吉田松陰の言葉に「十歳にして死は、その十歳の中に自らの四季がありま
す。~、五十歳や百歳にも、その中に自らの四季があります」 とあります。
kaeruの身でこの言葉を引用するのもおこがましいのですが、今日あった事
の感想として浮かんできたので引用いたします。
今日、兄と弟の三人で60余年ぶりにある姉妹と食事を共にし、歓談してきま
した。 私は高校を卒業するとすぐに故郷を離れましたので、二人とは没交渉で
いきなり60余年前と対面という形になり、老いた顔のなかに面影を探しました。
姉は80を四つほど越え妹は喜寿、挨拶のやりとりのなかに甦ってくるものがあり
その頃の歓談の感覚が体に広がってきました。
姉にあたる人は、兄の職場の先輩で三つほど年上、付き合いは家族ぐるみの
交際となり、女兄弟のいない私にとって二人の姉という感じで行き来を楽しんで
いました。 まわりでは当然結婚、という兄たちは事情があって別れ、 兄嫁になる
べきだった人は東京に嫁いだと聞いたのはかなり後であったような気がします。
その後、兄も弟も姉妹との手紙等のやり取りはあったようで、没交渉の私とは違い
この間の状況も心得ていました。
70歳代から80歳代と人生の冬の季節を、暖かく過ごすには何よりその季節を
通して生き甲斐ともいうべきものを持ち続けること。 合わせて過ぎた日々のなか
に蓄えられている 「薪」 を生活という居間の 「思い出という暖炉」 で燃やすこと。
それは過去のことでなく現在の日々の活力になって心身を暖かくしてくれるのです。
この事の大切さを実感した一日でした。