「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

7軒の家(10)相模湖から再び逗子へ

2007-11-24 18:09:15 | 家の遍歴

(この画像もまた妻の作品。渾身のフラワー・アレンジメント!)

相模湖の家が売れたら、新たに仕入れた逗子市沼間の土地に家を建てようと思った。さっそく横浜のいわゆる「輸入住宅」屋さんとコンタクトをとり、「相模湖の家が売れたらお宅で家を建てるから・・」という条件で、設計やらなにやらプランニングをお願いした。90年代半ばにものすごい円高があり、海外から建築部材を輸入することは非常に割安なことになった。輸入住宅なるものも、その頃からかなり一般的になって来た。ミーハーな私はそれに乗ったわけだ。

構法は枠組壁構法、つまりいわゆるツーバイフォー構法である。柱や梁や桁を組んで行くのではなく、いきなり壁がニュッと立ち上がる米国風のあの構造である。あちらではバルーン構法などともいわれるそうだ。箱をつくるような感じとでも言おうか。この設計を担当したのがY先生。ほとんど芸術家と漫才師の中間のような方で、大変面白い建築計画となった。あれこれアイデアが出て来た。そしてなんともしゃれた米国風でサイディングも眩い「輸入住宅」の設計図が誕生する。

しかし相模湖の家が売れなかった。売れないから、新しい家の設計図が出来ていると言うのに、その工事はお預けのまま半年以上が過ぎた。そして1996年の秋になった。

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7軒の家(9)相模湖から再び逗子へ

2007-11-23 12:01:57 | 家の遍歴
(画像はフラワーアレンジメント 妻の作品)

さあ引っ越そう、カラオケ・スナックから逃れようとは思ったものの、簡単ではなかった。1996年はもはや自分の家を売ろうにもなかなか売れない時代なのだ。土地は日本中で下がり続けていた。前回の買い替え(逗子市の家を売って相模湖町の家を買う)は、すでに説明したような状況下のものだったので、目一杯お金を借りたのだ。一方価格の下がった相模湖の家を売ろうと思えば、売り出し価格をかなり抑えねばならないので、それにより私が入手出来る資金では、私が抱えるローンの残債を返済出来ないのである。

またもや私は有能な不動産営業マンを探さねばならなくなった。

●新たな土地をローンで買う
●その時その土地の購入価格をはるかに上回る資金を借りる
●借りた資金のうち、新たな土地を買って余った資金で相模湖の家の売却損を償却する

そんなことが出来る土地購入取引をせねばならない。平成大不況のど真ん中、銀行は担保の掛け目をどんどん厳しくしている時にそんなことは可能なのか???

可能なのである。そういう土地があったのだ。抵当物件としての価値は高いが、取引価格は安い土地だ。借りた資金で、相模湖町の家の売却損を埋め合わせられる。私が見つけた有能な不動産営業マンはそんなことの出来る土地をみつけてきた。その土地は逗子市沼間の高台にあった。私は再び逗子市に引っ越すことを目指した。その土地を買った。そしてもし相模湖の家が売れたら、逗子市沼間の新しく買った土地に家を建てるつもりで相模湖の家を売りに出してみた。
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7軒の家(8)相模湖町

2007-11-17 11:11:19 | 家の遍歴

小高い丘の上。周囲を見渡せば畑と穏やかな山々が続く牧歌的な風景。我が家はそんなところにあるミニ開発の宅地にあった。周囲には我が家の土地と同じような面積の土地区画が並んでいた。畑が宅地になり同時期に売り出され、売れた区画から家が建ち上がって行く。最後までなかなか売れない区画もあった。我が家の隣の区画である。ちょっと条件が悪かったのだ。

その土地はいつまで経っても売れる気配がなかった。その土地が隣接する南側が高い斜面であるため、日当たりが悪くなってしまうことが原因だと思われた。ところがある日、その土地で基礎工事が始まった。やっと売れてそこに家が建つのである。たまたまそこを販売した不動産開発会社、つまり私もその会社から我が家の土地を買ったのだが、そこの社員がいたので聞いてみた。「やっと売れたんですね。どんな家が建つんですか」と。彼はやや答えにくそうに答えた。「あのぉ~なかなか売れなくて、ちょっと苦労しまして、やっと買い手を見つけました。普通の住宅が建つんですがね、一部をスナックにするんです。いや、普通の住宅なんですよ。防音装置などもばっちりですから騒音などはないし・・・」 なんと!この牧歌的風景の中、我が家の隣にスナックが誕生することになるのである。

