内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鏡の中のフィロソフィア(準備編3) ― 講義ノートから(6)

2013-07-18 16:00:00 | 哲学

 中世的世界像からルネッサンス的宇宙観への転回点に立つ神学・哲学者がニコラウス・クザーヌス(1401-1464)である。クザーヌスにおいて、感覚界と叡智界とは、〈照応〉や〈反映〉といった、前者から後者への類推が何らかの仕方で可能な、順接関係にあるのではない。両者の間には、いかなる類似もなく、他の何ものにも還元しがたい対立・分離があるだけであり、もし両者の関係について語りうるとすれば、それは、根本的に逆説的な関係である。そのような両者の関係において、人間は、両者の接点の位置に立ち、その人間の認識能力によってのみ両者の関係は保証される。このようなクザーヌス思想において、鏡は、物質と精神、あるいは有限と無限との間の、媒介の場とされる。一つの見方から別の見方への、より正確には、一つの個別的な有限の視点から、あらゆる有限な視点を超え包む永遠の無限な視点への、決定的な転換がそこにおいて起こる場所として、鏡に特別な地位が与えられる。 そこでの問題は、何かの似姿としての鏡像そのものではなく、その鏡像を見る〈眼差し〉である。しかし、感覚界から叡智界へと、順に階梯を辿って上昇していけば到達できるというような、段階的・階層的類推的方法はもはやそこでは通用しない。有限な世界像を無限な宇宙観へと一変させるような眼差しの全面的・根本的な〈向け変え〉の可能性が問題なのだ。しかし、つねに有限でしかありえない人間の認識能力が、無限なる存在であり絶対的他者である神を、いったいどうやって把握することができるのか。クザーヌスによれば、ただ神においてのみ、すべての反対者は、そのまま受け入れられ、完全に一致する。この意味において、神は、すべてがそこにおいてそのまったき姿において映される〈鏡〉にほかならない。そのように〈映す〉こと、それが神の〈眼差し〉である。クザーヌスは、自らの眼差しを鏡の中に見る人間の眼差しに、神の眼差しとの交点、さらには融合点を探す。自らよりはるかに大きな山をもその内に映し、相対立する反対物をも等しく映す鏡を見る〈私〉の眼差しを、万有を等しく映す鏡として自らの内に万有を見る神の眼差しに重ね合わせるにはどうすればいいのか。個人の眼差しがそこから発する有限な一視点と、神の眼差しの無限な視点との交点を、〈鏡〉という媒介者において探究すること、それがクザーヌスの哲学なのである。 クザーヌスの著作といえば、『学識ある無知について』が特に有名であり、邦訳(平凡社ライブラリー)もあるが、クザーヌスの鏡像論は『神を観ることについて』(岩波文庫)に展開されているので、上に紹介したクザーヌス思想にご関心をもたれた方は同書をご覧になってください。