臨済宗のお寺って、鎌倉市内にはいっぱいある。
建長寺を第一位とする鎌倉五山も全部臨済宗なのだけれど、五山以外にもたくさん臨済宗のお寺があるからね。
海蔵寺や瑞泉寺や報国寺なんてのもそうだよ。
五山トップ、第一位は建長寺ね。
鎌倉幕府執権の北条時頼が、当時常楽寺(北鎌倉と大船の中間あたりにあるお寺)にいた蘭渓道隆(宋から日本に来た臨済宗の高僧)を開山として迎えて、北条時頼が開基となり1253年に建てたお寺が建長寺だ。
日本から宋へ来た留学僧たちから、日本で臨済宗がなかなか定着拡大しないことを聞いた蘭渓道隆は、その状態を何とか改善しようとして日本にやって来た。
その彼の宗教的野心と、何か新たなもので人心を捉えたかった北条時頼の政治的野心がコラボして、見事に出来上がったのが建長寺。日本で最初の専門的な禅の道場になる。だから建築物全体の並び方からして直線的で極めて大陸的禅宗様式を踏襲し、今もそれは変わらない。
第二位が円覚寺。
第三位が寿福寺。
第四位が浄智寺。
第五位が浄妙寺。でもこのあたりは、住所表示は鎌倉市浄明寺ね。
海岸や岬を表す名前としての書き方は昔からそして今も七里ヶ浜、由比ヶ浜、稲村ヶ崎だけれど、それを利用した現在の住所区分では、七里ガ浜、由比ガ浜、稲村ガ埼と書くね。
なぜそうしたのだろうね? ださいよねぇ(笑)
蘭渓道隆を開山とする建長寺は日本で最初の禅の道場となった。そして往時は修行僧が1,000人くらいはいたらしい。
しかし話を混ぜ返すようだが、臨済宗を日本に最初に持ち込んだのは蘭渓道隆ってわけじゃない。
臨済宗も古くから細々と日本に伝わっていたと思われるが、最初にそれを広く伝えたのは栄西(ようさい、えいさい)である。
栄西は宋で学んだ日本の僧だ。
とても立派な人だったらしい。「寺の建物など流されてもかまわない」と言っているね(↓)。
既存の権威など興味を持たない、ただ禅の修行があれば良いという気持ちだったのでしょう。
栄西によるこうした臨済宗(あるいは禅宗)の普及の努力は、比叡山などの仏教的な巨大既得権益からすれば余計な新興勢力であり、その筋からは相当横やりが入った。
それでも栄西はまずは最初に、福岡県に臨済宗の寺として聖福寺を建てた。頼朝から頂いた土地に1195年に建てたらしい。
聖福寺といえば、我が家から至近距離(鎌倉市稲村ガ崎5丁目)にも、聖福寺跡がある(↓)。
我が家の近くの聖福寺はのちに北条時頼が建てたもので、それと福岡県に栄西が建てた最初の禅寺である聖福寺は何か関係があるのだろう・・・なんて私は以前思っていたが、この二つの同名のお寺はお互いまったく無関係。
我が家の近所の聖福寺の聖と福の字は、北条時頼の二人の息子のそれぞれの名前からとったもので、それら息子が無事に成長することを時頼が願ってつけた名前だ。権力者のなんとも個人的な動機が名前になっている寺なのである。
それに対して、福岡県の聖福寺は、仏教界の既存勢力にたてつくくらいの死に物狂いの気持ちで、栄西が建てた臨済宗最初の禅寺。鎌倉幕府のバックアップはあったものの全面的なものではなく、その時点で栄西は比叡山を恐れる必要があった。
その後栄西は東へ進み、臨済宗の寺として京都に建仁寺そして鎌倉に寿福寺(↓)を建てる。政子のバックアップもあった。
しかしこれも比叡山に遠慮しながらのことだったらしい。堂々と臨済宗が活動できるのは北条時頼の全面的バックアップを得て、中国僧の蘭渓道隆を開山とする建長寺が1253年に開かれてからだ。
ということで、建長寺に先立ち栄西が建てた鎌倉五山第三位の寿福寺が鎌倉五山の中では一番古いのだ・・・と思ったらそれも正しくない。
鎌倉五山で一番古いのは、意外にも第五位の浄妙寺である。当初は臨済宗の寺ではなかったのだけれどね。
鎌倉幕府の全面的バックアップを得た建長寺の開山、蘭渓道隆のポジションは極めて安定的だったのかというと、これまたまったくそうではない。
北条時頼が建長寺開山に据えた蘭渓道隆は中国僧だが、彼はたまたまその時に日本(建長寺から近い常楽寺)にいたに過ぎない。時頼が蘭渓道隆をわざわざ中国から招いたわけではないのだ。
やがて建長寺が成功し禅寺として隆盛を極めることが確実になった時、時頼は宋から高僧、兀庵普寧 を建長寺に招いて管長に据えている。蘭渓道隆に続き、その兀庵普寧 が建長寺二世だ。そのあたりの細かい事情は、この冊子(↓)に数名の専門家が書いておられる。
