普通、私たちが探しものをする時は自分が何を探しているのかわかっている。それは、仕事上の大切な書類、電車の中で落としてしまった携帯、久しぶりに会う友達との約束の場所、数年前に失踪してしまった家族の一人など、いろいろありうるが、探し始める時には、自分が何あるいは誰を探しているのかわかっている。だからこそ、その探し物あるいは探し人を見つけることができる。もし何を探しているのかわかっていなければ、何あるいは誰を見ても、それは自分の〈探している物・人〉として立ち現れることはないから、決して〈見つける〉ことができない。
とはいえ、「職を探す」というときのように、必ずしも、自分が何を探しているのかはっきりしないままに探し始めることも現実にはある。例えば、職種については、希望がはっきりしていたとしても、いくつかの求人の条件を見比べて、いったいどれが自分の探している職なのか、決めかねるということも大いにありうるだろう。そのように探し続けているうちに、自分が一体職業として何を求めているのか、だんだんとはっきりしてくるということもあるに違いない。あるいは、「これだ」と思って就職を決め、働き始めてみて、「やはりこれは自分の探していた仕事ではない」と気づくという苦い経験をした人たちも少なくないだろう。
さらには、誤って探すということも、私たちの人生にはある。探し物はすでに目の前に置かれてあるのに、あるいは探している人は目の前に立っているのに、それと気づかず、別の場所にその物・人を探しに行ってしまう。しかし、この場合でも、そのことに気づけば、それはそれで目的が達成されたのだから、私たちはそこで探すことをやめる。自分の探し物・人は、探し始める前から、すでに見出されていたのだ、と気づく。
ただ、上記のいずれの場合についても、共通してこれだけは言えそうなことは、決して見つからないとわかっていて探すということは誰もしないだろう、ということである。どんなに困難な状況であれ、わずかでも見つかる可能性がある、あるいはそう信じているからこそ、探し続けることができる。見つかることが決してないとわかっているものを探すということは、だから、私たちにとってまったく想像しがたいことのように思われる。
しかし、けっして見つかることのないものを、そうと知りつつ探し続けることによってのみ、私たちに開かれてくる経験の次元がある。この〈探す〉ことの純粋経験とも呼ぶべき次元が開かれてくるためには、私たちには何が見出しうるのかということ、つまり私たちの認識の限界が繰り返し問い直され、それに対してその都度可能な限り厳密な答えを出し続けなくてはならず、その上で、見出されたもの、あるいは見出しうるものすべてを、一つ一つ排除していかなくてはならない。なぜなら、それらすべては見出された瞬間に私たちに探すことをやめさせるから。
このようにして私たちに開かれてくる〈探す〉ことの純粋経験において、〈けっして見出されえないもの〉がまさにそのままそれとして現成する。それを「神」と呼ぶかどうかは、また別の問題である。それよりも根本的なことは、このような〈探す〉ことの純粋経験は、いわゆる信仰のあるなしかかわらず、すべての人にありうることだということである。