最寄りのJR相模湖駅から5km近く離れ、公共交通は1日にそんなに本数がないバスだけ。そんなバスの停留所からえんやこらと5分ほど坂を上った小高い静かな住宅地。周囲は畑。遠くには山々。そんなところにスナックが出来てお客は来るのか。・・・それが、来るのである。しかも皆クルマを運転して。冗談のような話だ。

スナックと言えばカラオケ♪ これには参った。「防音装置」付きと聞いたが、そんなものは隣人である私にとって、役には立たなかった。酔っ払いのへたくそな歌が毎日聞こえる。騒音公害である。マリア・カラスやフランク・シナトラが歌ってくれるなら隣人の役得とも言えようが、お世辞にも上手いとも言えない、酔っ払いの歌の連続。またお客は出たり入ったりする。そのたびにスナックのドアが開いてしまう。「いらっっしゃいませぇ~」「またのご来店お待ちしてまぁ~す」という声とともに聞こえる、直接的で臨場感溢れるカラオケの大ボリュームの騒音。ひどい時はドアが開けっ放しになる。入り口で会話が続くのだろう。

酔っ払いどおしが外で会話することもある。席をはずしての密談らしい。携帯でどなっている酔っ払いもいる。ぐでんぐでんに酔って、道路で寝転んで大騒ぎしている奴もいる。警察も来る。隣人にとっては迷惑このうえない。たいてい10:00pm以降のことである。毎朝早く起きなければならない私には、大問題であった。

すべての酔っ払いがやがてはスナックから帰る。それが毎日深夜になるのである。完全に酔っ払っている。スナックの入り口では延々と大声で話が続く。「また来るよぉ~」「お願いしますぅ~」寝ている私はそのたびに起こされる。そしてその相当酔っ払った連中が次々とクルマに乗り込み、エンジンをかける音が暗闇に響き渡る。彼らは自分でクルマを運転して帰るのである。無事自宅に帰ることが出来るのだろうか。

あまりにひどい時は文句も言いに行った。でも無駄だった。法律はこんな場所のスナックを許しているのであるから、どんなに文句を言っても無駄なのである。文句を言えばスナック経営者から若干の謝罪はあるが、その後も同じことが繰り返されるのである。この国では土地の所有者がそこで何をしても自由なのである。周囲との関わり、という観点はないがしろにされがちである。自分のための生活環境を守るには、自分の家や土地だけではなく、法律も含め周囲との関わりが大事にされなければ無意味であることを実感した。致し方なく、またもや私は引越しを決意したのだった。1996年春のことである。
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7軒の家(7)相模湖町

2007-11-11 09:54:36 | 家の遍歴

相模湖町寸沢嵐に購入した土地は50坪弱。相模湖まで行ったわりには、たいして広くはない。下水はなく、浄化槽を設置するようなところだった。畑を住宅地に変えただけのところで、そこに7区画の土地が誕生し、分譲された。ここもまた建築条件付きの土地だった。

この物件を紹介してくれた不動産業者はかなりマナーの悪い会社だった。なにをするについても、いい加減なのだ。その不動産業者との協同作業で、ローンを借り、土地を買い、そこに家を建てるのは、がっかりさせられたりムカムカしたりと、相当ストレスがたまることだった。

そもそもバブル経済崩壊後不動産価格が激しく下がり続ける中、家を売り、新たに土地を買い、家を建てるというのは非常に難しい作業である。まず自分の持ち家を売らねばならない。これがなかなか思いどおりに行かない。思い通りの価格で売れないのである。一方ローンの残債があるので、売りの希望価格をやたらと下げるわけに行かない。

もしなんとか売れたとしても、下げ相場の中で家を買ってくれた稀少な人を待たせるわけには行かない。家をすぐ明け渡す必要がある。

しかしその時点で自分の新しい家はまだないのである。今度は大慌てで土地を手配し、そこに家を建てねばならない。借家を一時的に手配せねばならない場合が多く、我が家の場合もそうだった。しかもウチには犬がいたが、犬を屋内で飼うことを許してくれる家主は少ないのである。屋内で一緒に寝起きして来た愛犬を突然外飼いにするのは、彼(愛犬)にとって大変残酷なことで、とても私には出来ない。

またローン残債があるのに、無理して前の家を安く売却しているので、次の土地、家を手配するにあたり、ファイナンスがかなりきつい。値下がりする不動産に抵当権を設定し金を貸す、ということに、銀行はかなり慎重な態度をとり始めていたので、なかなか十分な金額を借りることが出来ないのである。

まあ、それでもなんとかなった。なんてことはない在来構法の建坪35坪ほどの4LDKの家が完成した。東京までの通勤はちょっと大変だったが、大型犬も飼い始め、周囲の環境に恵まれた生活をエンジョイ出来るようになったのである。
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7軒の家(6)相模湖町

