中島隆信著お寺の経済学を読み、その他の本や資料を読んで、「お寺ってそもそも何?」という記事を7月11日に投稿した。
江戸時代に徐々に成立したと思われる檀家制度が昭和の途中から崩壊し始め、観光寺への転身を目指す寺が増えているが、その多くは寺本来の役目から外れてしまっていると思われると私は書いた。
するとこのブログをお読みの私の中学時代からの友人であるウムキ君が、その投稿に関して以下のコメントをくれた。
貴殿と同じ中学に通っていた頃に読んだ小説ですが、どちらか忘れました。三島の「金閣寺」と水上の「金閣炎上」です。放火した修行僧が動機について語るセリフがありました。「金閣は禅寺ではありません。観光寺です・・・。」もう50年以上前なので詳細は忘れましたが、禅寺としての本来の姿を忘れ、観光寺としての存在を堕落とみたのかもしれませんね。
私もそんな小説の詳細を覚えちゃいない。そもそも私は三島由紀夫は読んでいても、水上勉は読んでいないのではないだろうか。そこでそれについて調べてみることにした。70年ほど前の金閣寺の放火の原因の一部が、その観光寺化であるかもしれないという話だからね。
しかし三島由紀夫と水上勉をまた一から全部読むのはしんどい。調べていると、「負け犬の遠吠え」を大ヒットさせた作家酒井順子さんが「金閣寺の燃やし方」という本を10数年前に出していることを知った。
すでに絶版なので古書で購入してみた。
三島由紀夫のファンである酒井順子さんは三島を丹念に読み始めるが、水上勉を読み、水上の生い立ちや作家としてのスタイルを追ううち、水上に惹かれて行ったようだ。
金閣寺の放火犯である林という男に寄り添い、林の人生をとことん調べ、林の理解者として振る舞っているのは、三島ではなく水上だ。三島は冷たい。
もっとも、放火犯の林に冷たいのは三島だけではない。宗教界やメディアが当時一斉に林の行為を批判した。酒井順子さんによれば、当時の記録を調べた限りでは、唯一同情的なコメントを寄せたのが清水寺の住職で、当時の仏教寺側の問題点を指摘していたという。
林と水上は、生まれ育った場所と、大人になるまでの育ち方や経験が非常に似ている。林も水上も日本海沿岸(京都府・福井県の県境近くのそれぞれ京都府側と福井県側)の寒村に生まれ、口減らしのために寺の小僧を若い時から勤めている。したがって水上は、金閣寺の小僧を務めた放火犯林がどんなに差別的で屈辱的な小僧というポジションにいて劣等感に苛まれていたかを、理解できるのである。
ウムキ君のコメントにあった「金閣は禅寺などではなく観光寺だ」と小説内で放火犯に言わせたのは、水上である。三島ではない。三島はその小説で、そこまで深く林を追ってはいない。
本来修行の厳しい禅寺であるべき金閣寺が観光寺に落ちて、そこにはお金が流れ込み、そこへは本来の檀信徒とは無関係な観光客がきゃあきゃあ言いながらやって来る。
そんな金閣寺で、華やかな観光客や贅沢な暮らしをする住職家族とは対照的に、寒村出身の林は他に働き口もなく差別的に扱われる小僧として厳しい労働環境に耐えていた。それが放火の動機のひとつでもあるとして、林の心情が理解できる水上は林に極めて同情的だ。
若狭地域の寒村は繁栄する都市京都に労働力や農林水産品を提供することで生きて来た。私が知るある人は西陣の生まれだが、西陣の織り子さんは若狭の人が多かったとおっしゃっていた。
そして1960年代からは若狭は原発銀座となって行った。そこで作られる電気がまた都会を支えている。原発を受け入れることで若狭は経済的に潤っている。
水上が書いた若狭路という本があって、酒井順子さんがそれを紹介していたが、すでに絶版なので、それも私は古書で入手した。
1960年代後半の本だ。すでに原発ができ始めていた時期だろうが、まだ豊かな地域とは言えない。
この若狭路という本の途中で、私は水上が京都の観光寺を揶揄している箇所を見つけた。