蘭渓道隆としては建長寺をいったんは去る。またあとでまた建長寺に戻るらしいが。
蘭渓道隆も苦労しているんだね。権力者に翻弄される。しかし蘭渓道隆も兀庵普寧も穏やかな中国僧だったらしく、それほどのトラブルにもなっていない。またそのころには開山蘭渓道隆のもとで修業した僧の数も相当な数になっており、蘭渓道隆を支持する一大勢力になっていたようだ。
話が変わるが、私は最近城山三郎著の歴史小説「落日燃ゆ」を読んだ。二度目、約40年ぶりの読書だな。
感動的なもんだ。福岡県の石屋の息子として生まれた広田(旧字は廣田)弘毅の物語である。
その後外交官になり、外務大臣や首相を務め、第二次大戦へ日本が巻き込まれることを阻止しようと苦闘したものの結局かなわず、文官として唯一A級戦犯となり絞首刑。
弘毅は改名後の名前だ。親がつけた名前は丈太郎。
彼は幼いころから菩提寺である禅寺で座禅を学んでいた。
のちには改名が許されるよう、その菩提寺の禅僧に相談し、僧籍に入れてもらい丈太郎から弘毅へと改名した(それ以外に改名する手段がなかった)。
その菩提寺が、先にご紹介した福岡県の聖福寺である。
栄西が日本に初めて作った禅寺だ。鎌倉五山と同じく臨済宗の寺である。弘毅や弘毅の妻や両親の墓も、そこにある。
【聖福寺(福岡県)のホームページより】
くどいうようだが(笑)、この聖福寺は、北条時頼が建てた我が家からすぐ近くにある聖福寺(↓)とは何の関係もない。
墓はこの福岡県の聖福寺にあるものの、広田弘毅の遺灰は遺族の手に移っていない。なぜなら当初A級戦犯はそれが許されなかったからだ。
弘毅が生前巣鴨プリズンに収監されている間に、その頭髪や爪が家族に渡されていたので、それが福岡の墓に収められている。
弘毅は鵠沼の松林の中に別荘を持っていたらしい。一時期はそこが本宅になる。弘毅の妻である静子は弘毅の収監中にそこで服毒自殺している。
1955年5月7日の産経新聞の記事だ。
資料/フロム・ザ・モルグ
から、クレジットを記入すれば頂けるということなので、頂いた。
政府は戦後10年経った時点で、他の戦犯の遺灰と混じってしまっているがそれを「弘毅の遺灰」として遺族に渡そうとしたらしいが、広田弘毅の遺族はそれを拒否している。
怒ってすらいる。私は遺族がそれを拒否することもわかるような気がする。
「他人様の骨をいただけません」という表向きの理由とは別に、政府が遺族に引き渡そうとした遺灰のほとんどは、広田弘毅が何とか止めようとして止められなかった第二次世界大戦に、日本を引きずり込んだ人たちのものであるからだ。「一緒にされるのは困る」というのが遺族の本音なのだろう。
広田弘毅の長男である広雄さんは、日本の貿易振興のために設立された外国為替専門銀行である横浜正金銀行に第二次世界大戦前から勤め、戦後それが解体され東京銀行に改組されてからもそこへ勤めていたらしい(↓の画像の左端)
なんと、私の大先輩にあたるわけだわ(私はその東京銀行に1983年に入行したから)。
こちらは横浜馬車道に今も残る旧横浜正金銀行本店である(今は神奈川県立歴史博物館になっている)。
「他人の遺骨なんて要らない」と怒る長男の弘雄さん。
そこからさらに何十年かの時が過ぎ、近年になって米国のある公文書が発見された。これまでもそう伝えられて来ていたが、広田弘毅を含む7人のA級戦犯の遺灰は米軍によって太平洋に散骨されたことが確認されたのだ。
それとは別に当時こっそり日本人によって一部持ち出されたらしい7人の遺灰が伊豆と愛知県に眠っているらしいが。後者の話は米国の公文書にはもちろん掲載されていない。
弘雄さんの息子であり、弘毅の孫にあたる広太郎さんはかつて三菱商事に勤務されていたらしい。昨年お亡くなりになられた。その少し前に動画が撮影されている。
A級戦犯 遺骨の行方に遺族は【news23】
これが広田家遺族の気持ちということなのだろう。
もっと詳しい動画はこちらだ。
太平洋に撒かれたA級戦犯の遺骨 【報道特集】
私も最近鎌倉市内で偶然広田弘毅に関するある事実を発見したが、その内容はここには書けない。
あちこちに迷惑がかかるだろうからね。
それに気づいた時はかなり驚いた。
調べているといろいろとあるものだと思うわー。
歴史は面白いねぇ。