今日のテーマは、20世紀において鏡の中で消失した内的自己同一性。
19世紀、日用品として鏡が庶民の生活の中に広まっていく。それまでは主に都会で普及していた鏡が地方へ、そして農村へと次第に受け入れられていく。19世紀がそのような鏡の大衆化の世紀だとすれば、20世紀は、鏡像の氾濫の世紀だと特徴づけることができるだろう。もちろん、自己像の変容という問題に限ったとしても、写真による自己像の定着の一般化が自己認識の新たな段階を画し、さらには動画の普及が自己像のさらなる意識化を日常化・大衆化したことの帰結を無視することはできないが、それらのテーマは、今回の講義の枠を超えてしまうので、それらについての考察は、後日を期したい。
鏡が日常生活の隅々まで行き渡っている今日、鏡の中の自己像を注意深く観察することで、そこに見えない〈彼方〉を探し求めようとする欲求はほとんど失われてしまったと言っていいだろう。私たちが鏡の前に立つとき、そこに見るのは、他者がそのように見るであろうと私たちが信じている私たちの姿であり、それ以上ではない。私が鏡の中に見ている鏡像はもはや何か見えないものの〈似姿〉ではなく、この〈私自身〉なのだ。そこにはもはや何ら神秘的な影はない。私たちは、鏡像の〈向こう〉あるいは〈手前〉を、見えないものとして隠された自己の〈内部〉として、そこに自己同一性を探すことも止めてしまった。そのかわりに、科学的に解析可能な脳内の諸機能・諸現象に、あるいは解読可能な遺伝情報に、自己同一性の根拠を求める。この意味で、自己の〈内部〉は私たちから遠ざかり、消失しようとしている。鏡の向こう側に逃げていく自己の〈内部〉を追いかけようとは、今さら誰も思わないだろう。それはまったく空しい試みに終わるだろうから。
今日、自己同一性の喪失ということが問題になりうるとしても、それは精神医学、臨床心理学、社会心理学などの分野で取り扱われるべき問題だとされる。しかし、それらいずれの分野においても、鏡の向う側の世界などという、「荒唐無稽な」虚構は、まともに取り上げられることもない。鏡像の氾濫は、鏡像がかつて帯びていた神秘性をそこから完全に奪い去ることで、鏡像を虚像化し、鏡像の彼方という〈非在〉を私たちの生から抹消し、私たちが自らの内的自己同一性をそこに探求する方途を閉ざしてしまったのである。