kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

手も抜き足も動かず、ながらも。

2015-10-17 21:24:54 | kaeruの「おくのほそ道」

 手抜きは予てからの習いであって今更との思いもありますが、そこは芭蕉翁の辿った道を曲がりなりにもたずねている身であれば怠け心に鞭打つことも必要かとも思ったりしているところです。

とは言え、芭蕉翁とは称しながらもこの仙台の地を歩いた頃は歳46、亡くなったのがそれから6年後51歳。若い、とは今だから言えるでしょう。当時幾つぐらいになると翁と呼ばれたものか、偶々開いた『芭蕉紀行文集』に、

天和二年1682の芭蕉が知人宛の手紙に谷木因(たにぼくいん)を翁と称しています。その時木因は芭蕉より2つ下の36歳、となると年齢は余り関係なかったということでしょうか。芭蕉と木因についてはここに、大垣市ホームページ ここから下の写真を借りました。

 

         芭蕉                       木因 

 


手を抜かずに……。

2015-10-16 20:57:48 | kaeruの「おくのほそ道」

メールにこんな話が入っていました。

広く知られている松尾芭蕉の「奥の細道」ですが、その旅の始まりはどこなのか、実ははっきりとした記録はありません。「うちこそが出発の地」と、東京都の二つの自治体が熱い論争を繰り広げています。

二つの自治体とは、東京の足立区と荒川区なのです。ここを見てもらえれば「前半」はわかります。  http://news.asahi.com/c/ak33dPsTiYj87vae

全文のなかに、

論争の発端は、1989年の「奥の細道」300年記念事業にさかのぼる。旅立ちの再現イベントで、芭蕉に扮した江東区長が屋形船で千住大橋北側に到着し、足立区長が出迎えた。これに対し、「荒川区が呼ばれないのはおかしい」と荒川区民から横やりが入ったのだ。

とありまして、対岸の火事見物とはいかない事情があるのだと思います。

この一文の前後に関心のある方は必要な手続をしてお読み下さい。

さて「kaeruのおくのほそ道」はまったく手抜きをしていまして7月21日以降脚は動いていてその時期の新潟から出雲崎への旅路は終着地の大津に着いていたのでしょう。

今日届いた「からだ健康通信」によると、

■奥の細道の旅
○現在地 仙台   ○次の目的地 塩釜  ○次の目的地までの距離 17.1km34,206歩。

という旅程だそうです。

町おこしのためには東京の自治体が区をあげての「論争」をするのですから、体起こしに役立つ「おくのほそ道」を手抜きをせず報告しなさい、とのことでまったくその通りだと思います。少し真面目に旅路のうごきを報告していかねばと思いました。


「てんがらもん」187回 魅力の番組。

2015-10-15 22:38:20 | 「てんがらもんラジオ」

 「てんがらもん」187回   ゲスト 明瀬靖さん

今回のゲストを紹介している昨日の村永さんのブログからその部分です。

明瀬(ミヨセ)靖 様     緑ヶ丘中学校PTA会長、45歳 

緑ヶ丘団地にスーパーが消えて地域のお年寄りのために月1回の朝市を開催。毎回人寄せのためのイベントもしながら徐々に定着してきています。そのユニークな取り組み、3児のお父さん、サラリーマンではやっていけないと事業を立ち上げたお話も聞きましょう。

このサラリーマンではやっていけない、という「サラリーマン」のことです。コンピューターグラマーだったと言われていました。「やっていけない」の中身として印象に残ったのは48時間勤務のことです。

45歳の明瀬さんが25歳の頃のことですから20年ほど前。私が「コンピューターグラマーは35歳まででダウンする」と聞いたのはもっと以前だったと思います。それは間接的に耳にしたことで大学を出てからのほぼ10年間で心身を使い果たしてしまうのかと、その過酷さを思ったものです。今回それを体験した人の話で、改めてコンピューター世界を労働の現場としてみて、過酷な労働の急速な蓄積の上に私たちのコンピューターの利用もあることを再確認できました。

そういう経験から勤め人ではない道を選択し見事な事業展開をしている明瀬さんに、拍手を送りたいと思います。こうした経験と知識はその後どんな道へ向かっても活かすことの出来、必要とされるものでしょう。選んだその道は不動産業、番組では事業内容については余り語られませんでしたが、中学校のPTA会長、スーパーがなくなった地元で朝市に取り組むなどから明瀬さんの目指す不動産業の有り様が見えてきます。

地域の人々の生活の全ては住まいと土地=不動産の上で成り立っています。その地で安定した生活を営なむうえで「住まいと土地」に対して理念と知識を持ち地域の情報に強い不動産業者の存在は大きな力になる筈です。

