長勝寺(鎌倉市大町)の近くを歩いていて道の付き方や住宅地の形が不自然に見えたことから、水道みちのことを調べたと以前このブログに書いた。
ここで言う水道みちとは、海軍が神奈川県北西部の半原水源地(↓の地図の①)から横須賀海軍基地(③)まで水道を引いたその水道管が埋設された道路のことである(こうした水道はこの半原水系以外にも複数存在する)。
この水道は湘南方面にやって来て、藤沢、鎌倉(②)、逗子を抜け横須賀(③)に到達する。
今日はそのルートのうち、逗子市小坪から鎌倉市内の海岸橋交差点までの部分を確認するという風変わりな企画だ。
下の地図のとおりだ。右から左へ全部歩くよ。いや、その前に鎌倉駅から小坪隧道まで歩いているから、実際はこのルートの2倍以上を歩いていることになる。
この日は半そでシャツの上にこのげんべいのパーカーでちょうどいいくらいの気候だった。
ぽかぽかと春の陽射し。
稲村ヶ崎方面へ。
江ノ電に乗る。
まずは鎌倉駅へ移動する。
鎌倉駅東口に出た。
本覚寺を通らせてもらう。
妙本寺前を右折。
ぼたもち寺前を通過。
八雲神社前を通過。
別願寺前を通過。
安養院前を通過。
安国論寺前を通過。
このあたりはお寺の宝庫。
いつもの鎌倉市大町の散歩道だ。
これまでに何回ここを歩いただろう。
全部通過するだけで先を急ぐ。
安国論寺に隣接してあるのがこちら。
大黒堂という。
この中には大黒様が祀られているよ。
こういう道がたくさんあるのが大町だ。
県道から分かれて旧大町大路に入るところに、日蓮水を指し示す石標あり。
そのまま大町大路を名越の切通方向に行くと、これがある。
井戸だよ。
鎌倉五名水の1つで、日蓮乞水だ。
日蓮上人が逗子側から名越の切通を抜け鎌倉に入って、喉が渇いたからとここを杖でつつくと水が出た(ホンマか?)という場所よ。
そのまま通り過ぎてしまうようなところにあるんだけどね。
その隣が面白い。
石で囲われていて、この日蓮乞水と関係がありそうな場所なんだけど、どうも畑になっているらしい。
再度お見せしましょう。
さて、ここからはトンネルだらけ。
鎌倉市大町と逗子市小坪を行き来するのに、大昔は前に見える山を徒歩で上がって名越の切通を抜けたわけだが、今じゃクルマでその山の下にあるトンネルを抜ける。
3つのトンネルを抜けて行く。
途中、鎌倉市から逗子市へ入る。
これ(↓)が一番古い、小坪隧道。
あのオバケが出るとか言うやつね。
私は何十年も前からここを何度も通っているが、そんなの見たことがない。
土木学会選奨土木遺産だって。
かなり古いトンネルだ。
明治16年に掘り始められ、その後拡幅を経て、レンガを巻くことも行われ大正時代にまで工事は及んだと土木学会が言う。
オバケはともかく、非常に学術的にも価値あるトンネルだねえ。
そんなことは今回のテーマとは何の関係もない。
ここからがやっと今回の話が始まる。横須賀水道みちだ。
トンネルを逗子側に抜けたところ。ここは逗子市小坪。
下の画像で左に見えるのが学術的に有名な小坪のトンネル。
我々の目標は同じ画像の中央に見えるものだ。
そこは立入禁止。
すでに横須賀市水道局が出てきた。
ここは逗子市であるが、水道管を管理しているのは横須賀市なのだ。
海軍により神奈川県を斜めに横切って横須賀海軍基地まで引かれた水道は、戦後横須賀市の水道局によって管理された。
入ったらあかん!というので、フェンス越しに撮影。
拡大しましょう。
「名越送水管路ずい道」と書いてある。
この中を海軍の水道が通っているのだ。
本日はここ、鎌倉市・逗子市の境界の逗子市側から、鎌倉市内の横須賀水道みちを辿る。
下の画像の正面が小坪隧道で、上に見えるのが小坪の住宅地だ。かなりの斜面だね。
車歩分離すらない、恐ろしいトンネルを徒歩で歩く。
はい、無事抜けた。
やがて鎌倉市側に出る。
鎌倉市側にも名越送水管路ずい道の表示がある。
この中に入るな!との警告がある。
入ろうにも鉄柵があり、鍵もかかっている。
ここも横須賀市の水道局の管理下にあることが、大きく書かれているね。
説明するのが遅くなったが、もうこの半原水系の水道はすでに廃止になっているのだ。廃止になってからまだ10年経っていないが。
延々半原から横須賀の軍港まで53kmも海軍が水を引いた水道も役割を終えたのだ。
でも海軍の形跡は残っている。
これがそうだ。海軍の境界杭。標石とも。
戦後はそれを横須賀市の水道局が管理したので、これ(↓)もある。
水道の「水」の字だけが見える。
でも上から見ると「Y」が。YokosukaのYだ。
これも海軍の横須賀水道みちの標石。
結構残っているのよ。
家を建てるのに、標石に配慮した形跡がある。
