昨日用事があり朝から都会に出た。毎日ほとんど遠足気分の江ノ電とは異なり、JRは大船からあたりから先、東京寄りになって来ると車両内は混雑し他人と密着して皆殺気立っている。都内の駅で電車を降りるとホームは人の渦だ。インフルエンザも流行るはずである。街を歩くととにかく暑い。緑がない。エネルギー浪費気味の新しい巨大なビルはガラスが多用されていてかつ密閉されている。中はIT機器の熱と昼間の蛍光灯と大量の人間が発する熱で大変だから、空調を動かして外に暖気を排出し続ける。大量のクルマが化石燃料を燃やして地球温暖化に直接的に貢献している。クルマが多いし海もないから排気ガスが飛ばずにビルの間で滞留する。エンジンやエアコンの排気は熱風である。道路も歩道も皆コンクリートかアスファルトだ。ちょっと奥に入れば住宅街もあるが、やはり23区内は昼間の気温上昇が激しいのか、エアコンを利用する家庭が多いようだ。皆自分勝手に内側だけを涼しくしてその分外気を温めているのだ。あああぁ~、地球温暖化もむべなるかな。
兼好法師は徒然草の五十五段で「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比わろき住居(すまひ)は、堪へがたき事なり」と書いた。おっと「またその話かいっ!」という声が聞こえそうだが、何度も書く。少なくとも、日本の関東以西以南で作る家は夏をむねとすべきであると私は考える。建築家や施主の中には、兼好法師を「建築にあまりに無知」とする人も多いようだが、私は兼好法師のサポーターである。
バラックで屋根は薄いトタンだけ、隙間風ピューピューという家なら別だが、現代の新築住宅ではそれなりにお金を出せば、とりたてて豪奢でなくても「夏暑く、かつ冬寒い」状態は避けることは可能だ。しかし空調を考慮しない場合、「夏涼しく、冬暖かく」というオールマイティな状況は万全には実現出来ない。実際にあるのは・・・
①「夏の暑さを抑えたけれど冬はその分寒い」
②「夏の暑さはひどいがその分冬の寒さはマシ」
③「①と②の間のどこか」
であり、そこから選ぶことになる。私ならこれまでの説明からわかるとおり①を選ぶ。
冬に寒い室内を温めることは太古からの自然な行為である。しかし②の「夏暑い」家をつくれば、夏ともなると室内温度はデタラメに上がってしまう。空調で無理やり気温を下げると室内は涼しくなるが、その分の暖気を隣接地や道路に向かってそのまま排出せねばならず地球環境的には自殺行為だ。ますます外気温が上がり、室内を冷やすのにますますエネルギーを使い、それはますます外気温を上げ・・・という悪のスパイラルに等しい。それをなるべく避けようと「冬は多少寒いけれども、夏は結構涼しい」という建物を私は選び実現したが、どうもそれは変人的行為であり賛成者はほとんどいないらしい。
さてすでにご存じの方もおられようが、その変人的行為の内容は以下のとおり:
①採光を絞る、窓を小さくする、履き出し窓をつくらない
②窓のスグ上に軒あるいはそれに代わるものを出す
さらに家の中で最も多くの時間を過ごす場所については以下のとおり:
③床はタイルで、タイルのスグ下から地面までかなりの厚みでコンクリートを入れる
④天井を高くする
この4つで夏でも相当涼しい家が出来る。昨日午前中は気温が上がり続け七里ガ浜の我が住宅街で交わされる挨拶は「暑いですねぇ」だったが、申し訳ないけれど我が家の中は実に涼しい。
私の自宅のような家を指して「最近窓が小さい家をよく見かけるけど、あんなの暗くて嫌だわ。私はとにかく明るくないとダメなの」とおっしゃる方が多いのはよく存じ上げている。確かに上記①と②により採光は限定的になる。しかし意外に聞こえるかもしれないが、よく考えると、この採光や通風に係わる開口部についての私の考え方は、日本古来の建築の発想と変わらない。歴史的に見ると、近年日本で建てられている住宅こそが「変わっている」のである。日本古来の住宅建築の発想は、ものすごく大雑把に言うと2つに分かれると思う。私の勝手な2分類は以下のとおり:
(a)立派な武家屋敷、農家、桂離宮方式
開口部がデカイ。障子を全部開けると柱以外は全部開口部となる。しかし当然ながら雨の吹き込みを避けるため、その外側に縁側や外廊下があり、その上には軒が被っていてさらにその外まで軒が長く伸びている。中から外を見るとやたら明るいが、やはり直射日光は室内の畳に届くことはない(そんなことしたら畳が日焼けする)。中は薄暗いのだ。
(b)街中の町屋、長屋方式
通りに向かって(a)方式のようなデカイ開口部を設けることは安全面あるいはスペース的に難しく、表側から見た開口部は非常に小さくなる。加えてその直上に軒や庇が出るので中は薄暗い。
ほらね。でしょう?
