Reflections

時のかけらたち

甦った「アラビアのロレンス」・・・ revived ”Laurence of Arabia"

2021-06-06 21:15:57 | movie

 

 

体調がすぐれなくて、ヨガを休んだ日、洗濯や家事をしながらアラビアのロレンスをところどころ見ました。通しでは録画を後から見ることにして。映画館では見なかったけれど、TVで放映されたのを何回か見たのだと思う。初公開が1962年なので、中学生か高校生の頃。それでか岩波新書の中野好夫著の「アラビアのロレンス」を買って読んだことはよく覚えています。その頃は学校の図書館からヘイエルダールとかヘディンの探検記などにもはまっていました。

今回この60年近く前の名作を見ることができて、映像と音楽とロレンスの苦悩がわかるすごいスケールの映画だったことを再確認しました。映像では黒沢のデルス・ウザーラを思い出しました。東西の大巨匠ですね。「キャラバン」というフランス・ネパール合作映画も見たかったと、もっとずっと後ですが、思った事もありました。こちらは見ていません。

とにかく圧巻の砂漠の風景とスエズという利権が絡んだ地のはるか昔からの歴史、遊牧民、国家と個人の問題等考えさせられることも多かったです。アメリカ人記者がアメリカも植民地だったという言葉に、今さらですが、再確認です。その当時タブー視されていたホモセクシャリティを感じさせるところもありました。ロレンスにぴったりのピーター・オトゥールとオマー・シャリフを発掘した映画でもありました。

イギリスに居場所を得ることができなかったロレンスの心の揺らぎや変遷がわかる映画で、最近の「スパイの妻」にも共通する部分がありました。「正気」でいたいからアラビアからの異動を願っても国に利用されていくロレンスでした。正気でいたい彼は人を殺した時の不思議な感覚になることを恐れ、戦線から離れること希望しますが、国家の命令に従わざるを得ない状況でした。最後にはアラブからもイギリスからも捨て去られる彼は英雄として広まった名前を消して生きようとするのですが、うまくいかず、最後は少年の命を救う形でバイクの事故で亡くなります。アラビアで自分をしたい、従者となった少年二人を結果的に死なせてしまったことがあり、運命は自分で切り開くと言っていたロレンスの宿命を感じてしまいます。

Lawrence of Arabia • Overture • Maurice Jarre

 

T.E.ロレンス、ピーター・オトゥール、デビッド・リーンについてもレビューしました。

トーマス・エドワード・ロレンスThomas Edward Lawrence、1888-1935)イギリスの軍人、考古学者、オスマン帝国に対するアラブ人の反乱を支援した人物で、映画「アラビアのロレンス」の主人公のモデルとして知られる。

トーマス・エドワード・ロレンス 1888年 ウェールズ トレマドックに後のチャップマン準男爵とセアラ・ロレンスの間に生まれる。夫妻は正式な結婚ができなかったため、ロレンス姓を名乗る。

1907年オックスフォード大ジーザス・カレッジに入学。1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回った。1909年の夏にはレバノンを訪れ、1,600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍の遺跡調査をして卒業時には、これらの調査結果を踏まえた論文を著し、最優秀の評価を得た。

卒業後は、アラビア語の習得のためベイルートを経由してビブロスに滞在した。1911年には大英博物館の調査隊に参加し、カルミケシュで考古学の仕事に従事した。同じ頃、ガートルード・ベルと知己を得ている。短期の帰国をはさんで再び中東に戻り、考古学者のレオナード・ウーリーと共にカルケミシュでの調査を続けた。同地での研究のかたわらで、ウーリーとロレンスはイギリス陸軍の依頼を受け、水源確保の点から戦略的価値が高いとされていたネゲヴ砂漠を調査し、軍用の地図を作成している。

1914年に第一次世界大戦が勃発し、イギリス陸軍省作戦部地図課に勤務後カイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する一方で、語学力を活かし連絡係を務めるようになった。1916年には、新設された外務省管轄下のアラブ局に転属され、この間の休暇にアラビア半島に旅行し、オスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者候補たちに会っている。

情報将校としての任務を通じて、ロレンスはファイサル・イブン・フサインと接触し、共闘を申し出、強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、各地でゲリラ戦を行い鉄道を破壊する戦略を提案した。この提案の背景には、ヒジャーズ鉄道に対する絶えざる攻撃と破壊活動を続ければ、オスマン帝国軍は鉄道沿線に釘付けにされ、結果としてイギリス軍のスエズ運河防衛やパレスチナ進軍を助けることができるという目論見があった。

1917年にロレンスとアラブ人の部隊はロレンスの思惑通り軍を進め、戦略的に重要な場所に位置するにもかかわらず防御が十分でなかったアカバに奇襲し、陥落させた。1918年にダマスカス占領に重要な役割を果たしたとして中佐に昇進する。

戦争終結後、ロレンスはファイサル1世の調査団の一員としてパリ講和会議に出席する。1921年からは、植民地省中東局・アラブ問題の顧問として同省大臣のチャーチルの下で働いた。1921年3月カイロ会議。

その後偽名を使ったり、本名を変えて、軍に入隊するがすぐみつかり、除隊と入隊を繰り返す。1925年に空軍に復帰、その後は1935年の除隊までイギリス領のインドやイギリス国内で勤務した。

