Reflections

時のかけらたち

神々が棲む森へ -3 ・・・ into the sacred wood the gods dwell -3

2022-10-13 20:19:00 | wonderland

熊野への旅2日目の途中からです。

那智の滝を見て、今度は熊野本宮大社を目指します。
バスで着いたJR那智駅からきのくに線に乗りました。きのくに線は1時間に
1本よりもっと少なく日に数本しかないローカル線です。

 

 

汽車の窓から見る那智の海。ここから観音の浄土・補陀落山(ふだらくさん)を目指して帰らぬ旅に僧侶が
出て行ったという・・・ 補陀落山寺にも時間があったら寄ってみたかったのですが、なんだか残酷な
感じしかしなくて、その先に極楽浄土があったと信じられていた那智の海だけ見てみたい気がしました。

 

新宮駅では時間が少しだけあったので駅前のツーリスト・ビューローでバスが来るまでに見れる場所はあるか
聞いたところ、すぐ近くにある徐福公園を教えてもらいました。

 

徐福は今から2200年前の中国秦の始皇帝時代の人で、多くの人を連れて始皇帝の命により東国に向かったという
記述が史記などになり、近年実在の人であったという論文が書かれ、実際に生まれた町が判明したとのことです。
中国の伝説が日本に伝わったのか、日本でもあちこちに徐福伝説が残っていますが、ここ熊野が一番有名他だそうです。
徐福が3000人ほどの若者や技術者たちと共に不老不死の薬を求めて東方に向かった時代は日本では弥生時代の初期に
当たります。熊野にたどり着いた人々は農耕や漁法、捕鯨、造船、紙すきなどの技術を伝えたと言われています。
伝説の世界のことですが、多くの人たちが中国と日本の間を渡ろうとしていた事実に思いをはせて公園内をまわりました。
周りの中華式の建物は比較的最近に建てられたものです。

 

 

 

徐福公園の徐福の墓は初代紀州藩主・徳川頼宣が建設を計画し、それからおよそ100年後の1736年に現在地に建てられた
とのことです。

 

 

 

新宮駅に戻り、この日に時刻表が改正になったばかりで5分ほど早くなったバスに乗りました。

川沿いの山々を見ながらバスで気持ちのいい旅です。ほとんど人が乗っていなくて、最後には私たち二人だけに
なってしまいました。今回の旅はそういうことも多かったですね。友人はこの川の川下りをしたこともあると
話していました。

約1時間で熊野本宮大社につきました。熊野のツーリスト・ビューローが奥にあり、展示もいろいろされています。

 

 

咲きにほふ 花のけしきを見るからに 神のこころぞ そらにしらるる

                              白河上皇

八咫烏のマーク入りのマスクをしていた狛犬

 

 

本宮の中は撮影禁止です。

中には和泉式部の建てた供養塔と句碑もありました。

熊野詣で伏拝(ふしおがみ)という場所に来た時詠んだとされる歌が
「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」
すると、その夜、夢に熊野権現が現れて
「もとよりも塵(ちり)にまじはる神ならば月のさわりもなにかくるしき」と告げ、そのまま参拝できたと
伝わっています。

不浄と言われていた女性を受け入れた熊野の神様です。

 

 

 

社殿は崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されています。
奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化により「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するように
なりました。熊野本宮大社は上・中・下社の三社から成るため、熊野三所権現と呼ばれています。また、
十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも仰がれています。
平安当時、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及びました。幾度かの御幸に供奉した
藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記しており 、困難な道を歩き御神前に詣でたことが、いかに
ありがたく、いかに御神徳が高かったかを窺い知ることができます。

1184年、第21代熊野別当に就任したのは、本宮・田辺を拠点とする田辺別当家の湛増でした。
源平二氏の争乱に際し、湛増率いる熊野水軍が源氏側についたことにより、勝敗が決したと云われています。
 
※熊野別当・・・熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった役職
 

南北朝から室町時代にかけては、皇族や貴族などの上流階級に代わり、武士や庶民の間に熊野信仰が広がりました。
身分の貴賤や老若男女を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さゆえ、熊野には大勢の人々が競って参詣し「蟻の熊野詣」
と呼ばれる現象を起こすまでに至りました。

なお残念なことではありますが、明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社が倒壊し、現在地に上四杜のみ
お祀りすることとなりました。他八社は石祠として旧社地大斎原おおゆのはらにお祀りし、現在に至っております。

                                           熊野本宮大社のHPより抜粋

 

明治時代に川の氾濫により、流されてしまった本来の聖地に向かいました。

 

 

 

 

小さな石祠に中四社と下四社、境内摂末社の神々が祀られています。
友人はもっとちゃんとした祠を写真で見て、実際に見たような気がすると、探してみましたが、ありませんでした。
明治時代の写真を見てそれが記憶に残っていたのかも。

ここは犬も入れてはいけないと看板がある、聖地でした。

 

 

 

 

川の土手に上がり、そこからの大鳥居の眺めも素晴らしかったです。

 

 

ここから近いゲストハウスに向かって夕暮れの熊野を歩きました。

 

わかりにくいところにあるのですが、方向指示がきちんと表記され、それに従って歩けば目的地に着きました。

碧空ゲストハウスは大日越えの登り口の近くにあります。

 

朝食しかついていないのですが、お弁当の夕食を予約すると準備してもらえます。
暖かくてとてもおいしかったです。鮎も焼きたてでした。少し食べ始めてしまって慌てて写真を
撮りましたが、有名なめはり寿司とさんまの押しずしもついていました。量が多くて食べられ
なかったのでご飯の分は残して冷蔵庫に入れて翌日の古道歩きに持って行くことにしました。

夕食後次の日のルートも話し合いましたが、新しい提案は本宮大社から発心門王子まで歩いて
そこから湯の峰温泉まで赤城越えのルートで行ってはどうかとのこと。ゲストハウスの方にお聞き
したところその道は大変な道だということで、翌日は最初の案通り、まず発心門王子までバスで行き
そこから熊野本宮大社までゆっくり歩く計画にもどしました。

お風呂でパンパンになったふくらはぎをもみほぐしてから寝ました。大門坂から那智大社、那智の滝まで
結構歩いた一日。久々においしいビールでした。

 

Oct. 2  2022  Kumano

コメント
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