【きょうの人】 1103 ■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者 ■ 田中 正造 日本最初の公害に立ち向かった男 ■ 了誉上人
独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。
そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。
■ 了誉上人 家康生母の墓がある伝通院の開祖
りょうよ
興国2年/暦応4年10月15日(1341年11月24日-応永27年9月27日(1420年11月3日)
号は「酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)」である「聖冏(しょうげい)」は、南北朝時代から室町時代中期にかけての僧で、浄土宗(鎮西義)第7祖です。
常陸国・椎尾氏の出身で同国瓜連常福寺の了実について出家しまし、太田法然寺の蓮勝に師事しました。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く仏教を修めてもいます。
宗徒養成のために伝法の儀式を整備し、五重相伝の法を定め、神道・儒学・和歌にも精通し『古今集序註』『麗気記拾遺抄』を著しています。
門弟に聖聡・了知などがおり、第8祖となった聖聡とともに、浄土宗鎮西義を教学面から興隆した人物として評価されています。
江戸小石川に伝通院を、無量山寿経寺という名で開創したことでも知られています。
慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母「於大の方」が75才、伏見城で逝去し、その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」と号しました。この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。
家光の次男亀松君が葬られ、以来徳川幕府の外護を賜り、千姫の墓標もここにあります。
■ 田中 正造 日本最初の公害に立ち向かった男
たなか しょうぞう
天保12年11月3日(1841年12月15日)- 1913年(大正2年)9月4日)
幼名、兼三郎、下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)の出身です。
日本の政治家で、日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として知られています。衆議院議員選挙に当選6回。
足尾鉱毒事件は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本で初めてとなる公害事件です。
銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起しましたが、加害者決定はされませんでした。
足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っています。
学生時代に、鉱山跡に行ったことがありますが、周囲の木々は立ち枯れたまま残っていました。その不気味さは、人気もないことから今でも覚えています。
■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者
てづか おさむ、本名:手塚 治
1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日
説明するまでもなく、日本を代表する漫画家であり、アニメーター、アニメ監督としても活躍しました。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍してこられました。
兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)で、同市名誉市民でもあります。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。医師免許取得のち医学博士(奈良県立医科大学)を持っていました。
大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビューしたのですね。知りませんでした。
1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現していて、手塚は、漫画家達の中の一人に過ぎなくなっていました。そのためにノイローゼにまでかかったという話も残っています。天才にも、その様なことがあるのですね。
幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーションに強い関心を持っており、
1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立、後に虫プロダクションと改名しています。
1963年に、自作をもとにした、日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼしたことはいうまでもありません。
当時、従兄弟達が、それを見る年代で、テレビにかじりついていたことが、昨日のように思い出されます。
しかし、アニメブームと共に、多くの同業社の乱立・乱作から、コスト競争に直面し、倒産にまで追い込まれました。私の知人が、その時の管財人をしていました。
晩年近く、1980年代になりますと、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)など、歴史物で円熟味を示し、青年漫画というJANするに新たな代表作を手がけることになりました。
100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、昏睡状態を断続的に起こしたにもかかわらず、病院のベッドで医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていたそうです。
死に立ち会った人によりますと、「頼むから仕事をさせてくれ」というのが手塚の最後の言葉であったといわれています。
最後まで、漫画・アニメーターだったのですね。
■ 泉 鏡花 明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家
いずみ きょうか
1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)
明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家で、小説のほか、戯曲や俳句も手がけました。本名、鏡太郎(きょうたろう)で、金沢市下新町に生まれました。
尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』という作品で高い評価を得ました。川端康成、石川淳、三島由紀夫らに影響を与えた小説家です。
東京新宿区の赤城神社に近い南榎町22に、泉鏡花の居跡のひとつがあり、ここに明治32年から4年間住んで、この地で「高野聖」などを発表しました。
31才の泉鏡花は、神楽坂の芸妓桃太郎さんと、この借家に住みます。しかしこれには泉鏡花の師である「金色夜叉」で有名な尾崎紅葉から相当怒られ、やむなく、桃太郎(本名伊藤すず)と別れます。
鏡花は、 紅葉が没してから正式に妻として桃太郎を迎えます。
なお、桃太郎は、あの「婦系図(おんなけいず)」のお蔦、『湯島詣』の蝶吉のモデルといわれています。
千代田区六番町5番地にも「泉鏡花旧居跡」があり、1910年(明治43年)から亡くなる1939年の間、この地に愛妻すず(桃太郎)と暮らしていました。
代表作『高野聖』『婦系図』で人気作家の一人になり、江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる作家となりました。
近代における幻想文学の先駆者としても評価されます。
晩年、春陽堂より『鏡花全集』刊行を開始し、鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫などの錚々たる面々が編集委員を務めました。
◆ 【きょうの人】 バックナンバー
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【 注 】
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