「あいつだけは許せない」- 誰かに対して怒りに捕らわれたときなどに、私たちは無反省についこのように口走ってしまうことがある。あるいは、口走らなくても、そういう思いが心をよぎることがある。それが一過性の激しい感情の発露というだけならば、その感情が消えるとともに、その「許せない」という気持ちも失せる。私たちが「許せない」と言うとき、大抵の場合は、この類の、他に取って代わられうる感情の一種のことに過ぎない。しかし、この世の中に生きていると、「こんなことが許されていいのか」、それが法に触れることかどうかは別として、「こんなことがまかり通っていいのか」と、もっと深い怒りあるいは義憤から、「許せない」と叫びたくなるときだって、残念ながら、少なくない。ましてや、「許しがたい」犯罪については、いろいろな意味において、「許せない」と叫ぶだけではすまされない。今日のようにネットを通じて、世界中のニュースが一瞬にして地球を駆け巡る時代に生きていると、こっちはそれを知ろうと思ってもいないのに、そのような犯罪についての情報が嫌というほど耳に届き、目に飛び込んで来る。その頻度は、うっかりすると、世の中はほとんど「許せない」ことばかりで成り立っているのかと思いたくなるほどだ。
もし、世の中「許せない」ことだらけだとすれば、それが日常茶飯事だとすれば、私たちは自分でそれと気づかないままに、それらが生じることを「許してしまっている」ことになる。しかし、私はここで世人のいわゆる無責任を糾弾したいのではない。そうかといって、そのことに無関心でいいと言いたいのでもない。「世の中そういうものだ、諦めろ」と斜に構えたいのでもない。ただ、そのように「許してしまう」ことなしに、私たちは果たして一日でも生きられるだろうか、と問いたいだけだ。もしそのように「許してしまう」ことが罪ならば、誰が自分は「罪人」ではないと最後の審判の日に申し開きができるであろうか。
個々の犯罪について、ここで問うことはしない。それぞれの犯罪について語るには、あまりにもその「真実」を知らないのだから。福島原発事故に象徴的に代表されるような、現代社会の根深い構造的腐敗の問題もここでは扱わない。根治不可能ないわゆる政財界の諸悪もここでは除外する。それらはそれとして、それぞれに考えなくてはならない問題だ。しかし、これらは私たちが社会で生きるかぎり不可避的に直面せざるをえない諸問題であるとすれば、それらについては、許すか許さなかが問題なのではなくて、それらにどう対処し、対策を立てるかというといことが、現実に即して問題にされなくてはならないであろう。
私が今日ここで問題にしたいのは、私たちは我が身にとって「許しがたいことを許す」ことがほんとうにできるのか、もしできるとすれば、それはどのようにしてなのか、ということである。これは私にとって他人事ではない。一般的に論じて一般的な結論が出せれば、それで解決、というような、頭だけで考えうる思考のゲームでもない。それは身を切られるような痛みを伴った現在の問いとして私に迫る。
私は、これまでの人生で、ただの一度も、私にとって許しがたいことを許せたことがない。許せないままなのだ。いつまでも相手に対する憎しみが消えないというのではない。ただ、自分がなぜあのような酷い仕打ち、理不尽な扱いを受けなくてはならなかったのかわからず、その理由がわからないかぎりは、許すに許せない、と言えばいいだろうか。相手に向かって「どうして」と問いかけ、それに対する納得のいく答えが相手から得られないかぎりは、許すわけにはいかないという不自由な気持ちに囚われたままだと言い換えてもいい。しかし、その答えが得られれば、そのときは、ほんとうに許せるのだろうか。それさえわからない。
このような「囚われの身」であることは、それだけで生き難い。自分でもなんとかしたいと思う。我が身を苛む、この心の拘束衣から一日も早く解放されたいと切に願う。でも、まだ、どうやったらそれが外せるのかわからない。ただ、これだけは言えそうだと思えることは、逆説的に聞こえるかもしれないが、許そうと努めるかぎり、許すことはできないだろう、ということだ。さらに踏み込んで言えば、許そうとして許すことは、ほんとうに許したことにならない、ということだ。
なぜそう言えるのか。それは以下の理由による。とても許されないようなことを人にはしておきながら、自分では人を許せない、この頑な私を、それにもかかわらず、許してくれた人たちがいる。それは、その人たちが私を許そうと特別に努めてくれたということではない。私の過去の過ちが私自身の償いによって帳消しにされたということでもない。私が犯した過ちは、事実として、消えることはない。では、何が起こったのか。私が驚きとともに気づかされたことは、その人たちにおいて、私の許しがたい過ちの〈許しがたさ〉が忘却されていることなのだ。その忘却は、しかし、その人たちの意志によって獲得されたものではない。それは、個人の意志を超えた何かがその人たちにおいて働いているからこそ、到来した事柄なのである。「許せない」私に、今言えるのは、ここまでである。