内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

〈虚空〉に包まれ、今ここに佇み、沈黙の声を聴く

2013-07-04 06:00:00 | 随想

 このブログを6月2日に立ち上げて、その日から今日まで毎日更新してきた。書き残しておきたいことは、書けば書くほど具体的なテーマとして、次から次へと頭に浮かんできて、今日はどれにしようかと迷うほどになり、毎日ブログの記事を書くことが習慣化しつつある。どなたがどのようにこれらの拙い記事を読んでくださっているのかはわからないが、この習慣化のおかげで、これまで普段からあれこれ考えてきたことを、日毎、ある一つの問題として整理しつつ、それにできるだけ明確な形を与えることができるようになっただけでも、私にはこのブログを始めた甲斐があった。
 ブログを始めて間もない頃、6月28日予定されていた研究発表のことを記事にした。発表のテーマは、「虚空と充溢せる大地 ― 〈無〉、黙し、開かれ、受容する媒介者 ―」であった。そのときは、フランス語の発表原稿を準備しつつ、それと並行して、このブログでもその内容を記事にしていくつもりで、そのように予告もしたのだが、フランス語原稿の方が思うように進まず、ブログでそれを取り上げることも、中途半端な形でしかできなかった。原稿も結局発表前日までに仕上げることができず、当日は、かなりの部分、メモだけを頼りに発表した。そのうえ、私の順番が回って来るまでに、すでにプログラムの予定時間を大幅に超過していたので、発表の途中で司会者から急かされ、不本意ながら原稿の後半は全部切り捨て、簡単な結論を付けることさえできなかった。その意味では、不満の残る発表だったが、それにもかかわらず、聴衆からの反応は意外なほどよかった。発表中も、言葉が聴き手に届いているという手応えがあったが、発表後の質問も活発で、それに応えることで、発表できなかった部分についても、いくらか補うことができた。
 受けた質問の中で特に印象に残ったのは、別の発表者で、ソルボンヌで音楽史と音楽論を講じ、特にヨーロッパ18・19世紀における音楽と絵画と文学の関係を研究し、リストの伝記をスペイン語でも出版している女性研究者から、「私たちヨーロッパ人が "Le Ciel vide" (虚空) と聞いてまず思い浮かべるのは、神のいない空虚な空間ですけれど、あなたが言う『虚空』は、何かそれとはまったく違った、根源的で豊かなものなのですね」という質問だった。その場ではそれに対して手短な回答にとどめざるを得なかったが、発表では読む時間がなかった原稿の結論部には、この質問に対する答えになる一節が含まれていた。その発表できなかった部分も含めて、完成原稿は来年には論文集としてフランスで出版される(今日の編集会議で、私がその論文集の後書きを書くようにとディレクターからほとんど拒否できない仕方で頼まれてしまい、また一つ夏休み中の仕事が増えてしまったが、それだけ信頼してくれているということなのだから、ありがたい話としてお引き受けした)が、日本語で出版される予定はないので、その結論の一部をここに要約して記しておく。
 世界内存在である私たちは、それにもかかわらず、空を〈虚空〉として見ることができ、その〈虚空〉に、私たちは、無限に、そして永遠に、受け入れられている。私たちは、〈虚空〉に、生誕以前にすでに招かれており、死後永遠にそこにとどまる。私たちは、自分たちが〈どこ〉におり、〈何〉であるか、という問いの答えが、沈黙のうちに〈虚空〉に鳴り響いているのに耳を傾けるよう、常に〈虚空〉から招かれている。その答えを自分たちの内に探しても無駄である。私たちの内には、可能態としての私たちしか見出されえないから。沈黙のうちに〈虚空〉に鳴り響くその答えをよりよく聴き取るためには、まず、私たちのうちにざわめく概念の雑音を沈めなくてはならないだろう。その雑音は、私たちを〈虚空〉から遠ざけるだけだから。
 現象に満ち満ちたこの大地にあって、私たち人間存在は、自分を世界の諸々の構成要素に繋げる水平に拡がる諸線と、無限の開けとしていつも私たちを待ち続け、いつでも受け入れてくれる〈虚空〉へと私たちの眼差しを導く垂直線との、いわば、交点そのもの、世界を無限に超え包む〈虚空〉へと世界が開かれる転回点そのものなのである。