麻績村に土地を買う作業と同時に、建物を建ててくれるビルダー探しが始まった。どんな建物にするかでずいぶん悩んだが、当時爆発的ブームを迎えつつあったハンド・カットのログハウスに決めた。直径30cmくらいあるダグラスファー(米松)の皮を剥き、横倒しに組み合わせて積み上げる構法だ(画像のとおり。この画像は私が当時建ててもらったもの・・・ではなくて、山梨県のビルダー、ブレイスさんのHPから頂いたもの)。
1990年に土地を買うと同時に、建物工事も契約した。山梨県八ヶ岳南麓にサイトを持つK氏が率いるS社に建築をお願いした。K氏は多才な方だった。単にログ・ビルダーというだけでなく、都会人が憧れるカッコいい田舎暮らしを実践した人だった。元コピー・ライターで、著書も多数出版されていた。S社はどんどん発展してあらゆる構法のログを建築し、それを反映して社屋も大きくなった。その後さらにイタリアン・レストランも併設するまでになった。
K氏とのおつきあいも楽しいものだったが、ログ・ハウス建築に関わることにはもうひとつのメリットがあった。今や様々な海外の建材や部品が日本に安価に大量に輸入されるし、いわゆる「輸入住宅」がやたらと建てられている。しかし当時はそうしたモノがかなり珍しかったのだ。ログ・ハウスの見た目は、建具や部材が日本風ではミスマッチである(それもたまには良いが)ことから、ログ・ハウスのビルダー達は早くから、様々な建築部材を輸入していたのだ。
今から17年前のMarvin社の木製二重サッシとの出会いは、私にとってショッキングなものだった。室内外温度差35℃以上で結露なし、気密性の高さ、木製で堅牢なスッキリしたデザイン。他にもドア、照明、階段手すり、床材、台所のシンク等、私にとっては珍しいものばかり。カッコ良く、日本製よりも質感が高く、しっかり作られていて安い。
やがて無事に「堂々たる」丸太の「小さな」ログ・ハウスが完成した。1991年の夏のことだった。私は逗子市小坪の自宅から週末ごとに時間をかけてせっせと通うこととなる。シッケンズという塗料(表面に半被膜をつくる持ちの良い木材保護塗料)を、自分でも塗ってみたりして良いメンテナンスを心がけると、なんとも愛着の湧く建物だったと思う。哀愁漂う北信州もすぐで、戸隠や鬼無里村や黒姫などを訪ね歩いたし、善光寺も大好きになった。
薪ストーブなるものも完備。斧の薪割り、チェーンソー仕事。なんでも初めてで、うれしくて仕方がなかった。4輪駆動の車も初めて所有した。雪道を行かねばならないからだ。パジェロ・ショートワゴン。2300ccのディーゼル・エンジンで、5年落ちの中古車を購入したのであるが、そのドライブは楽しかった。
この別荘も、資金の多くはローンでまかなわれていた。私はローンまみれ。自宅も含めかなりの借金。そして当時と今の大きな違いは住宅ローンの金利水準である。私が別荘のローンを借りる頃には変動金利ローンの金利が10%近いものとなっていた。今の若いサラリーマンが「家が買えない」などと言うと、私はすぐ反応してしまう。「ウソだ。買う気がないだけだ。今の貴方達は当時の私より収入が多い。今の金利は当時の半分以下で地価は3分の1だ。買えないわけがないだろ。買えないのは、貴方にとって、家よりもほかにあれこれ買いたいものがあるとだけのことさ」