kaeruのつぶやき

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続 残すこと遺すこと。

2015-10-07 23:50:40 | つづきの海を はろば...

昨日タイトルを「残すこと遺すこと」にしたのは、『この海のつづきの海を』のなかのある文章に納得がいったからです。

それは黒田義さんの友人が本に寄せた次の言葉です。

「黒田義のこと     富士正晴」(昭和五十五年の)  六月九日

「昨日、康子夫人が持参して下さった黒田の、日記、手紙・歌のゲラを読み、若い黒田の仕事振りの充実していること、生活態度・研究態度の質実・純粋・猛烈なことに、大変感心して、惜しい人間を殺してしまったなと今更ながらに思った。

(略)

 われわれはほぼ同年生まれ……、満年齢でいえば二月位しかちがっていない。

(略)

 奇妙なことだが、建築などのことは判らぬわたしが、昭和十年代の初期に黒田を、末期に京大講師の鈴木義孝の二人の建築家を友人に持ったこと、この二人は戦死してしまったことなど、どういうことかと思う。

 黒田は康子さんの努力でこのような本が出て、まだしも幸せと思うが、鈴木義孝の方はわたしはその遺族の所在も知らず、彼の遺稿がどうなったかも知らない。

 黒田は偉い男であったが、幸せな男でもあったと思う外はない。十分に燃焼して生きたのだから、そして、こうした本が出たのだから。」

 

 いかにも親友の弁であり小説家で詩人らしい言葉です。


残すこと遺すこと。

2015-10-06 23:51:51 | つづきの海を はろば...

丁度一年ほど前、 『この海の続きの海を』 をアップし「この海の続きの海を」というカテゴリーを新しく追加しました。そこに頂いた本の写真を載せましたが本の帯無しでした、本の中に挟んでありましたのでそれをアップします。

  

      

実はここまで写真を3枚アップするのに3時間かかりました。それでもパソコンの画面では1枚目が横向きなので、スマホでは真ん中が横向き。やはりアイパッドが作業しやすく3枚とも正常。見ていただいてる方のなかに写真の位置がおかしなことになっているかもしれません、ご勘弁下さい。

さて、本題です。

この帯の各氏の推薦文に本に対する評価が集約されているかと思います。その一文に「黒田君は~。何よりも建築史研究に対する本質的な心構えを持って、」とありました。その意味を考えるうえで私は、本のなかのこの部分が参考になるのではないかと思いました。

それは、本の119頁に書かれていることで、黒田義さんの日記にある「日本建築史の方法論について」というメモの一部です。日記の日付は昭和10年12月20日。

 「現代の美術史学は、マルクス主義の歴史観から非常に大切な教訓を与えられている。    1 階級性の理解に関する考察が絶対に必要なこと(ここに住宅・民家史等の研究が示唆される)。2 経済生活との関連をより綿密に扱わなければならないこと(まだ未開拓、単に藤島博士の〈建築工匠技術に関する一研究〉〈工具の研究〉等あるのみ)。

注: アンダーライン部分は本では点が打たれています。

建築史などにはまったくの門外漢に過ぎないのですから、ここに書かれていることの意義を語ることはできません。しかし、昭和10年=1935年という時代にこの指摘を置いてみて考えることの意義は大きいと思うのです。

下の写真は日本で最初の『資本論』の完訳本、高畠素之氏訳のもので昭和7年刊です。この時代の考察のうえに立って検討すべきことと思います。とはいえ、自分の専門分野に科学的社会主義(マルクス主義)の理論の基本的視点の必要性を論じていることに感銘を受けています。(『資本論』は全5冊ですが、同じ装丁のME全集が入っています。)

   

この点だけでも妻・黒田康子さんから意見を聞いておくべきでした。

『資本論』の持ち主はこのブログでもつぶやきました、亡くなったWさんの蔵書にあったものです。このことについても近いうちに触れたいと思います。


告別は次への一歩。

2015-10-05 22:27:50 | つづきの海を はろば...

人の評価は棺を覆ってから定まる、とすれば今日から黒田康子(しずこ)さんとはどういう人であったかが現れてくるわけです、だとすれば誰によって表現されるのか。

同じようなことわざで、「昼は夜になってから、一生は棺を蓋ってから称えよ」と言われます。昼間執り行われました告別式について今つぶやくのはこのことわざにあっているというわけで、今日から「評価」が始まることも。

そこでまず式場に掲示されていた写真を昨日に続いて、やはり結婚式での写真を掲げるべきでしょう。昭和16年(1941)、夫義さんとの晴れ姿。

 

ひ孫の接吻?それとも内緒話、右側の青年が孫の史郎さんで喪主を務めました。父親であり康子さんの一人息子の忠夫さんはすでに亡くなっています。

 

7月の満100歳のお祝いです、ババちゃん100、とあります。

 

さて次は式場での写真ではありません。

逗子の地域史をみていく上で欠かせない基本史料になる「逗子市桜山石渡滋家文書」の第1集で、第3集まで刊行が予定されています。ここにも黒田さんが後の者に託した「仕事」があります。先に故人の評価は誰によってなされるか、と自問しましたがそれは故人が提起した課題を自らのものとし、追究する者の手によってなされるものだと思うのです。

もちろん、この史料集の刊行に限りません。郷土史全般、葉山地域史の研究の継承、「逗子葉山の九条の会」活動などなど、また戦争法廃止の国民連合政府実現への取り組みなどなどに黒田康子さんの姿は夫義さんと共にあらわれてくるに違いありません。

私もそのなかのひとりとして加わりたいと思います。


「黒田康子さん通夜」

2015-10-04 22:05:37 | つづきの海を はろば...