「発心寺(この地域の曹洞宗の禅寺)の道場は、観光寺院になり下がった京の禅寺より、厳格な法灯を守っていて、今日も、雲水(修行僧)が絶えない。信心を喪失した都びとに比べて、若狭人は帰依心も強くて深いのだ」と水上は書いている(↓)。
これは正に水上が彼の小説「金閣炎上」で放火犯に言わせた言葉と同じである。寺をよく理解していた水上自身の強い観光寺批判なのだろうね。
多くの観光寺が、本来あるべき寺の理想像から離れてしまっていたのだろう。京都には観光客が集まるがゆえ、早期からそれが酷かったのだろう。水上はそれを嘆いている。
寺本来の目的、つまりは救いを求める檀信徒に教義を教えることや、心のよりどころを提供する場所となることから寺が離れてしまい、動機がまったく異なる観光客を大量に呼び込み、お金を落とさせる場所に変わりつつあったということなのだろう。これは現在も拡大中だ。鎌倉の多くのお寺も同様だ。「葬式仏教」なんて言葉は仏教を揶揄する意味を含むと思うが、それって「観光仏教」よりはまだ良いとも言えるね。
こういう横つながりの読書のはしごとも言うべきものは楽しい。三島や水上についてのウムキ君のコメントから始まり、でも三島でも水上でもなく、酒井順子さんの本に入り、そこから水上の若狭路へ行くが、どちらも絶版で古書。そしてさらに先へ。
金閣寺のことを調べていると、久しぶりに梅棹忠夫先生(故人)の京都節を聴きたくなった。
この本は、1960年代から1980年代の先生の講演を集めたものだ。
いつも「京都にあらずんば・・・」みたいな雰囲気で話していた梅棹先生(笑)。
民俗学、文化人類学者。
京都大学の先生。そして国立民族学博物館 の先生として有名だね。
先生によれば「京都は観光都市なんてものではなく、そもそも観光を主産業にして食べてはいない。立派な産業都市であり情報発信を大量にしていて、それだけ人の働き場所もあり、優れた企業があり、大半の市民の生活は観光とは関係ないところにある」ということになる。
「むしろ観光なんて止めて頂きたい。このまま行ったら大変なことになる」と数十年前に先生はおっしゃっているが、2024年はそれが10倍くらいの規模ではるかに大変なことになっている(笑)。
あまり有効な手を打つことなく、そこから何十年も経った。そして今世紀に入ってしばらくしてから、日本は爆発的な観光大国になった。その先端を走っているとも言えるのが京都だ。
昔から梅棹先生は警鐘を鳴らしていたけどねぇ。
京都は都である。梅棹先生が繰り返しいろんなところで話したことだが、京都は今も首都なのである。なぜなら明治時代にどさくさに紛れて天皇は東京にちょっと行っただけで、その時正式な遷都令は出されなかったからだ。
梅棹先生の言葉は、京都外の人間からしたら鼻につくくらいにいやらしい京都中華思想に聞こえるかもしれない。
事実、本人もそう書いている(笑)。
梅棹先生は観光サービス業を提供するにしても、もっとハイレベルなものを目指せという。あまりに低俗なものが多いと嘆く。
大衆化による破壊ですね。
鎌倉も耳が痛い。
これは環境的な問題ではなく、文化的レベルの破壊の問題を論じたものだが。
古都保存法ってものがある。
その第二条にはこう書いてある。
この法律において「古都」とは、わが国往時の政治、文化の中心等として歴史上重要な地位を有する京都市、奈良市、鎌倉市及び政令で定めるその他の市町村をいう。
梅棹先生はこれが昔から二つの意味で気に入らなかった。
その1.
古都とは何か?かつて都であったという意味だろう。では都とは何か?天皇がおられる場所だろう。さて、鎌倉に天皇がおられたことは過去にあるか? 鎌倉はごく短期間幕府が置かれたに過ぎない小さな街である。だったらそこを含めて古都保存法と言う名称の法律を定めるのはおかしい。鎌倉は古都ではない。
その2.
