碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

信州にて

2012年08月13日 | 日々雑感

信州でのお盆。

父をはじめ、ご先祖さま一同の霊を、墓地まで「お迎え」に行き、「おんぶ」して家までお連れするのが、地元の風習だ。

家までの途中で、背中で組んだ手(おんぶの格好)を、うっかり離してしまった場合、またお墓まで戻って、やり直しとなる。

子供の頃は、よく失敗して、何度も振り出し(墓地)に戻ったものだ(笑)。

これで、ご先祖さまたちは、しばし実家に滞在。

16日には、また「おんぶ」の格好で、墓地までお送りするのだ。


この「お迎え」が終わった後、恩師・はまみつを先生のお宅へ。

以前なら、そのまま夜まで、何時間も話して、延々と飲む「報告会」になるのだが、先生は昨年、亡くなってしまった。

奥さまにご挨拶し、お線香を上げ、合掌。

心の中で、報告をさせていただいた。

これでまた、半年、頑張れるだろう。


先生のお宅からの帰り道には、懐かしいポストや道祖神。

記憶の中にある、故郷の原風景たちだ。










ふるさとで、”ふるさとの新聞”を読む

2012年08月13日 | 本・新聞・雑誌・活字

お盆の帰省で、信州に来ている。

実家は、フツーに標高700メートルの位置にあるわけで(笑)、日中も東京より涼しい。


信州で、新聞といえば、アサヒでもヨミウリでもなく、これまたフツーに「信毎(しんまい)」こと「信濃毎日新聞」を指す。

いや、本当に(笑)。

私にとっては、子供の頃から読み慣れた紙面だ。


信毎では、主筆の中馬清福さんによる「考」が読める。

12日(日)のタイトルは、『民草の遺恨をいかに晴らすか 「民あっての国」を貫く』だった。

その冒頭の部分を転載してみます。




民草の遺恨をいかに晴らすか 
「民あっての国」を貫く


8月を想う信州人の胸中は複雑である。

戦前戦中、新天地と信じこまされて移住した旧満州(中国東北部)の地は、敗戦の日を待たず旧ソ連軍の猛攻などで壊滅、集団自決に追い込まれた県出身者は数知れない。

誰が、なぜ、全国随一の規模の県民を、ときに半ば強制的に満州へ送り出したのか。

なぜ、日本軍は丸腰の移住民を放置して逃げたのか。

なぜ、ソ連軍の残虐行為を国として追求しないのか。

この問いに答えるべき当事者は今なお口を閉ざしている。



・・・・この後、中馬さんは、何人かの体験者(すべてご高齢)が語る「満州の悲劇」を紹介。

そして最後の段落は、以下のようになっている。


■原発と似て

満蒙開拓を語りつぐ会が今夏刊行した別冊に、精神科医・胡桃沢伸さんの「語られない家の歴史が私に与えた影響」が載っている。

河野村村長として国策に協力、満州移民を推進したとされ、敗戦の翌年、自死した胡桃沢盛の孫である。

敗戦の日、河野村開拓団で起きた集団自決については、語りつぐ会「報告集3」に詳しい。

早くから沖縄での集団死に関心を抱いた伸さんは、祖父の死の真相を知って愕然とする。異国との戦いのさなか、頼りとする日本軍に見捨てられた民草の命運は同じだった。

誰が胡桃沢家に石を投げられようか。貧村を何とかしたい思いで国策に協力した村長の姿は今、原発再稼働へ走る市町村長の姿とダブる。

背後で国策という怪物がニンジンをかざしてみせる構図も変わらない。

(信濃毎日新聞 2012.08.12)



・・・・こういう文章が一面に載っている新聞が、「郷土の新聞」であることを、私は嬉しく思います。