内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鏡の中のフィロソフィア(準備編10) ― 講義ノートから(13)

2013-07-25 15:00:00 | 哲学

 先週火曜日から昨日まで9回連続で、7月29日から始まる集中講義の覚書を、その主要テキストである『鏡の文化史』を参照・引用しながら記事にしてきたが、今日はその最終回。明日からは別の参考文献に基づいて、同じ講義についての覚書を続ける。

 以下、『鏡の文化史』の第3部「不気味な奇妙さ」第3章「鏡の破片=輝き」(同書最終章)から、注目すべきと私に思われる箇所をいくつか引用し、そのそれぞれの引用に若干のコメントを付けることで、同書に基づいた覚書の締め括りとする。


 「われわれが出会うあらゆる顔のうち、われわれがいちばん知らない顔は、われわれ自身の顔だ」(266頁)。

 私たちは自分が自分の顔を一番よく知っていると思いがちだが、他の人々の顔は直接見ることができるのに、自分の顔を直接見ることはできず、しかも、自分の顔は他者たちの顔との比較においてのみ、それとして認識される。もし私たちが、生まれてこの方ただの一度も他者の顔を見たことがなく、鏡の中の自分の顔しか見たことがなければ、その鏡像を自分の顔と認識することさえできないだろう。

 「通り抜けは容易になされる。というのは、それには違反も禁止もないからだ。創造的想像力によって生み出されるような不思議の国はない。客観的自己がないように、夢幻的自己も存在しない。内部と外部とは、互いに交換可能で、あらゆる内省的努力とあらゆる逃避的願望を無意味にする。主体は客体であり、客体は主体なのだ。鏡の通り抜けは、悲劇性のない穏やかな自殺に似ている――傷は感じられないほどかすかだが、致命的なのである。」(285頁)

 ここで言われている「通り抜け」とは、鏡のこちら側と向う側との間の通り抜けのことである。鏡の彼方の見えない世界が失われたとき、鏡のこちら側もむこう側も同じ世界に属する。ルイス・キャロルの作品の中でアリスが転がり込んだような鏡の向こうの不思議な国はもはやどこにもない。

 「鏡の森、あるいは『鏡の砂漠』は、二十世紀を席巻し、十七世紀が繰り返し強調したあの教訓――人間とは影とはかなさ以外のなにものでもない――を、そこから神秘的効力はすべて取り除いた形で、絶えず人々に思い起こさせた。ボルヘスが「無言の表面」と言い表した鏡、人が住めず、分け入りがたく、『そこではすべてが出来事で、何事も思い出ではない』この鏡は、隠喩を用いて言ってみれば、直接性と、無言劇と、忘却の現実世界をまさしく意味している。」(288頁)

 鏡は物質であり、その表面の反射の向う側に湛えられ、記憶された思い出などというものは、もはや荒唐無稽な作り話でしかありえない。

 「鏡の通り抜けはまた、伝えられないもの、混乱、そして虚無にも通じている。世界は持っていた明瞭さを失い、そしてこの混沌のなかで自我はおのれ自身が細分化されているのを知覚する。主体の一体性と独立は、一時的で相対的な錯覚でしかないのである。」(289頁)

 鏡の向う側に自律した主体が潜む場所はもはやない。鏡の手前のこの私は、この世界において無数の関係性の束に過ぎず、それらの関係性の間で引き裂かれている。そこで確保されうる主体性は、安定した存在の自己同一性ではなく、束の間の夢幻的な整合性に過ぎない。

 「なんじ自身を知れという人間主義的目標に、無関心と解体とが取って代わる。鏡は、可視の世界と不可視の世界との何らかの相関関係を提示することを拒み、いっさいの象徴的機能をみずからに禁ずる。鏡に映った像の劣化が錯乱の明らかな兆候のひとつであり、無関心がその行き着く先であるということを、神経精神科医は知っている。これは世紀末の芸術が体験するとみられる、逆さの鏡像段階である。」(289頁、一部変更して引用)

 私たちが鏡の向う側の見えない内面世界を自らに拒否するとき、鏡は私たちにただ自己の虚像を送り返すだけの道具になり、「私はどこにいるのか」という問いの答えを探求するための途をその中に見出すことはもはやできない。その結果として、私たちは、逆説的にも、すべてが虚構化したこの〈現実世界〉の中に投げ出され、そこで自分を見失う。鏡像の彼方への志向性を失った現代人は、自分が〈現実世界〉だと信じているこの世界の虚構性を前に茫然自失している。