遷都令もちゃんと出さなかったのだから、京都こそが今も都であるべきで、しかも京都は現在も拡大を続ける生きた大都市である。したがって京都は古都ではない。古いものを取り去ったらろくなものが残らない奈良や鎌倉と一緒にするな。
そのように梅棹先生はおっしゃる。1.は私も同感。2.はそこまで言わなくても・・・みたいな感じかな。しかし梅棹先生は面白いね。
私も1年間京都に通ったことがある。私はあろうことか大学受験に失敗した。そして浪人生活を送ったのである。親に頼んで予備校に行かせてもらった。市立町立府立の小中高から国立大学に行ったので、税金を目一杯利用していて、親にとって経済的にたいへん安上りな息子であったと思うが、予備校の1年間はちょっと余計な負担を親にかけてしまった。
その予備校が駿台予備校京都校だった。下の画像で黄色い丸のところがその場所だ。すぐ左下に巨大な二条城が見える。
拡大するとこんなところだ(↓)。黄色い丸が駿台予備校である。
私が駿台に入った時、この校舎(↓)は出来たばかりでピカピカだった。そこで1年間受験テクニックを学んだ。
そこへ通うには阪急電車に乗って、大宮駅で降りて、北へ北へと歩いて、ごらんのような立派な二条城(↓)の横の堀川通りを進んで行ったのだった。
毎日のことだ。
当時もっと京都のことを実地に学んでおけばよかったなあ。せっかくの機会だったのに。
今となっては遅いね。
お寺の話で思い出したが、こんなニュースがあった(↓)。
木材を建物に使うのはいいが、木材の使い方と使う場所とその後の維持の必要性を考えないといけない。寺社は古い木造建物が多いが、木材の使い場所と大屋根のデザインを間違えないから、何百年も持つ。この美術館は構造とは無関係な、まったく木材が不向きなところに木材をデザインとして大量に使っていて、それが崩れているという話だ。
隈研吾氏設計の美術館が劣化でボロボロに…改修費3億円に住民衝撃 ふるさと納税で修繕計画も賛否
建築家や工務店の多くは、受注することしか考えないからね。そりゃ仕事ですもの。基本的には施主である自治体が悪い。近い将来に起こる悲惨なことは簡単に予想できたはず。
このニュースによれば設計者の隈研吾氏は「保護塗料が当時(24年前)は今より悪かった」と言っているらしいが、そんなことはない。当時と今で木材保護塗料の性能はさほど変わらない。最初から屋根の上にただ杉材を並べることなど、先は見えている。当時も、そして今も、保護塗料を毎年塗っていたとしても国産杉材なんて腐って崩れる。世の中に多いウッドデッキと同じだ。定期的なメンテナンスや交換対応が財政的に可能ならば良い。しかしそうでないなら、最初から無理な仕上げだ。
話が変わる。
先週の日米株式市場は荒れていた。ドル金利は低下して来た。米国市場は米国経済の先行きに不安を感じ始めていて、今後の米国金融政策は緩和に転じるだろうとの確信を高めている。短期金利が大きく下がりはじめ、2年以上続いた長短(10年と2年)金利水準の逆転状態がついに解消した。金曜日終わりの段階で10年マイナス2年がプラス0.06%(左右の赤い丸)という状況である。
ここから数カ月あるいは1年程度したところから米国の景気後退が起るというのが過去に繰り返されたパターンだが、エコノミストの過半数は今回はそれはなく無事穏やかに経済が着地するとみている。
しかし市場は疑心暗鬼である。AI(人工知能)関連の株式が買われ過ぎな面があるのは確実で、それが米国株式市場全体を引っ張って来たものだから、そこからバブルがはじけるんじゃないかと恐怖感を持って見ている。
日本時間の金曜日夜から土曜日朝にかけて、米国株式市場は下げて行った。ドル金利が下がるものだから、円高にも向かい、したがって日本時間で夜間の日本株式先物取引が悲惨なことになった。
日本時間の土曜日朝の日経平均先物は、金曜日の日経平均の引けより3%強下げて終了している(↓)。
したがって明日9日(月曜日)の日本株はまずはそのあたりを目指すことになりそう。明日が楽しみだねぇ。そこからどう動くだろうか。