 
オートバイ(「ジョージ(George)」)に乗るロレンス

除隊から2ヶ月後の1935年5月、ロレンスはオートバイを運転中、自転車に乗っていた2人の少年を避けようとして事故を起こして意識不明の重体になり、6日後の5月19日に46歳で死去した。

 

デビッド・リーン

ロンドン郊外クロイドン生まれ。19歳のときゴーモンピクチャーを尋ね、使いっ走りとして雇われることから映画のキャリアが始まる。

1945年に、カワードの短編戯曲「静物画」を映画化した「逢びき」を発表。作品は第1回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。その後も代表的なイギリス文学である「大いなる遺産」と「オリバー・ツイスト」の2作品を映画化。

1957年ハリウッドとタッグを組んで戦争映画「戦場にかける橋」を制作。第30回アカデミー賞では作品賞を含む7部門を受賞、リーン自身も監督賞を初受賞。この成功により、リーンは更なる大作「アラビアのロレンス」を再びスピーゲルとのタッグで制作する。ピーター・オトゥールとオマー・シャリフのデビュー作ともなった本作は、1962年度の全世界年間興行成績では1位を記録し、前作を上回る大ヒットを収めた。第35回アカデミー賞では7部門を受賞し、2度目の作品賞、自身も2度目となる監督賞を受賞した。1965年、パステルナークの「ドクトル・ジバコ」をオマー・シャリフ主演で制作。寡作ではあったものの、これらの3作品はリーンの監督としての名声を絶大なものとした。

1970年制作の「ライアンの娘」は批評的、興業的にも失敗して、ここから14年間自信を喪失した監督はメガホンを取らなかった。

そして14年の月日を経た後、1984年に遺作となる「インドへの道」を発表。本作では脚本、編集も担当し、監督としての健在ぶりを見せつけて復活を遂げる。1980年代中頃、師弟関係にあったスピルバーグ制作で「太陽の帝国」を監督しようとしたが、最終的にはスピルバーグ自らがメガホンを取った。その後、コンラッドの「ノストロモ」の映画化を企画していたが、1991年、病に倒れて83歳で死去。

映画館で見たのは「ライアンの娘」と「インドへの道」だけで「逢引き」や「ドクトル・ジバゴ」、「旅情」 ・・・はTVで放送されたのを見ました。

「アラビアのロレンス」はスコセッシやスピルバーグのテキストになっていて、撮影前には必ず見直すとスピルバーグが語っているとのこと。

 

ピーター・オトゥール(1932-2013)

 アラビアのロレンス

 

 ラスト・エンペラー

私が映画館で見たのは「チップス先生さようなら」だけかも。「ラ・マンチャの男」は見たような気もするけど当時の染五郎の舞台だけだったかな?

本名はSeamus Peter O'Toole。アイルランド出身。北イングランドのヨークシャーに育つ。幼い頃からの夢だったジャーナリストになるべく地元の新聞社に入社して4年間を過ごす。一方ではアマチュア劇団にも参加して49年に初舞台を踏んだ。その後、海軍に従軍して除隊後、奨学金を得て王立演劇アカデミーに入学。55年にはプロ・デビューも果たした。その後はシェイクスピア劇を中心に活躍。映画へは60年の「海賊船」でデビュー。そして62年、「アラビアのロレンス」のT・E・ロレンス役に抜擢。188cmの長身と透き通るような美しいグリーンの瞳と共にエキセントリックな演技が作品に多大な影響を与え、自身もアカデミー主演賞候補にもなった。その後も多数作品に出演して計8回も同賞候補になっているが「アラビアのロレンス」の印象があまりにも強烈だったためか以降の作品に恵まれたとは言い難い。59年に舞台で共演したシアン・フィリップスと結婚して二人の娘も生まれたが79年に離婚している。75年には腹部の悪性腫瘍で余命幾ばくもないと告知を受けたが手術の後に奇跡的にこれを克服。以降も精力的に俳優活動を続けていたが、2012年にその第一線から退くことを表明。13年12月、ロンドンの病院で病気のため死去した。長年に渡り闘病生活を送っていたという。

1968年 冬のライオン ゴールデングローブ賞 主演男優賞(ドラマ部門)

1969年 チップス先生さようなら  ゴールデングローブ賞 主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)

上記を含め計8回もアカデミー賞にノミネートされながら一度も受賞していなかったが、2003年にアカデミー名誉賞を受賞。

 

一度は辞退したアカデミー名誉賞をメリル・ストリープがプレゼンターで受け取る。当初の辞退の理由はまだ現役ということで、実際にこの後もオスカー主演男優賞にノミネートされている。

Peter O'Toole receiving an Honorary Oscar®

2012年7月10日に俳優業からの引退を表明。

1987年、大英勲章はパーソナルかつ政治的な理由で辞退しているとの記事をみつけたが、アイルランドとの歴史も絡んでいると推測した。

王立演劇アカデミーでの同級生、アルバート・フィーニーやオマー・シャリフとの友情は生涯続いたという。もう全員故人となってしまいましたが。

 

Peter O'Toole: Acting Out Loud

ピーター・オトゥールの対談とか伝記っぽいのとかいろいろとYouTubeにあり、ヒアリングをしています。ユーモアのセンスがあったようでなかなか聞き取れませんが、一人のアクターの人生が流れました。

 

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