内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鏡の中のフィロソフィア(準備編1) ― 講義ノートから(4)

2013-07-16 19:00:00 | 哲学

 6月10日11日12の記事で、一昨年から東京のある大学で夏期集中講義として担当している修士課程の「現代哲学特殊演習」のことを話題にした。3年目の今年は、7月29日から8月2日までの5日間。今年の履修学生は10名。年々増えているのは喜ばしい。そのうち、去年出席し、ちゃんと単位も取得したのに、今年また履修登録している修士2年の学生が4名。テーマは去年と同じだが、今年はその続編であり、当然内容は違うから、今年も単位として認められるからなのだろうか。講義内容は12日の記事に紹介した通り。いずれにせよ、昨年の講義をつまらんと思ったのなら、再履修などしないだろうから、テーマには興味を持ってくれているのだろう、と肯定的に捉えておく。単位が取りやすいだろうという目論見もあるかも知れないが、それは学生なら当然考えることだ。
 今、滞在先のゲストハウスでその講義の準備をしている。半年も前からその内容は決めてあったわけだから、帰国する前に準備の時間は十分あったはずなのである。ところが、講義初日まで2週間を切り、昨日ようやく本腰を入れて準備を始めた。実は毎年こうなのである。最後の最後になって追い詰められないと、集中できない(それはこの講義に限ったことではないが)。それでいつも万全な準備ができていないまま、講義初日を迎えることとなる。とはいえ、この半年間、講義で取り上げるべき問題は折にふれて考えてきたので、実際はなんとなかなる(と自分に言い聞かせている)。それに、これは演習であるから、ただ一方的にこちらが準備してきたことをしゃべりまくる大教室の講義とはわけが違う。学生たちの反応に応じて臨機応変に対応すべきであるし、学生たちにその場で自ら考えさせ、問題に取り組ませることも、演習の重要な部分をなしている(と今から言い訳しておく。誰に?)。
 学生たちには事前学習として、サビーヌ・メルシオール=ボネ著『鏡の文化史』(竹中のぞみ訳、法政大学出版局、2003年)を通読しておくようにシラバスで指示してある。それでも読んで来ない学生がいるかもしれないので、先ほど教務課に学生たちに念を押しておいてほしいとメールしておいた。私は原典 Sabine Melchior-Bonnet, Histoire du miroir, Hachette collection "Pluriel",1998 を通読してあるのだが、邦訳も推奨に値する苦心の良訳だと思う。同書は3部に分かれ、第1部「鏡とその普及」は、ガラス製鏡の誕生からその普及までを辿った技術史。これはこれで実に面白い。その技術が普及するまでの過程はサスペンスに満ちているとさえ言える(高度なガラス製鏡制作技術を開発・発展させたヴェネチアの工場からフランス国家によって引き抜かれた技術者が何人か謎の死を遂げているのである)。講義で主に取り上げるのは、第2部「類似の魔法」。ここで古代から近代までの〈鏡〉をめぐる宗教・哲学史が展開される。著者自身は、哲学が專門ではなく、ヨーロッパ心性史を專門とする歴史家(例えば、『不倫の歴史』という著作がある)だが、神話や聖書、文学作品、宗教的・哲学的著作からの多数の引用を散りばめつつ、そこに見られるさまざまな哲学的問題を、簡にして要を得た仕方で提示している。この本自体は、だから、哲学書とは言えないのだが、むしろそれが私にとっては好都合なのだ。というのも、それらの問題の中から特に興味を持った問題を取り上げ、まさに哲学的問題の一つとして自ら深めていくように学生たちに促すきっかけを作りやすいからだ。実際、昨年度の演習では、課題として課してはいないのに、充実したレポートを自主的に提出してくれた学生がいた。
 今日の記事の最後に同書のさわりを一箇所引用しておく。

 鏡に映った姿からは像と類似というふたつの概念がまず問われることになる。つまり鏡に映っているものはモデルを模倣し、モデルから出てきているわけで、このモデルの正確で、かつ不完全な近似形を示している。それでは像はいったいどこに位置しているのだろう。見る者は自分が今いるここにいると同時に別のところにもいて、厄介なことに同時に数カ所にいるとともにどこか奥深いところに見えるから、ある不確かな距離のところにいることになる。人が鏡のなかを見るというよりは、むしろ目の前にあるスクリーンの後ろに像が現れてくるような感じで、その結果、自分の姿を鏡で見ている者は、いったい自分は鏡の表面を見ているのか、それとも表面を通り越してその向こう側を見ているのかと考えてしまう。鏡に映る影は、鏡の向こう側に実体のないひとつの後方世界があるという印象を起こさせ、視線に外見を通り越して彼方を見させようとするのだ(同書、114-115頁)。

 この一箇所からだけでも、たっぷり時間をかけて議論すべきさまざまな哲学的問題を引き出すことができる。それを哲学史の中に位置づけながら、試みようというのがこの演習の目的である。