毎年、この暑い夏が来ると、忘れてはいけないものを思い出し心に刻む季節になります。
戦争によって多くの人の人生が狂わされました。尊い多くの命が奪われました。
原爆の日が続き、終戦記念日となる暑い夏。形に見えるものはなくても心の中に
繋いで行かなければならないことだと思います。
そして亡くなった人たちを偲ぶお盆。多くの人たちが私の前にいて、そして私が存在する・・
そんな日に思いがけないコメントをいただきました。繋がっている人が日本のどこかにいる
ことを知り、とてもうれしく思いました。
今日はもう材料の限界で、バナナパウンドケーキと混ぜるだけでできる味噌つくりに取り掛かりました。
主人には食べさせてあげことはできなかったけど。お味噌をこねながら思う浮かぶのは主人のことです。
私のファミリーヒストリーもまだ途中でしたが、ときどき書いて行きたいと思いました。
自慢話のように聞こえる方もいらっしゃるようですが、私としてはただ事実を書きたいというそれだけの思いです。
こういう人が生きていたのだと知ってほしいこともあり。
今回コメントをいただいて、父が遺した倉田家に関する写真や調べ物をまた見てみましたが、
もっと古い写真については説明がないので誰なのかさっぱりわかりません。祖父が倉田から
婿養子となり、姓が変わりましたが、家ではみんな倉田の方が良かったと話していました。
倉田興人(のちの三井鉱山社長)は父が学徒出陣で徴兵され、終戦で人間魚雷を免れ、戻ってきた混乱の中
結婚など、価値観や社会の混乱の中考えられないと思っていたとき最終的に力になってくれた方かと思います。
父は最終的に三井鉱山に入社して、そして大牟田市で私が生まれました。その時に叔父の興人さんの所に間借りしていました。
その後1歳になる前に東京に転勤となって、今度は吉祥寺の母の実家に身を寄せました。興人さんは身内にはよけい厳しく、
当初は日雇い扱いだったとのことです。身内を特別扱いしないという姿勢を貫いたのですね。母は疎開で熊本に行っていた
ことがあったものの、新婚の炭鉱町ではすごく苦労したと思います。興人さんはその後阿佐ヶ谷に居を構え、そこには
家族に連れられてよく挨拶に伺いました。私を包み込んでくれるような温かい人でした。妹の結婚式では黒田節を
歌ってくださいました。亡くなられた時に葬儀に参加して、その時、たくさんの菊の香りがきつく私につきささった
のを覚えています。その兄の倉田主税の写真もアルバムに在りましたが、何か雲の上の人のような感じがしました。
こんなにスケールの大きな人には会ったことがないと子供の時でも感じました。
祖父神崎主計(縷々)。このチャライ感じはまさか祖父と思いませんでしたが、次の写真を見て祖父だと
わかりました。
最初画家の庫田 叕かと思いましたが、この写真で左端にいるのが哲介さん(庫田 叕)でその右が主計です。
父がルーツについて調べていたノートがありました。宇多天皇とか毛利元就と関連があったみたいです。
倉田家のを探していたら、実家を片付けたときに持ってきた、母方の祖父が送ったポストカードなどの
厚いファイルが出てきて、細かい字で文章が書いてあり、祖母のことを名前で呼んで語りかけている
ほほえましいものもありました。(文章だから当たり前か・・)単身でロンドンに数年行っていたので、
その間のやり取りと学業の後、仕事でも各地を回ったのか、古びたポストカードがごみのようでもありますが、
今見ると私にとってはお宝のように見えてきました。
母方の祖父と父方の祖父はともに福岡県の出身で東京の一橋大で学び親友となりました。縷々は若くして
亡くなったのに、両親が結婚することになるなんて、何かの糸で結ばれていたのですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます