。
あの子すごい勢いで走って来てたから、その勢いのまま、そのままどーんと電信柱の所に吹っ飛んで行ったんだ。」
僕はそのまま電信柱にぶつかったんだ、大変だと思ったら、電信柱にぶつかっただけでも酷いのに、
ああ、あの子あまり運が良くない子だよ、ぶつかった途端グサって音がしたんだ。
多分酷い怪我をしたんじゃないかな、そう思ったら、案の定、看護婦さんに聞いたら縫う程の怪我だって言ってたよ。
どうも傷が残るらしい。顔だろ、気の毒に、まだあんな小さい子なのに、いくらホーちゃんの敵でも可哀そうだと思って。
甥の話が終わると、蛍さんの父は顔色を失いました。
「顔に?、傷が残るのか、あの子?」
そうだと思うよ、相当深い傷だという話だったから。僕わざとじゃないからね、向こうが勝手に僕の足に蹴躓いたんだよ。
ホーちゃんも可愛そうだけど、あの子も可愛そうな子だ、運が無いよ。
そう言って蛍さんの従兄は何かしら後ろめたいものを感じたのでしょう、顔を曇らせたのでした。
病室にはしーんとした空気が張り詰め、誰も物を言う人がいませんでした。
寝ていた蛍さんが静けさに気が付くと、つくつくほうしの蜩の声が中庭に響き渡っています。
残暑にかかる気だるい暑さが、重く周囲に染み渡っているのでした。
「ダリアの花、前編」…夏に向けていったん終了です。