2007-11-10 10:55:32 | 家の遍歴

信州麻績村のログ・ハウスに通うのは楽しかった。何せ遠いので時間もかかり、移動する時間帯によってはものすごい渋滞に巻き込まれたので、行き来はかなり体力を使った。生まれて初めて買った四輪駆動の車、パジェロのショートワゴン。もともとはアウトドア派の象徴のような車だった。しかし90年代に入ってディーゼル・エンジンは粉塵を撒き散らす環境破壊の象徴みたいになり、肩身の狭い状況に置かれた。しかしさらに時間が経つと、ディーゼル・エンジンは燃焼効率が良く二酸化炭素をあまり出さないエンジンとして環境に良い車と看做され、欧州を中心に復活の兆しがある。世の中わからないものだ。

私はさらに「田舎志向」強めた。自宅は当時逗子市小坪にあったが、そんな環境では物足りなくなった。別荘だけでなく、自宅ももっと空気の良いところに持ちたくなった。また年老いた私の両親は健在だったが、もし両親のどちらかが健康を激しく害するようなことがあれば、一人っ子である私は両親を引き取る必要があると、考え始めるようになった。逗子市小坪の家は両親を引き取るにはあまりに狭かった。1993年のことだ。地価は大きく下がり始めていたが、それでも当時の私にとってはかなり高いもので、逗子市内に私が買える十分大きな土地や家はなかった。

だったら別荘を売れば良さそうなものだが、それはしたくなかった。それで、長野県東筑摩郡麻績村にあるログ・ハウスに通うのに便利で、地価も安く、東京にある会社に雇われる私も「なんとか通勤できる範囲と」言えた(判断は人による。多くの人は同意してくれない)神奈川県津久井郡相模湖町(当時。現在は相模原市)に引っ越すことに決めた。相模湖町には、麻績村に行くのに必要な中央高速道の相模湖ICがあるのだ。

私が買うことを決めた土地は相模湖町寸沢嵐(スワラシ)という所にあった。「スワラシ」とはすごい名前だと思う。上の画像に移る橋が道志川を横切る道志橋。道志川は山梨県から流れてきて相模湖に注ぎ込む川で、その川を隔てて手前が神奈川県津久井郡津久井町で向こうが津久井郡相模湖町だった(当時。今はどちらも神奈川県相模原市)。土地は画像にある橋から歩いて6~7分のところにあり、逗子の家、麻績村の別荘に続き3軒目の家を建てるべく、私はそこの土地を買うことに決めたのだった。
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7軒の家(5)麻績村

2007-11-04 15:50:27 | 家の遍歴

(画像は八ヶ岳西麓のモミジ)

ログ・ハウスからはいろいろと教えられることが多かった。前回書いた輸入部材もそうだが、木について学ぶことが多かった。学ぶというよりも、ログ・ハウスを所有したことで、木について強い関心を持つようになったと言うべきか。

そのログ・ハウスはダグラス・ファーで出来ていたが、ほかにもウェスタン・レッド・シダーやスプルース、あるいはパインで出来たログ・ハウスもあった。国産のスギやヒノキで作ったものもあった。それぞれに特性があって木目、重さ、クセ、硬さ、腐りやすさなどが皆違うのである。

家具や室内材の種類にうるさくなった。オーク材(国産ならナラに近い)が大好きになった。木目がキレイで、硬いしっかりした木である。

ご存知の方も多いだろうが、丸太は乾燥すると縮む。長さはほとんど変わらない。径が細くなるのだ。細くなろうとして、パンッと縦に割れることが多い。丸太が細くなると、丸太を横倒しにして積んだログ・ハウスの壁は、その高さを失って行く。3mの高さに積んだ壁も20cmくらい低くなることがある。すると、建物に微妙な変化が現れる。窓やドアの開閉に問題が出る。1階の床から2階の床に至る階段はもっと大変なことになる。ログ・ハウスのビルダー達はそんなことは先刻承知で、その変化を事前に予想してログ・ハウスを建て、後でいろいろ調整をするのである。

そうした変化をいろいろ見ながら、当時の私は建物づくりの面白さを強く実感していた。塗料を塗りなおしたり、丸太の収縮で出来た隙間にパテを詰めて虫の侵入を防いだりした。ログ・ハウスの室内は薪ストーブの火でなんともまったりと暖まるものである。あれはなかなかコンクリートでは出せないものだ。

中央道の豊科ICで降りて一般道をトコトコ小一時間走って、ログ・ハウスのある麻績村の聖高原まで通うことが続いたが、そのうち中央道が伸びて麻績ICが出来てかなり便利になった。ますますログ・ハウスに通いつめることになったのである。
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