さて、国立西洋美術館の後、向かった先は東京国立博物館だった。現在、平成館では「マルセル・デュシャンと日本美術」展と「京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」展を同時開催している。お得な2展セットのチケットを購入したものの、時間的にも体力的にも二つ観る余裕はない。
ということで、今回は「デュシャン」を観て、「みほとけ」は次回上京時に観ることにした。だって、デュシャンと長次郎の黒楽茶碗がどのように繋がるのか興味津々じゃぁありませんか(^^;
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1915
デュシャン作品はフィラデルフィア美術館から来ていた。
↑ 懐かしのフィラデルフィア美術館。映画「ロッキー」にも登場した階段。
マルセル・デュシャン《自転車の車輪》
で、本題である。マルセル・デュシャンの展覧会としては、画家としてのデュシャンの出発点からはじまり、大ガラスやレディメイドへの過程も含むデュシャン芸術の変遷と生涯をわかりやすくまとめた、かなり面白い展覧会だった。
現代美術苦手の私だってデュシャンは知っているし、作品もなんだかんだと観ているし、特にレディメイドのインパクトは美術史における革命だと思っている。でもね、今回は「マルセル・デュシャンと日本美術」と題されているのだ。
しかし、実際はデュシャン作品展示の後半部分に日本美術がほんの少し展示されているだけだった。デュシャン作品と展示された日本美術の関連を記す解説があるものの、美術ド素人の私にはどうしてもそれが無理やりのこじつけのように思えてしまったのだ。
確かに「時間」の捉え方として《階段を降りる裸体 No.2》と日本の絵巻物(今回は《平時物語絵巻》)を比較するのは(安易過ぎるが)納得もできる。
マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体 No.2》(1937年)
しかし、「400年前のレディメイド」として伝千利休《竹一重切花入 銘 園城寺》と長次郎《黒楽茶碗 銘 むかし咄》が展示されているものの、解説を読んでも作品を観ても、頭の悪い私には「意味わかんない」のだった(^^;;;
もちろん、利休の美意識が革命的だったことはデュシャンに通じると言いたいことはわかる。でもね、展覧会とは展示作品からそれを鑑賞者に納得させるものだと思う。そして、多分、私が困惑したのは、美意識における革命という意味では同じでも、目の前にある利休(伝)&長次郎作品が決して「レディメイド」では無く、一点ものの「特注品」であることが抜け落ちていることの不思議さにあったのだと思う。確かにどこにでもある竹を使ったものかもしれないけど、同じ花入れ(「竹」は植物)は存在しないのだよ。長次郎の楽茶碗は「手づくね」なのだよ。
長次郎好きの極私的感想を言わせてもらえば、「便器」も「黒楽茶碗」も同じ陶器だからと言って一緒になんかされたくないものだわ
※追記:東博のチラシを良く見たら、下記の対比となっていた。だからと言って感想の変更はないので悪しからず(^^ゞ
☆Q.花入と便器の共通点は? 《泉》:《伝利休 竹一重切花入》
☆Q.日常品がアート? 《自転車の車輪》:《長次郎 黒楽茶碗》
で、最後に蛇足ではあるが、せめて室町からの美意識(例えば東山御物など)の流れと利休の美意識の違いを、花入れと茶碗の例からだけでも展示してくれた方が親切だと思った。なにしろ、観客は通常の平成館展覧会とは違い、圧倒的に若者や外国人の方が多いのだから。