【きょうの人】 0826 ■ 崇徳天皇 保元の乱で破れ配流 ■ 義真(修善大師) 最澄と共に唐に渡る 平安時代前期の天台宗の僧
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■ 義真(修善大師) 西塔と共に唐に渡る 平安時代前期の天台宗の僧
ぎしん
天応元年(781年)- 天長10年7月4日(833年8月26日)
平安時代前期の天台宗の僧で、俗性は丸子連または丸子部、相模国の出身です。修禅大師とも称されます。
奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から授戒されて中国語にも通じていました。
その後は、奈良・大安寺で最澄に師事し、804年(延暦23年)中国語の通訳(訳語)として最澄とともに唐へ渡り、最澄と同じく道邃から円頓戒を、順暁から密教の付法を承けて日本へ帰国しました。
822年(弘仁13年)に、最澄が没した後には比叡山大乗戒壇初の授戒の伝戒師となり、戒壇院を建てました。
824年(天長元年)初代の天台座主に就任し、832年(天長9年)には天台宗の僧として初めて維摩会の講師となりました。著書に『天台法華宗義集』があり、五十三才で歿しています。
■ 崇徳天皇 保元の乱で破れ配流
すとくてんのう
1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉
第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)で、諱は顕仁(あきひと)です。
鳥羽天皇の第一皇子で、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)という、素晴らしい血統を引き継いでいます。
譲位後は新院、しかし、その後、平安時代末期の1156年(保元元年)に、貴族の内部抗争である保元の乱で、後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれました。
崇徳院は、在位中から頻繁に歌会を催し、太上天皇になってからは和歌の世界に没頭しました。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開しました。
鳥羽院とうまく行かず、上皇としては実権がありませんでした。保元の乱後、鳥羽法皇が崩御しても、その地位は快方に向かわず、讃岐に流罪となってしまいました。
雨月物語に代表されますように、崇徳院の怨念が数々の禍を引き起こしていると、非難囂々の晩年でした。
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