前回の七福神の早田さん、クリーニング店経営で小学校PTA会長の栫井さんなど、はからずも自分の事業展開と地域の発展を一体のものと考え実践している人の姿と声に接することができ、「てんがらもんラジオ」の魅力を再認識できました。


今夜は心落ちつけて。

2015-10-14 20:50:42 | 詩的なつぶやき

昨夜は「心落ち着かぬ夜」で「そんな時はこうしましょう」と「俳句です」などと書いて 短歌一首を記しました。

誠に落ち着きのない有り様だったことが表れています。

昨夜紹介した大岡信の『折々のうた 三六五日』にあげられている「うた」は短歌だけでなく俳句も多く、 その他漢詩狂歌などなど多彩に渡っていて、

一昨日の十三日には俳句、

行く我にとどまる汝に秋二つ 正岡子規

があり今日付では、

握力計の知られざるちから身にありて4Bの鉛筆に文字現わるる 冬道麻子

があげられています。

この本はと「あとがき」に目を移すと、

「朝日新聞」第一面の片隅に、日本の短詩型文学から毎朝一作ずつ抜きだし、短文でそれを鑑賞する、という試みを始めたのは、一九七九(昭和五四)年一月二十五日、朝日新聞創刊百周年記念日のことだった。

と書き出されています。 この「あとがき」の日付は「2002年11月はじめ」で、それまでに約5,800数十回紙面に載ったものを一年三百六十五日に配したがこの一冊でした。

検索してみますと、この連載の最終回は6762回目、2007年3月31日でした。

どういう詩だったのでしょう。


心落ち着かぬ夜は。

2015-10-13 11:00:13 | 詩的なつぶやき

何か心が落ち着かぬことがあり、ブログに向かっても何をつぶやくか浮かんできません。
そんな時はこうしましょう、俳句です。

大岡信の『折々のうた 三六五日』を広げてみると、十月十三日に、

笠置シヅ子があばれ歌ふを聴きゐれば笠置シヅ子も命賭けゐる 前川左美雄

大岡信の短文に【笠置シヅ子の「東京ブギウギ」が大阪の梅田劇場で唄われ、大反響を巻き起こしたのは昭和二十二年九月、以来三年ほどのあいだ彼女はたて続けにブギを唄い、流行歌の世界をつむじ風のように席かん(手偏+卷)した。右の歌の「あばれ歌ふ」には作者の微妙な違和感も込められていそうだが、それにもまして笠置シヅ子の迫力をよらえるのに適切な表現だった。「命賭けゐる」も同じく。】とあります。

歌を読み短文を写している間に眠くなりました。こうしているのが心落ち着かぬ夜には一番いいようで、眠りましょう。


図書館動向。

2015-10-12 18:59:36 | 本のひと言

秋には色々な形容詞が付きます。なかでも読書の秋というのは一番馴染みがあるのではないでしょいか、読書をするかどうかは関係なく。雑誌もこの時期その関係の特集を組むようです。

たまたま目についたのがこれです。

 

そのなかのここ、

各地の公立図書館の動向の紹介です。

そこに長野県塩尻市立図書館の名前がありました。ワイコマさんのブログによく出てくる所です。これは全国の公立図書館160館に出したアンケートのうち「注目している国内の特徴ある図書館とその理由を教えてください」に対する集約です。

アンケート回答は133館からだそうです。全国トップは18票の鳥取県立図書館、塩尻市は4票で他にも同数が3館あり6位でした。順位もありますが各図書館の特徴がどこにあるかが大事です。

塩尻市立図書館の特徴はトップの鳥取県立図書館から寄せられた理由が「図書館単独施設でなく、他の行政組織と一体的な運営、住民との協働による市民交流機能」とあります。利用者として市民としてワイコマさんからのコメントを期待してます。


「赤と黒」 。

2015-10-11 19:35:16 | 100歳へ上手な生き方

赤と黒、と言っても着ているものの色のことです。昨日はお祝いごとでしたので赤色を身につけて出かけ、今日は法事でしたので喪服で出席したのです。

場所も鎌倉駅前と小町通りでしたので頭に浮かんだタイトルです。今日は妻の従姉妹の一周年忌でした。今月の15日が命日で、この日を中心にこのブログでも色々つぶやきました。

昨日のブログの最初に「ブログを始めて3年余」になると書きました、この間に多くの人の死と出会いました。その都度なんらかの形でブログにもつぶやきを残しています。自分が平均寿命に近くなれば当然周りも死期に近くなるわけで、多くの死に向きあう事は当然のことです。といえ100歳を越えた人の死にも残念な思いがあり、あのことこのことを聞いておけば、言っておけばという気持ちが残っています。

自分より若い人の死に至っては、心残りはなおさらのことです。同じ地域で活動していた人に似た人がバイクに乗って駆け抜けて行く姿に、彼がいなくなったことを惜しくも切なくも思い出したりします。