最近の日本の住宅は採光をmaximumにしようと開口部を大きくする。履き出しの窓をつける。軒は小さいか軒自体がない家も多い。あるいは1階と2階の間に屋根がないことも多い。そうだとすると軒が多少なりともあっても1階の窓のはるか上にあるだけだ。したがって、ここが重要だが、屋内の壁や床を直射日光が直撃してしまう。温暖化が騒がれるこの時代に、夏は室内気温が激しく上昇する家だ。そしてその状態は、日本古来の(a)方式でも(b)方式でもない。
私の自宅は(b)方式に近い。(a)方式を取るほどの余裕が、敷地面積的にも建築資金的にも私になかったからだ。出来る事なら(a)方式の家を持ちたいと思う。
日照的に夏涼しいだけでなく我が家の方式のメリットがもう一つある。蒸し暑く雨の多い時期の通風にも便利なのだ。履き出しの窓は雨が降るとスグ閉めないと雨が室内に吹き込む。履き出し窓でなくとも軒がスグ上になければ、やはり雨が吹き込む。ところが一番上の画像ような状態の窓と軒の関係が確保されれば、横風が吹き雨が降っても窓は開けっ放しでいられる。窓を閉めれば途端に蒸し暑くなるこの時期、室内の湿度と温度を下げるために空調に頼ることを極力減らすことが出来るだろう。環境的にも、軒と開口部の関係を考えることは重要だと思う。
夏の涼しさを確保したことによる我が家の代償は「冬寒いこと」と「期待面積を喪失した(天井を高くして吹き抜けを設けることを止めれば2階に1部屋設けられたが、それを諦めた)こと」である。
寒いのは着込めばなんとかなる。しかし裸以上に脱げないので蒸し暑いのはどうしようもない。兼好法師が「夏をむねとすべし」と書いた頃より現代の関東以西以南は確実に暑いし、将来はさらに、ますます暑くなりそうだ。地球環境の観点からはエアコンは、自宅内と外という狭い意味ではあまりに利己的であり、巨視的に見れば自虐的な道具である。住宅雑誌に掲載される最近の日本の住宅の多くは、私にはまったくアンチ-エコ的に見える。庇、軒あるいはそれに代わるモノがまったくなく、開口部だらけの家が多いのだ。
兼好法師は徒然草の五十五段で「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比わろき住居(すまひ)は、堪へがたき事なり」と書いた。おっと「またその話かいっ!」という声が聞こえそうだが、何度も書く。少なくとも、日本の関東以西以南で作る家は夏をむねとすべきであると私は考える。建築家や施主の中には、兼好法師を「建築にあまりに無知」とする人も多いようだが、私は兼好法師のサポーターである。
バラックで屋根は薄いトタンだけ、隙間風ピューピューという家なら別だが、現代の新築住宅ではそれなりにお金を出せば、とりたてて豪奢でなくても「夏暑く、かつ冬寒い」状態は避けることは可能だ。しかし空調を考慮しない場合、「夏涼しく、冬暖かく」というオールマイティな状況は万全には実現出来ない。実際にあるのは・・・
①「夏の暑さを抑えたけれど冬はその分寒い」
②「夏の暑さはひどいがその分冬の寒さはマシ」
③「①と②の間のどこか」
であり、そこから選ぶことになる。私ならこれまでの説明からわかるとおり①を選ぶ。
冬に寒い室内を温めることは太古からの自然な行為である。しかし②の「夏暑い」家をつくれば、夏ともなると室内温度はデタラメに上がってしまう。空調で無理やり気温を下げると室内は涼しくなるが、その分の暖気を隣接地や道路に向かってそのまま排出せねばならず地球環境的には自殺行為だ。ますます外気温が上がり、室内を冷やすのにますますエネルギーを使い、それはますます外気温を上げ・・・という悪のスパイラルに等しい。それをなるべく避けようと「冬は多少寒いけれども、夏は結構涼しい」という建物を私は選び実現したが、どうもそれは変人的行為であり賛成者はほとんどいないらしい。
さてすでにご存じの方もおられようが、その変人的行為の内容は以下のとおり:
