呆れたね。こんな大事な話を、あれが嫁であるお前さんに何も話してないとは。
「あれがそんな手抜かりをする者だったとはなぁ。」
舅はいかにも呆れ果てたと言う様子で、息子の嫁の目の前で嘆息してみせた。嫁はそんな大仰な舅に常とは違う気配を感じた。胸騒ぎを感じて、彼女は改めて舅の顔を見詰め直した。すると彼の目が笑っている。ドキン!とした彼女は、その彼の笑いの理由は何だろうかと怪しく思った。そこで今迄の、舅が往来の方の入り口から入って来てから今迄の、彼の言動を思い出してみた。当然、この店の店主の言った言葉も彼女自身の脳裏には浮かんで来る。まさか…。と、彼女は思った。
『否、そんな筈は…無いだろう。』彼女は自分の胸に湧いた黒い不安を打ち消した。結婚してからこの十何年か、彼女は舅一家の惣領息子の嫁として落ち度なく勤め上げて来た筈だ。そうだと内心頷くと、彼女は寡黙になり、自身の瞼の裏にパラパラと嫁いでからの様々な出来事、それに対応して行った自身の各采配の言動を思い出していた。どれも手抜かりは無かった筈だ、否それどころか、こうやって今思い出してみても、自分自身上手く収めたと自負できる場合も数回含まれている。『確かにそうだ。』彼女は再確認すると、内心得意の笑みを浮かべ、自身に対して喝采のエールを送った。『大丈夫だ!舅の言いたい事は離縁の話では無い筈だ。』。彼女は内心の自負を抑えつつ、控えめに微笑んで舅の顔を見詰めた。するとそんな彼女に舅は口を開いた。
「お前さん達は自由なんだよ。」
結論から言うとね。舅は言った。「何も案じなくていいんだよ、将来の事は。あんたとあれ、子供達、お前さん達一家はね。」詰まりはそう言う話なんだよ。と、舅は穏やかに優しく微笑むと落ち着いた口調で彼女に言った。彼女は舅の言葉が意味する所を急には理解出来無かった。判然としない顔付きの嫁と、何か胸に含む顔付きの舅。彼らの傍に密やかに座す姉妹を他所に、大人2人の間には沈黙の時が流れた。舅は如何にも優しく微笑むと目の前の嫁に勧めた。「さぁ、それを持ってお行き、大枚だよ。もうそれはお前さん達の物だ。自由にお使い。」。
「それは如何言う事でしょうか?。」
彼女の口から、遂にきつい口調で彼女の舅へ質問が飛んだ。夫が浮気でもしたというのだろうか?。如何にも胸に一物が有りそうで、秘密めいてほくそ笑んでいる様子の舅に、小切手帳を目の前に置いて、嫁である彼女は可成り苛立ち始めた。彼女は嫁である自分に対して彼が意地悪く何か隠し事をしていると感じ、そんな彼に今迄同じ家族の一員としてやって来た自分に対しての隔てを感じ取ると、彼女は彼の家の嫁に対して、自分という人間に対して、彼の非礼を思い至る迄になりふんぶんと憤っていた。
舅は彼女の勢いに、おやと気勢を削がれた様子になった。彼は俯き加減になると、何を間違えたのかねぇと呟くと、あれがちゃんと言っておいてくれれば。こんな事には。等、私の方から言うと、ほれ、こんな私だから上手く言い出せなくてねぇと、言い訳の様に嫁に言うと、彼自身の口から出した言葉を舅は頭の中で繰り返した。彼はその都度彼自身の口をごねごねとまごつかせていた。
「旦那、負けちゃダメだ。ここが事件の押し所ですぜ。」
そんな男客に、食堂の亭主が加勢する様に声を掛けた。