話は一転しますが「赤と黒」と書き、思い出したことを書いておきます。

不破哲三さんの話されたなかの70年以上前の日本のことですが、

戦争の体制が進むと、『赤と黒』という本をもっていただけで逮捕された学生もいました。「赤だから悪い」というわけです。これは、実はスタンダールというフランスの作家の書いた有名な小説で、「赤」というのは軍人のこと、「黒」というのはお坊さんのこと、そういう内容の小説だったのですが、「赤」という字があるだけで、留置所にぶちこまれてしまう。

こんな社会が70年以上前の日本であったことは知っておきたいものです。


ネット交友録。

2015-10-10 23:54:33 | どこまで続くかこのブログ

「kaeruのつぶやき」などという看板でブログを始めて3年余になりますが、その前にもインターネットとの関わりが必要になるという思いがあったことの証明が今日のこの集まりです。

高齢者にパソコン特にインターネットの普及をはかろうとの趣旨で、講習会が行われました。殊勝にもそこに参加したのが10年以上前のこと、講習修了者が親睦と知識などの習得のために「かまくらシニアネット交流会」という組織をつくりました。

その10周年記念の集いの写真です。今日は10年ぶりの同期の人にも会い旧交を温めました。私は日頃、俳句の同好者としか付き合わないのでかなりの年配者が、また男女ほぼ同数が集まり、インターネット世界での高齢者の健在ぶりを見ることが出来ました。

会には俳句以外にも幾つかあります。

それぞれ従来の趣味の集いをインターネットを活用して更に豊かにしているといえます。「かまくら」と名付けているので鎌倉独自のものか、他でも取り組まれているのか? 葉山でも取り組めるのか懇談しつつ頭に浮かんだことです。

高齢者の生活とインターネットのつながりはこれからますます多くの面で有効なことを示していくと思います。それも足元での実践と全国的な経験が互いに影響し合うことと思います。

葉山「のぞみ会」のHP作成の道も開けそうです。


「てんがらもん」186回 文化とは温かさのこと。

2015-10-09 23:51:06 | 「てんがらもんラジオ」

このタイトルは「てんがらもん」の今回( 186回 ゲスト 早田和史さん )のゲストの早田さんが前回出られた時の番組への感想で「温かい番組だな」と言われたことを受けています。あわせて前回のゲスト石神さん前々回の田中さんが共々国民文化祭の意義を熱を込めて話されたことをも含んでいます。

先ず、早田さんが4月にオープンした特別養護老人ホームでの半年の体験を通じて目指すべき介護を一言で表現していたことです、「感謝、感激、格好良い」の3Kだと。よく言われる介護3Kとは「きつい、給料が安い、汚い」を意味します。早田さんの言葉は介護現場を通じて高齢者、それも心身になんらかの支障のある人々との交流を通じて得た確信でしょう。

勿論早田さんの勤める施設・ 七福神も理想郷ではありません。仕事のきつさ、給料の問題、日常生ずる汚れは他の施設と変わりがないはずです。私の短期の同様な現場にいた経験から言っても世間の介護3Kに近い感想です。それに対して早田さんの確信はどこから生まれてきているのか、話の中から伺えることは前回話された地域とともにある介護施設のあり方を実際に進められてきたことにあるでしょう。

9月の銀河ロード祭りへの参加のこと、地域の青年部への参加を通じて地域活性化への共感、そして自分の住まいも地元へ移すこと話されました。ここには新たな福祉文化を生み育てようとする青年の意気込みが伝わって来ました。福祉を施設内の介護現場の枠の中だけでなく地域のなかに位置付け、地域の活性化の一環として取り組む福祉文化として発展させる方向が見えているのでないでしょうか。

前回前々回の国民文化祭の話を通じて私の頭に浮かんだのは、憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」でいう文化と国民文化祭の文化とはどいう関係にあるのかということでした。早田さんの体験と伊敷団地の人々の取り組みを通じてその内容が見えてきました。一言で表現しすると「温かみのある生活」ということでした。バレーも川柳も介護も生活に温かみを生みだすもので、それを文化というのではないでしょうか。


今日の終りに。

2015-10-08 23:59:59 | 葉山そして人

秋の夜は長いとはいえ無限ではない、話が行き詰まり戻してまた深まりつつ行き詰まる、際限のないように思える。

粘り強く話こむB氏に感心する、こちらは決めつけたくなるが、彼は冷静さを失わず説く。相手は執拗に中国の脅威を語る、それをひとつ一つ解きほごしつつ共通点を確認して進む。なるほど論理的とはこういうものかと、頭で理解していたことを若いB氏の口調から学ぶ、それにしても遅くなったまたにしょうと提案するのは年寄りの役割か。

60年安保闘争から55年、場所と相手と自分の年齢は変わったが時代は同じ熱さをもってはじまったようだ。