①採光を絞る、窓を小さくする、履き出し窓をつくらない
②窓のスグ上に軒あるいはそれに代わるものを出す
さらに家の中で最も多くの時間を過ごす場所については以下のとおり:
③床はタイルで、タイルのスグ下から地面までかなりの厚みでコンクリートを入れる
④天井を高くする
この4つで夏でも相当涼しい家が出来る。昨日午前中は気温が上がり続け七里ガ浜の我が住宅街で交わされる挨拶は「暑いですねぇ」だったが、申し訳ないけれど我が家の中は実に涼しい。
私の自宅のような家を指して「最近窓が小さい家をよく見かけるけど、あんなの暗くて嫌だわ。私はとにかく明るくないとダメなの」とおっしゃる方が多いのはよく存じ上げている。確かに上記①と②により採光は限定的になる。しかし意外に聞こえるかもしれないが、よく考えると、この採光や通風に係わる開口部についての私の考え方は、日本古来の建築の発想と変わらない。歴史的に見ると、近年日本で建てられている住宅こそが「変わっている」のである。日本古来の住宅建築の発想は、ものすごく大雑把に言うと2つに分かれると思う。私の勝手な2分類は以下のとおり:
(a)立派な武家屋敷、農家、桂離宮方式
開口部がデカイ。障子を全部開けると柱以外は全部開口部となる。しかし当然ながら雨の吹き込みを避けるため、その外側に縁側や外廊下があり、その上には軒が被っていてさらにその外まで軒が長く伸びている。中から外を見るとやたら明るいが、やはり直射日光は室内の畳に届くことはない(そんなことしたら畳が日焼けする)。中は薄暗いのだ。
(b)街中の町屋、長屋方式
通りに向かって(a)方式のようなデカイ開口部を設けることは安全面あるいはスペース的に難しく、表側から見た開口部は非常に小さくなる。加えてその直上に軒や庇が出るので中は薄暗い。
ほらね。でしょう?
最近の日本の住宅は採光をmaximumにしようと開口部を大きくする。履き出しの窓をつける。軒は小さいか軒自体がない家も多い。あるいは1階と2階の間に屋根がないことも多い。そうだとすると軒が多少なりともあっても1階の窓のはるか上にあるだけだ。したがって、ここが重要だが、屋内の壁や床を直射日光が直撃してしまう。温暖化が騒がれるこの時代に、夏は室内気温が激しく上昇する家だ。そしてその状態は、日本古来の(a)方式でも(b)方式でもない。
私の自宅は(b)方式に近い。(a)方式を取るほどの余裕が、敷地面積的にも建築資金的にも私になかったからだ。出来る事なら(a)方式の家を持ちたいと思う。
日照的に夏涼しいだけでなく我が家の方式のメリットがもう一つある。蒸し暑く雨の多い時期の通風にも便利なのだ。履き出しの窓は雨が降るとスグ閉めないと雨が室内に吹き込む。履き出し窓でなくとも軒がスグ上になければ、やはり雨が吹き込む。ところが一番上の画像ような状態の窓と軒の関係が確保されれば、横風が吹き雨が降っても窓は開けっ放しでいられる。窓を閉めれば途端に蒸し暑くなるこの時期、室内の湿度と温度を下げるために空調に頼ることを極力減らすことが出来るだろう。環境的にも、軒と開口部の関係を考えることは重要だと思う。
夏の涼しさを確保したことによる我が家の代償は「冬寒いこと」と「期待面積を喪失した(天井を高くして吹き抜けを設けることを止めれば2階に1部屋設けられたが、それを諦めた)こと」である。
寒いのは着込めばなんとかなる。しかし裸以上に脱げないので蒸し暑いのはどうしようもない。兼好法師が「夏をむねとすべし」と書いた頃より現代の関東以西以南は確実に暑いし、将来はさらに、ますます暑くなりそうだ。地球環境の観点からはエアコンは、自宅内と外という狭い意味ではあまりに利己的であり、巨視的に見れば自虐的な道具である。住宅雑誌に掲載される最近の日本の住宅の多くは、私にはまったくアンチ-エコ的に見える。庇、軒あるいはそれに代わるモノがまったくなく、開口部だらけの家が多いのだ。