ストラスブールから両親宛に送られた手紙のうち、同書簡集に収録されている最後の手紙の日付は、1932年2月11日と推定されている。
同年、レヴィ=ストロースは、学生時代の友人たちの中で政界へ打って出た何人かのおかげで、パリの戦争省にポストを得る。大臣付きの秘書官の一人として、情報整理を職務としていたようである。
このパリでの数ヶ月の勤務の後、リセの哲学教師としての最初の任地である Mont-de-Marsan(ボルドーから100キロほど南に位置する)にレヴィ=ストロースを見出すのは、同年の夏の終わりのことである。この地からの最初の両親宛の書簡は、9月22日と推定されている。
この書簡を読み始めてすぐに気づくのは、それまでの書簡では自分のことを語るのに主に人称代名詞一人称単数 « je » が用いられていたのに、それが複数 « nous » に取って代わられていることである。ここに、突如として、一人の女性が登場するのである。
名前はディナ(Dina)。イタリア系ユダヤ人で、子供の頃に両親とともにローマからパリに移住してきた。レヴィ=ストロースと同じく哲学の教授資格を持った女性である。この女性がレヴィ=ストロースの最初の妻となる。
しかし、二人がどこでどのようにして最初に出会ったのかは、書簡集からはわからないし、同書簡集と同時に刊行された、Emmanuelle Loyer の浩瀚なレヴィ=ストロースの伝記を見ても、いくつかの仮説を立てることにとどめている。あるいは、ソルボンヌの哲学の講義で机を並べていたとき、あるいは、共に熱心な社会党員だったとき、あるいは、レヴィ=ストロースがストラスブールからパリに戻っている間等々。(Emmanuelle Loyer, Lévi-Strauss, Flammarion, coll. « Grandes Bibliographies », 2015, p. 100-101)。
最初の任地での新婚生活は、アパート探しなど、生活の立ち上げに必要なあれこれの手続き・雑用等に関しては、事がそうすんなりとは運ばず、二人は失望することもあった。が、それでも、二人は幸せである。そのことが文面からわかる。そんなときにも、しかし、レヴィ=ストロースは、両親への気遣いを忘れない。最初の書簡から最後の一節を引く(Lévi-Strauss, op. cit., p. 162)。
Dina est épatante et a pris tous ces ennuis et cette arrivée décevante avec une bonne humeur et une gaîté merveilleuses. Je crois que ce séjour ne sera pas malheureux ! J’espère que vous ne vous sentez pas trop seuls – nous reviendrons dans trois mois !
Je vous embrasse,
Claude