内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

リス君、この秋、初お披露目、激写

2015-11-15 11:47:05 | 写真

 昨日は、番外編として、その前日のパリ同時多発テロについて書いた。次第に実行犯たちの像がはっきりしてきているが、この未曾有の大惨事について分析するにはまだ情報が十分でもないし、このような深刻な話題について連日書くのも辛い。
 昨日は、テロの衝撃で、深夜から早朝にかけての数時間、何も手につかなかった。ネットでテロのニュースを追いながら、暗澹とした気持ちだけが心を満たしていった。
 それでも、21日に迫ったシンポジウムの発表原稿を仕上げようと、日課の水泳の後、朝から結論の執筆に取り掛かり、一段落したところで昼ご飯にした。食後、コーヒーを飲みながら、ふと書斎の窓から外をみると、すぐ近くの枝で、小栗鼠が何やら木の実を食べているではないか。
 前日の午後、枝から枝へとサーカスのアクロバットのように伝っていくのを一瞬見かけたから、この秋の本当の初お目見えは昨日だっのだが、とても写真を撮る余裕などなかった。
 ところが、昨日は、リス君も食事中で、枝の上でじっとしている。これぞシャッター・チャンスとばかり、やおらカメラを手に取り、窓をそおっと開けてベランダに出る。リス君はもう夢中でカリカリ木の実を食べている。ズームで見て、胡桃を食べていることがわかった。どこで手に入れたのだろう。小さな細長い指で巧みに殻をしっかり抑え、前歯で実を砕いている。もう真剣そのものである。美味しくてしょうがないのだろう。途中で殻の半分を落としてしまい、残念そうに下を覗き込んで探していたが、諦めたのか、また残り半分をカリカリ食べ始めた。その間およそ二十分。結構食事に時間をかけるものである。胡桃一個は、彼にとって大ご馳走だったのだろう。
 設定をいろいろ変えながら、50枚ばかり激写する。下の写真は、その中で比較的よく撮れていたものである。

                  


『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(4)― ストア哲学の二つの部分(1)「教化」

2015-11-15 10:42:40 | 読游摘録

 摘録を続けている Ilsetraut Hadot の本の第一部第二章は、« « Parénétique », « dogmatique » et direction spirituelle » と題されており、ストア哲学を構成する二つの部分について、セネカのルキリウス宛書簡第94,95番に基づきながら、両部分それぞれの内容と両者の密接不可分な関係を明快に説明している。

 その二つの部分は、同章のタイトルにもあるように、それぞれ « parénétique » « dogmatique » と規定されるが、前者は « pratique »、後者は « spéculative » ともセネカ自身によって言い換えられてもいる(ルキリウス宛書簡第95番第10節参照。ただし、Robert Laffont 社の « BOUQUINS » 版の仏訳では、前者は « active » と訳されており、この方がラテン語原文に忠実である)。しかし、今日の通常の意味での「実践的」と「思弁的」とにそれぞれ対応させ、後者のみが本来の哲学だ考えると、ストア哲学の要諦を読み違えてしまうことになる。
 同書簡の当該箇所を見てみよう。

Praeterea nulla ars contemplativa sine decretis suis est, quae Graeci vocant dogmata, nobis vel decreta licet appellare vel scita vel placita; quae et in geometria et in astronomia invenies. Philosophia autem et contemplativa est et activa: spectat simul agitque. Erras enim si tibi illam putas tantum terrestres operas promittere: altius spirat. Totum inquit mundum scrutor nec me intra contubernium mortale contineo, suadere vobis aut dissuadere contenta: magna me vocant supraque vos posita (Epistulae morales ad Lucilium, Liber XV, 95, 10).

 哲学は、同時に « cotemplativa » であり、« activa » なのである。今日のところは、後者に対応する « parénétique » の意味だけを確認しておこう。
 まず、 Le Grand Robert によれば、この形容詞は、« parénèse » という名詞の派生語で、この名詞自身は、ラテン語の « paraenesis » を直接の語源とし、このラテン語は、ギリシア語の « parainesis » の音写である。このギリシア語の意味は、(善き行いを)「説き勧めること」(exhortation)である。そこで、« parénétique » は、「教化的」と訳すことにする。
 先回りして言っておけば、« dogmatique » の方は、「教説的(あるいは教義的)」と訳すことにする(今日のフランス語でのこの語の普通の意味、「教条的」「独断的」は、ストア哲学においてこの語の指し示すことがらのまさに反対であることに注意されたし)。
 哲学の「教説的」な部分は、何をその目的とするのか。一言で言えば、それぞれの個人が社会の中でのその立場にふさわしい行動ができるような諸々の「教え」(« praecepta »)を与えることである。
 それらの教えは、しかし、ただそれとして与えられるだけではない。次のような諸形式を取る ― « suasio », « consolatio », « exhortatio », « inquisitio causarum », « ethologia »。それぞれ、「助言」「慰め」「奨励」「原因究明」「徳論」(種々の徳行と悪行それぞれの特徴の詳細な記述)と訳すことができる。セネカは、ここでポシドニウスの説に従いながら、これらを列挙している。