日本の大手映画会社の松竹,東宝、大映,新東宝,東映
の五社が、五社協定(ごしゃきょうてい)を
今から、57年前の1953年に結びます。
名目は映画会社同士の専属監督・俳優の引き抜きの禁止するものでした。
しかし、真の目的は、日活による俳優引き抜きを封じることでした。
戦後、映画興行などを中心に活動していた日活が、
映画制作再開へ動き出します.
多摩川撮影所(現・日活撮影所)を建設するとともに
他の5社から監督や俳優の引き抜きを行おうとしました。
結局,この五社協定で,日活映画は,
舞台俳優を使わなくてはなりませんでした.
宇野重吉らの「民芸」や
辰巳龍太郎や島田正吾の「新国劇」で映画を製作していました.
日活は水江瀧子(みずのえ・たきこ)ブロデューサーが
石原裕次郎を見つけ出すまで,地味な作品が続きました.
… … …
フランキー堺主演の『幕末太陽傳』など、
問題作がありましたが。
石原裕次郎ら独自の新人スター発掘に成功し、
男性アクション路線も大人気で定着しました。
そして日活も協定に参加し「六社協定」となります。
六社協定では「スターを貸さない、借りない、引き抜かない」の
三ない主義を打ち出していました。
新東宝が倒産します。
再び五社協定となりました。
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急速に伸びてくるテレビに対抗する
「五社協定」となります.
映画会社五社からテレビへの
劇映画提供を打ち切られます.
映画会社、専属俳優のテレビドラマ出演も制限します。
そこでテレビ局はドラマなどに
新劇俳優を多く起用するようになります。
戦後,映画製作再開した日活と似ています。
テレビ普及の影響で大手映画会社も
映画制作本数を激減させます。
東宝は専属俳優たちを解雇します。
東映はテレビに比重を移して撮影所の施設で
ドラマや子供向けの
テレビ番組を多く制作するようになります。
映画会社もテレビなくしては経営が
成り立たなくなりました。
映画会社専属制のスター・システムは崩壊します。
五社協定は自然消滅しました。
五社協定で日活が苦しんでいる,1955年に
日活で「消えた中隊」の企画が上がりました.
そこへ、名キャメラマン三村明氏が出てまいります.