昨日の記事で見たように、17世紀フランス宮廷社会は、鏡に映る自己の〈外見〉に自己全体を収斂させようとした。しかし、他方、鏡を媒介として、社会的〈外見〉には還元しがたい、個人の〈内面〉が16世紀から発見されていく。
鏡は、社会的に礼儀作法に適う振る舞いのためのルールを私たちに教えると同時に、そのような社会的自己の影に隠されている、鏡に映ることのない内的意識を私たちに覚知させる。個人が自らを自らの主人であると考えることができるようになるためには、一方では、外部を媒介しない内省的な、他方では、外なる基準に自分を合わせる模倣的な、自己に対する二重の眼差しを必要とする。鏡の中の自己像の観察によって、自己の自己に対する直接的な関係と、他者によって見られた自己の自己に対する関係とを、明晰・判明に区別することが、「汝自身を知る」ために不可欠であることが自覚されていく。
内的直接的自己関係と外的媒介的自己関係とは、しかし、単に並行して、それぞれ独立に成立・機能するものではない。これら2つの関係は、互いに規定し合うばかりでなく、相互に他を拡張・発展・深化させつつ、その過程を通じて、この〈私〉をその全体において形成する。そこに見られるのは、だから、1つの弁証法的過程である。この弁証法過程を現実的に可能にし、それを自覚へともたらしたのが〈鏡〉における自己認識である。〈鏡〉によって、個人は、自己の外見を自らの手で外的基準に照らして整え、統御することができるようになったが、それとともに、その外見とは異なる、見えないものが自己の〈内側〉に存在することを覚知する。ここから個の〈内面〉の探究が始まる。
しかし、この探究は、必ずしも〈外面〉の排除を意味しない。16世紀ルネッサンス期のフランスを代表する哲学者モンテーニュ(1533-1592)は、媒介なしに直接感得される〈内面〉と外部から観察可能な〈外面〉との間に人間存在の両極性を見、かつ両者の間の相互浸透性を認める。モンテーニュによれば、人間は、独り部屋に閉じ込もり、鏡の中の自分の姿を眺め、点検し、内省に耽ることによって、「己を知る」ことはできない。人間が己を正しく見ることができる「本物の鏡」とは、「世界という大きな鏡」(『エセー』第1巻、第26章)である。モンテーニュは、この世界という〈鏡〉の中に自己の両義性を探究したと言うことができるだろう。
一方、外界からの刺激に一切左右されることのない自己の存在の探究が、ガラス製鏡の製作技術が精錬されていく17世紀になって初めて徹底した仕方で遂行されたのは、けっして偶然の一致ではないであろう。移ろいやすい〈外面〉的自己の精密な映しが鏡によって与えられれば与えられるほど、そのような儚く虚しい自己像とは独立に、〈外面〉には還元され得ない、それとして確かに存在する自己への希求も強まった。そのような自己が神の〈似姿〉なのかどうかという問いとは別に、けっして鏡に映ることのない、この見えない自己の存在の確実性を探求すること、この探究姿勢が近代哲学を方向づける。