100歳を越えた人の葬式に参列したのは母方の伯父叔父の時と今回と三度になりますが、甥として参列した時より知人という立場で参列した今夜は感慨の異なるものを感じました。

その事は明日の告別式のあと触れたいと思います、とりあえずお通夜の写真を二枚。

 下の「知ろうとなさい!  考えぬきなさい!」は、

    7月12日《1年前の「女性自身」に》  で紹介した記事の写真です。

    黒田さんの私たちに対する遺言です。


黒田さん、亡くなりました。

2015-10-03 21:53:51 | つづきの海を はろば...

 百歳への「意志」  で紹介しました黒田さんが亡くなりました、7月に満百歳を迎えていましたから享年101歳ということになります。

7月5日の講演で話されたのが多くの人の前で話す最後であり、私も会場への送迎の車椅子を押しながらの会話と昼飯を近くの蕎麦屋で過ごした時間が最後でした。その後お会いせずに来てしまったのですが、元気なままの姿で残っていることが良かったのかと思います。

通夜と告別式の連絡をくれた人は、私を黒田さんの教え子だと言われました。私と付き合いの短いその人から見ればそう思われたかも知れません、光栄だと思います。長い教員生活でしたから多くの教え子がおられます、当然その人たちは先生と呼びます。私も周りの人と同じように先生と呼んできました。人生の先輩として郷土史の研究者として先生と呼ぶに相応しいことは間違いありません。

同時に20年を越える黒田さんとの付き合いで印象に残るのはその知的探究心でした。あわせて短歌集を著しているように感性の豊かで一面鋭い人でした。百歳までパソコンに向かっていたのも知的探究心好奇心などにもとづく、知的対象と人との交流を通じて常に学び取ろうとする生徒の立場でもあり、熱心な先生は熱心な生徒でもありました。

また、夫を戦地に奪われひとり子を育てつつ戦後の教職員活動に身をおき、地域の文化活動のリーダーの役割を果たされてきました。「逗子葉山九条の会」の中心的役割も発揮、九十歳過ぎまで会の駅頭宣伝に立っていました。

最後に写真を二枚、

   

これは7月5日の講演会で参加者に配られたものですが、もともと黒田さんが従来の観光案内パンフ等の各施設などの説明にもっと歴史的背景を加えたいとの発案で作られたものです。その右の頁に「神武寺」の項がありますがこれは私が書く分担でした。資料もいただき書いてはみたのですが当日うかつにも打ち合わせ会場を間違えて渡せなかったのです。その穴埋めを急遽やっていただいたのでした。

そのことをあとで知ったのです、お詫びもお礼も言わずのお別れになってしまいました。黒田先生、ありがとう御座いました。


地域の文化活動。

2015-10-02 22:07:50 | 葉山そして人

「てんがらもんラジオ」の昨日とその前の二回、鹿児島県での国民文化祭のことをとりあげました。そのことも頭にあって今日はこのチラシをアップします。

逗子市にある別荘の一つである旧脇村邸や徳川16代将軍になるべきだった徳川家達(いえさと)の別邸などをめぐり、あわせて逗子に関わりのある芥川賞作家の作品について思いをめぐらそうという企画です。

もう一つは葉山町にある旧東伏見宮別邸でのサロンコンサートの案内です。

実はこの内容についての話ではなく、この企画についての「問い合わせ先」について触れたいのです。山本の名前が両方に書かれています。今日彼に会う機会がありチラシを渡されながら、コンサートの方はともかくとして逗子には是非来てくれ、と頼まれました。私の関心ごとと懐具合をよく知っての誘いです。

その時の話で、地域文化と関係していると思ったのは、この二つの文化事業の目的は施設の保存活用にあるということでした。脇村邸の売却話が持ち上がった時、民間不動産会社の手に渡れば開発されマンション化する。湘南地域の良さを守りたいという運動が起こり、山本氏もその中心で活動しました。そのあと市が取得し、逗子市の郷土史関連の資料保存活用の施設へと案が出されましたが、現在まで具体化されていません。

そのことを常に意識して提起していくためには、このような取り組みが必要なのだという話でした。旧東伏見宮別邸は葉山町にあった宮家別荘の現存する唯一のものです。現在は修道院が経営する幼稚園として使われています。ここもまた保存活用が課題になっているのだ、ということです。

地域の文化活動が鹿児島にしても葉山逗子にしても、熱心な人の手によって支えられていることは共通しています、ただその山本氏にしても国民文化祭については全く知識も関心もない、というのが実態です。それだけに鹿児島の取り組みが成功裡に終わりその報告を視聴できればと思うのです。