面白いでしょ。
さすがに潰すのはためらわれたらしい。
ここにも戦後の横須賀市の水道局の名残がある。
アスファルト工事で大半が埋まってしまったらしい。
辛うじて、横須賀の「賀」の字の下に「水」の文字の上の部分だけが地表に出ている。
あちらはご存じ邦栄堂製麺さん。
今回の話とは関係ないが、古い郵便ポスト。
このポストは半分は公道、半分は私有地内にあり、半分がブロック塀に埋もれているという珍しい景色。鎌倉では標石もポストも、なんでも中途半端に埋もれるのである(笑)。
ここで海軍の水道みちは、県道から分かれる。
真正面の通りが水道みちで、その下にその水道管があるのだ。
長勝寺(↓の画像の左手)横を行こう。これが水道みちだ。
ここが前回不思議に思ったところ。
左側が昔からあった道。右側があとから海軍が作った水道みち。
間に恐ろしく細い土地が残った。
細い敷地に家が建ち、水道みちに沿って1列に並ぶ。
古くからの道と水道みちの間は、これくらいの距離だ。
ここにも標石がある。
あっちにも。
ここなんて、相当手厚く配慮されて残っている。
かなり歪んで立っているけどね(笑)。
ここにもね。
これが面白い。
妻が発見した。
ほとんど全部埋もれている。
もうちょっと配慮してほしいね。
こちらはしっかり残っている。片足載せて妻がポーズをとっている。
海軍に叱られるよ。
ここが水道みちのど真ん中。水道路交差点。
こういうところだ。
近くに同名のバス停もあって、有名なスポット。
そのすぐ近くにあるのがこちら。
盛華園(鎌倉市材木座の店)だ。
盛華園は鎌倉市内に3店舗ある。極楽寺、西鎌倉、そしてこの材木座。
ここに初めて入った。
メニューは豊富。
私はサンマーメンを食べ、妻は五目うま煮そばを食べた。
サンマーメンはこちら。
麺は細いストレート。
お腹がいっぱいになったら、続きを。
水道みちをさらに進む。
ここにも標石があるよ。
歩きながらかなり目を使わないと通り過ぎてしまうね。
こちらは現役のお風呂屋さんで、清水湯。
さあ、かなり来たぞ。
ほら、またあった。標石が。
海軍、海軍。
今日は海という字をたくさん見る日だね。
ここ(↓)で水道みちが終わっているかのように見える。
その前に、下の画像の右下の赤い破線で囲んだところを見よう。
これだ。
これは貴重だよ。
標石と同じく、二重の波のマークだ。その下には錨。
右から「安全弇」とある。安全弁のこと?と思うが、弁の旧字は辯だ。しかし弇も、辯と並行してバルブ(弁)を指す言葉として使われた字であるらしい。
反対側は二十波と錨のみ。
何度も見せちゃう。
鎌倉の産業遺構と言えるね。
こういうのをもっと楽しみましょうよ。
さて、再び同じ画像だ。
海軍が引いた水道管は当然ながら、まっすぐこの行き止まりの道を、向うへと通じている。
しかし向うは現在私有地で、その向こうにフェンスがあり、そのさらに向こうは鎌倉の中心を流れる滑川がある。
だからここへは入れない。
しかしそのフェンスをよく見ると「横須賀市水道局」の文字があり、ここを通り抜けて向うに水道管があることがわかる。
道はこの私有地を前に、左に折れ曲がる。
Googleの空撮画像で見ると分かりやすい。
道路の下に埋もれていた水道管は、滑川ではその上を通るため、目に見える形となる。赤い四角で囲った川の上の二本の管の内、上の方が海軍が引いた水道管だ。
その管は再び地下へと潜り、そのままシーサイドコート鎌倉若宮大路というマンションの南の私道(黄色い四角で囲んだところ)を抜けて、左の海岸橋交差点へ至る。
これがマンションの南側、地下を水道管が通る私道を海岸橋交差点から見たところだ。
これがシーサイドコート鎌倉若宮大路という長ったらしい名前のマンション。
このマンションが90度以上屈折しているのも、その南に水道管の埋設された私道部分があったから。
先ほど見た川の上空を渡る管(「鉄管橋」と呼ぶ)の橋を、地図で見るとこうなる。
我々はその管には近寄れず、V字のように道路を曲がり、鉄管橋の南で滑川を渡る海岸橋から、鉄管橋を見ることになる。
これ(↓)がそうだ。
管は2本あることを先ほど上空から見た。
残念ながらこの海岸橋から見ると、海軍が引いた水道の管は向う側の管であり、それは手前の管が邪魔していて、見えない。下の番号で②と書いた橋げたが、海軍が引いた水道の管をささえるものだ。
海岸橋の向うには海岸橋交差点がある。
いかがでしたか。
ここから先は海軍の形跡を示すものが少ない。その水道管は長谷を通り、大仏の横を通り、やがて藤沢へと抜ける。
我々は若宮大路を抜け、鎌倉駅へと向かった。
本日の旅はこれで終わり。
お寺を見るより面白かったでしょ。