大切な人や本との読書による「対話」
大江健三郎『親密な手紙』
岩波新書 968円
大江健三郎『親密な手紙』は、今年3月に88歳で亡くなった著者の新刊である。収められたエッセイが雑誌に掲載されたのは2010年から13年にかけてだ。70代後半だった作家が、自身にとって大切な人や書物との関わりを語っている。
最も多く登場するのは仏文学者の渡辺一夫。高校時代に読んだ『フランス ルネサンス断章』に惹かれ、渡辺のもとで学ぼうと東大仏文科を目指した著者にとって、生涯にわたる師だ。
また主著『オリエンタリズム』などで知られる、エドワード・W・サイードにも何度か触れている。特に遺著『晩年のスタイル』の原著と翻訳は、常に手元に置いて読み返す「枕頭の書」だという。そこには本を読む喜びだけでなく、生きてゆく希望を呼び起こす、強い力があったのだ。
他に並ぶ名前は大岡昇平、伊丹万作、中野重治、林達夫、武満徹、岸田衿子、井上ひさし、そして伊丹十三など。著者は彼らの亡き後も、読書による「対話」を続けてきた。書物は自身の苦境を乗り越えさせてくれる「親密な手紙」だった。
さらに本書では自作をめぐるエピソードも披露されていく。たとえば最初期の「奇妙な仕事」は、友人が語った「大学病院が飼う、実験用の犬」の話がヒントだった。その友人は、後にバルザック『艶笑滑稽譚』などの翻訳を手掛けた、石井晴一だと明かしている。
著者が遺してくれた豊饒なる作品群。それを「親密な手紙」として読み返したくなる、刺激的な一冊だ。
(週刊新潮 2023年12月7日号)