内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「好きです」は "Je t’aime." ではない(承前) ― 日本語についての省察(5)

2013-07-02 06:00:00 | 日本語について

 今日は、昨日の記事の末尾に挙げた3つの問題 ー「愛する」と「愛している」と "aimer" との意味論的差異の問題、〈愛〉と〈amour〉の文化的不等価性という問題 ー言語表現の社会的機能の問題のうち、第1の問題のみを扱う。第2、第3の問題は、今の私にはとても立ち入ることのできない大きな問題なので、明日、それぞれの問題について、若干の私見を述べるに留めることを予めお断りしておく。
 日本語の動詞のいわゆる現在形は、現在進行中の動作・状態を示さない。例えば、「雨が降る」は、「(これから)降る」ことか「(この季節はよく)降る」こと、つまり、直近の未来か規則的に生じる現象あるいは習慣を表す。「食べる」のように行為を表す動詞は、それらの場合に加えて、意志・すでに決められた予定行動を表すこともある。それに対して、現在進行中の動作・現在継続中の状態は「動詞+ている」で示される。ところが、フランス語では、習慣的行為・規則的現象も現在進行中の事態も現在形で表現される。これからしようとしていること・確定的な近未来は、「aller+動詞の不定法」で示す。例えば、 "Il pleut." と言えば、「今、雨が降っている」という現在生じつつある事態か、「この季節、よく雨が降る」のように、ある時期に繰り返し発生する自然現象のことである。もちろん、時を示す副詞句がそこに加わることによって、それぞれの意味がより明確に示されることは言うまでもない。「これから雨が降る」と言いたいときには、 "Il va pleuvoir." と言う。このような日本語とフランス語のズレが、誤った運用の要因の一つになる。日本語初歩の段階で頻繁に見られる間違いは、例えば、 "Je le sais (I know it)." を「私は知ります」としてしまうことだ。これはどうしても「私は知っています」でなくてはならない。"Savoir" という動詞は、「ある事柄について情報を所有している」あるいは「ある事柄について運用・実践能力を身につけている」ということを意味する。だから、前者の意味を日本語で表現するときの最も普通な表現としては「(何かを)知っている」になり、後者の場合にもあえて「知る」という動詞を使うとすれば、「(あることのやり方を)知っている」となり、いずれの場合も「知る」には置き換えられない。他方、日本語で「人生の厳しさを知る」というとき、「知る」対象は知識でも能力でもない。「我が身にかかわることとして、ある真実を学ぶ」ということであり、このような意味は、フランス語の savoir にはない。この動詞が示している様態は、一般化して言うと、「あることについて、アクティヴな状態にある」ということである。
 さて、ようやく今日の本題に入る。昨日例に挙げた学生たちの解答の中の3番目「愛します」が、 "Je t’aime." には対応しないことは、容易に理解できる。日本語で「愛します」と言えば、今愛しているかどうかはともかく、「(これから)愛す」ということを意味してしまう。したがって、今現在の愛の表現としては適切ではない。ただ、例えば、「ワインを愛す」という場合のように、「好む、愛好する」という意味でなら、現在形でもいいわけで、「ワインを愛している」と言うと、「あるときから今に至るまでずっと」あるいは「今まさに」ということを特に強調することになる。しかし、昨日から問題にしているのは、記述文ではなく、相手への愛の直接表現であるから、この意味での「愛する」は問題から除外しよう。
 では、フランス人が頻繁に口にする "Je t’aime." に一番近い日本語は、「愛している」なのだろうか。動詞 "aimer" が表すのは、習慣的行為ではない。しかし、その都度繰り返される行為、例えば、性愛でもない。それが示しているは、そのときそのとき、自分の相手に対する、他に置き換えがたい動的な関係性を生きることそのことなのだ。"Je t’aime." は、すでに発生している何らか心の状態の記述ではなく、私から相手へと向けられた、その都度のアクションそのものなのだ。それは既得の愛情の確認ではなく、どこかにすでに確保された愛情の派生的表現なのでもなく、その都度発される "Je t’aime." そのものが愛の形なのである。その意味で、優しく抱き寄せることと "Je t’aime." と耳元で囁くこととは等価である。しかし、もしそう言っていいのならば、日本語で発される「愛している」にも、同じことが言えるのではないか。確かに、そういう場合はある。だが、ここでも「好き」について昨日見たのと同じ問題がある。日本語では、ただ「愛している」と言うだけで、表現として機能する。「誰が誰を」ということを表明しなくてもいい。言い換えれば、それだけ言えば誤解の余地のない場面はごく普通にある。そう告白されて、それがまったく想定外で、驚いた場合でも、そこに2人しかいなければ、「誰が誰を」という問題に関しては誤解の余地がない。もっとも、そう告白された後に「〇〇さんのことを」と付け加えられ、それが自分の名前ではなく、ガックリくるという場合もありうるが、それは今除外する。日本語でただ一言「愛している」と言うときでも、もちろん、それは、そう言った人の、その言葉を差し向けた相手に対する関係性を表明しうる。しかし、言葉として明示されているのは、その関係性だけであって、「誰が誰を」ということは、いわばその場面に内含されており、言葉としては現れていない。この点において、「愛している」は、やはり "Je t’aime." と等価ではない。